狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

本当のユダヤ人であるパレスチナ人が偽ユダヤ人に虐げられている世界最大の矛盾・・・イギリスの三枚舌外交、イルミナティ・フリーメーソン

2012-12-27 23:49:55 | パレスチナ 2012~2017
 総タイトル:【本当のユダヤ人であるパレスチナ人が偽ユダヤ人に虐げられている世界最大の矛盾・・・イギリスの三枚舌外交、イルミナティ・フリーメーソン】

 中東地域は、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の世界三大宗教の聖地エルサレムを擁し、エネルギーの要である石油の世界全体確認埋蔵量の内の約6割を埋蔵し、位置的にもアジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸の中心地でもあり、世界の中心地です。
 2012年11月29日パレスチナ自治政府の国連での資格を「オブザーバー組織」から「オブザーバー国家」に格上げする決議案を採決し、賛成138、反対9、棄権41の賛成多数で可決しました。現在まで散々イスラエルに虐げられていたパレスチナ人達に、ようやく希望が見えて来ました。しかし、元々はパレスチナ人がアブラハム-イサク-ヤコブの子孫であり、その為に主がその先祖のアブラハムに約束の地としてカナン(パレスチナ)を与えた事を根拠にしてパレスチナ人がその地に住む事が当然であり、元々はカザール人でユダヤ教に改宗してアブラハムの子孫ではないアシュケナジー・ユダヤ人は、その根拠が成り立たない為にその地に住む理屈が通じない事となります。又、1492年にスペインに追放されたスファラディー・ユダヤ人は本当のユダヤ人ですが、現在のイスラエル国内では二級以下の市民としての扱いを受けています。逆にアシュケナジー・ユダヤ人が高い地位を占めています。
 パレスチナ人は、A.D.70年にローマ帝国にユダヤの国が滅ぼされた時に世界に散らされずにその地に残った人達です。ユダヤの身分の高かった人達は奴隷として連れて行かれたりサンヘドリンの様に地下に潜る等して世界各地に散らされましたが、農業等を営む下層の人達はそのままパレスチナの地に残り、後にパレスチナ人と言われる様になりました。一方のアシュケナジー・ユダヤ人は、カスピ海北方から黒海沿いに存在していたカザール王国の人達を先祖に持ち、ユダヤ教に改宗しただけでアブラハムと血の繋がりが無い為に、バルフォア宣言において表明された「シオニズム」政策(イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しようという運動)には適合しません。
 それらの事を暴露した本が以下に在ります。
 
ユダヤ人の起源 歴史はどのように創作されたのか

ユダヤ人の起源 歴史はどのように創作されたのか 価格:¥ 3,990(税込)発売日:2010-03-26
 
ユダヤ人とは誰か―第十三支族・カザール王国の謎

ユダヤ人とは誰か―第十三支族・カザール王国の謎 価格:¥ 2,018(税込)発売日:1990-04

 イスラエルが建国される前まではユダヤ人とアラブ人は平和の内に暮らしていたのですが、イギリスの三枚舌外交、又その背後に存在するイルミナティー・フリーメーソンによってアシュケナジー・ユダヤ人が使われて、今日までのパレスチナ問題を始めとした中東問題が作られました。しかし前記の様に今やイスラエルも使い捨てされつつあり、イルミナティー・フリーメーソンの世界支配の目的には不要とされて来ています
 イギリスによる第一次世界大戦後の三枚舌外交は、以下になります。
 1915年: フサイン=マクマホン協定(メッカの太守であるフサイン・イブン・アリーとイギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンとの間でやりとりされた公開書簡で、オスマン帝国支配下におけるアラブ人居住地の独立支持を約束)、1916年:サイクス・ピコ協定英仏による中東(オスマン帝国の領土)分割・パレスチナを国際管理下とする秘密協定)、1917年:バルフォア宣言(イギリスの外務大臣アーサー・ジェームズ・バルフォアが、イギリスのユダヤ人コミュニティーのリーダーであるライオネル・ウォルター・ロスチャイルドに対して送った書簡で公開表明されたシオニズム政策(パレスチナにおけるユダヤ人居住地の建設))。
 又、16世紀以降パレスチナの流れは以下となります。
 1517年:マムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国がパレスチナの地を支配。
 1915~1917年:イギリスによる第一次世界大戦後の三枚舌外交
 1920 - 1948年:イギリスによるパレスチナの委任統治。決議案は1922年7月24日に国際連盟理事会で公式に承認され、1923年9月26日に発効。
 1948年5月14日:イスラエル独立宣言。ユダヤ人の人口はパレスチナ人口の1/3に過ぎませんでしたが、1947年の国際連合総会では、パレスチナの56.5%の土地をユダヤ国家、43.5%の土地をアラブ国家とし、エルサレムを国際管理とするという国連決議181号パレスチナ分割決議が、賛成33・反対13・棄権10で可決。
 1948年5月15日~1949年7月:第一次中東戦争(パレスチナ戦争)。アラブ諸国とイスラエルとの戦争。イスラエルがパレスチナの80%を占領し、残り20%はトランスヨルダンが占領。停戦時にエジプト軍が保持していたガザ地区はエジプト領。エルサレム旧市街を含むヨルダン川西岸地区はトランスヨルダン領に編入。聖地エルサレムは旧市街を含む東部をヨルダン、旧市街を含まない西部をイスラエルが領有。パレスチナ難民が発生しガザ地区に。アラブ諸国のユダヤ人住民40万人がイスラエルに移住。パレスチナ人は家屋・財産を没収される。
 1956年10月29日~1957年5月:第二次中東戦争(スエズ戦争)。エジプトとイスラエル、イギリス、フランスがスエズ運河を巡って起こした戦争。1956年7月エジプトがスエズ運河国有化を宣言し、その阻止を目的とした戦争。英仏はスエズ運河を喪失。
 1964年5月:PLO(パレスチナ解放機構)結成。
 1967年6月5日~6月10日:第三次中東戦争(6日戦争)。イスラエルとアラブ連合(エジプト、シリア、ヨルダン)の間の戦争。イスラエルはガザ地区ヨルダン川西岸地区の支配権を獲得しパレスチナを統一、シナイ半島ゴラン高原を軍事占領。国際連合安全保障理事会は停戦決議を可決。
 1967年11月:国連安保理でイスラエルの占領地からの撤退、中東地域の航海自由の保障、避難民問題の解決などを決議。
 1973年10月6日~10月26日:第四次中東戦争(ラマダーン戦争)。イスラエルとエジプト、シリア等の中東アラブ諸国との間で行われた戦争。
 1973年10月17日:アラブ石油輸出国機構10カ国はイスラエルを占領地から撤退させるまで石油生産の5%以上を毎月削減するとの決議を可決。石油危機(第一次オイルショック)
 1974年10月:PLOが国連でオブザーバーの地位を獲得。
 1978年4月:シナイ半島がエジプトに返還。
 1978年6月:レバノン戦争。イスラエルがレバノンに侵攻。レバノン内戦:1975年~1990年
 1978年9月:キャンプ・デービッド合意
 1979年2月:イラン革命。第二次オイルショック
 1979年3月:エジプト・イスラエル平和条約
 1980年3月1日:国連安保理で、イスラエルが1967年以降、アラブ側の領土を占領し、また入植地を建設した行動を全て無効とし、速やかな撤退の要求を決議。
 1987年~1993年:イスラエル占領地でパレスチナ人の抵抗運動である第一次インティファーダが発生。「石の闘い」
 1991年10月:マドリードで中東和平会議
 1993年8月20日:オスロ合意(1993年9月13日:オスロ協定調印)。イスラエルを国家として、PLOをパレスチナの自治政府として相互に承認。イスラエルが入植した地域から暫定的に撤退し、5年にわたって自治政府による自治を認める。その5年の間に今後の詳細を協議。
 1994年:パレスチナ自治政府発足。ヨルダン川西岸地区およびガザ地区を管理。
 2000年~2005年:第2次インティファーダ
 2008年12月27日~2009年1月18日:ガザ紛争。イスラエル国防軍とパレスチナ自治区のガザ地区を統治する「ハマス」による武力紛争。
 2010年12月18日~2011年:アラブの春。チュニジアでの暴動によるジャスミン革命から、アラブ世界に波及。大規模反政府(民主化要求)デモや抗議活動を主とした騒乱。
 2011年9月23日:パレスチナが史上初めて国際連合への加盟申請
 2011年10月31日:パレスチナ国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の加盟国として承認。
 2012年11月29日:パレスチナの国際連合総会においての参加資格を「オブザーバー組織」から「オブザーバー国家」に格上げする決議案が賛成多数で承認。
 1993年のオスロ合意後にパレスチナ自治政府が発足し、その後、石の蜂起(インティファーダ)、テロ、攻撃、紛争等、イスラエルとアラブ諸国との関係改善が無く、パレスチナ問題も昨年までは殆ど前進が有りませんでした。因みに日本も1990年のバブル崩壊後はデフレの状態から抜け出せず、前進していません。但し、中東地域と異なって日本の国民は戦争を知らず、平和ボケしている大きな違いが有ります。しかし、パレスチナと日本が共に前進していないのは、同じ血が流れているせいなのかもしれません。