狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

「道徳の教科化」により日本人は変わるのか

2013-11-10 12:44:17 | エッセイ・コラム
 先日、文部科学省の道徳教育の充実策を検討する有識者会議において、「道徳の正式な教科化」への「格上げ」が提言され、今後に報告書が提出されて年内に最終的な意見がまとめられる事となりました。
 ところで、戦前には「修身」と言う素晴らしい「道徳教育」が有りました
 しかし戦後、GHQによる「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」による日本人への戦争責任と戦争についての罪悪感の植え付け等によって、戦前の良い事を含めた全てのものを、米国の押しつけにより、或いは日本人が自ら否定する事で、その「修身」をも捨ててしまいました
 戦前の日本には、善きものが沢山在りました。しかし戦後、米国による占領と事実上の米国属国状態下においての、アメリカの「民主化」・「近代化」が素晴らしいものであると勘違いされ、騙されて来ました。自然環境が破壊され、心身共に本来の人の在り方から離れて「不自然」な状態に陥っていまい、皆ストレスを抱えて、凡そ本当の意味で幸せとは言えない状態になってしまっています。
 「修身」は、戦前の日本人にとっての「規範」となっていました。それを「基準」にして、自分を律し、それが秩序にも繋がっていました
 人の考え方や捉え方、判断の仕方、人の心の理解の仕方等は、「規範」・「基準」を基にして創られていきます。戦前には一応、「修身」が存在してその務めを果たしていました。
 しかし戦後、日本にはその「規範」が存在しませんでした。「基準」にするものが無く、「民主化」や「自由」と言う名の下、何でもして良いと勘違いをし、自分の欲望のままに行動したり発言し、歯止めにするものも無い為に悪化して来ました。
 また「規範」が無いのと同時に、世間一般・社会の中では「空気」や「常識」、「普通」が存在し、それらに合わせ様とか、はみ出さない様にとか、異ならない様にとか、嫌われ無い様にしようとか、笑われない様にしようとかと言う、自分の神経症的な思いを「基準」にする、或いは世間の思いを「基準」にしているだけで、益々自律及び自立する事が出来ずに、心は益々荒廃して来ました。
 正しい「規範」を基にしていない「空気」や「常識」、「普通」と言うものにはその「根拠」が無い為に、とかく間違っている事が多いです。国、地域、社会、世間、会社、学校、組織、団体等、その各枠内において「空気」や「常識」、「普通」と言うものがそれぞれ存在します。一応、憲法や法律、規則等を作って全体としての秩序や、個人の理性や善悪の分別、方向性、行動範囲、自由度等を定めています。そして、法律に違反する場合には、裁判を経ての処罰等の対応を取る事となっています。
 しかし、憲法や法律、規則と言うものは完全では無い人間が作るもので、勿論それらは不完全で間違いが含まれています。また全体の秩序やまとまりを優先する為に、特に少数派の考え、個性的な考えは「違反」とされてしまいます
 社会・世間の中での慣行・慣例・仕来り等も併せて、また出世の為に、世渡り上手になる為に、権力、権威、上司等に只々媚びへつらい迎合しているだけで、その事が正しいか否かの判断もせずに、ただ単に命令に従っているだけであります。
 この社会・世間には「偽善」や「矛盾」が沢山在ります。その「偽善」や「矛盾」が生まれる原因が、「規範」が無い事に在ります。
 そういう意味で、「規範」となるべく「道徳教育」は大事に思います。しかし戦後、GHQによって建てられた「日教組」は、その間違った歴史認識や偏向教育を行なって「反日的教育」を行なってきました。それにより、若者たちが「骨抜き」にされて来ました。
 しかし、人は不完全であるが故に、人の言う事は区区(まちまち)で、「規範」にしようとするものも色々なものが生まれてしまう可能性が有ります。それにより教育現場は混乱し、教師は迷い、そして生徒は振り回される事になりかねません。
 インターネットでの情報の氾濫と同様に、自分自身に「基準」にするものを持っていないと、自分が多様な情報や人の言う「雑音」・「外野の声」等に振り回されて自分を見失ってしまいます。「規範」もその当てにするものによっては、自分が思わぬ方向にずれてしまう可能性が有ります。
 人の生死等の究極的な問題に関しては、哲学や宗教が重用されます。結局最終的には、それらに頼らざるを得ない訳です。哲学は人の考えで、元々は宗教を元にして生まれたものです。宗教も、宗教組織や人の都合、政治等によって形成されて来ました。また宗教の枠組の中には、様々な神々や仏々、偶像群が存在しています。数学や理科等の科学において「答えがただ一つ」である事にも現されている様に、「真実は唯一」です。多くの神々や仏々、偶像群が存在していても、その中で正しいものは「ただ一つだけ」であるのです。
 世界の三大宗教である「ユダヤ教」・「キリスト教」・「イスラム教」の信者の総計数は世界人口の半数以上を占めますが、それら三大宗教の元を辿れば「旧約聖書」に辿り着きます。その「旧約聖書」には創造主である唯一神が存在します。そして神からの預かった言葉である「預言」が書かれています。それら三大宗教の全ての信者が「旧約聖書」を「規範」として完全にそれに忠実に従っている訳では無いにしても、また宗教組織の教えを優先して聖書の教えを蔑ろ(ないがしろ)にしているとしても、一応、その信者達にとっては「旧約聖書」と言う「規範」が存在している訳です。絶対的真理で不変で完全な唯一神が存在している訳です。
 それに比べて、日本人にははっきりとした「規範」が有りません。心の拠り所となる、絶対的な「基準」やその「根拠」が存在していません自分の願い事・都合に合わせてコロコロとすがる神々を転々とし、キリスト教形式で結婚式やクリスマスのお祭りをするかと思えば、仏教形式の葬式を行なっています。その様に、自分の中に「基準」・「柱」にするものが無いので、筋も通らず滅茶苦茶な訳です。
 人間は全てを知り尽くす事は出来ず、人間の作る科学も所詮、自然や宇宙に比べればチッポケなものでしか有りません。人間は自然や宇宙だけでは無く、今や自分で作った原発等の科学にも超されて支配される様になってしまいました。人間が自分の能力で解決しようとしても無理が有ります。多様な意見を尊重する反面、永遠にまとまりません。しかし実際には、「答えはただ一つ」であるのです。絶対的に依り頼める「神」と言う視点が無いと、何時までも解決する事は不可能です。道徳教育の問題を通して、全知全能で永遠の創造主に人は立ち返る必要が有る様に思います。