狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

自分の「欲望の奴隷」とならずに、創造主の「御心」を知って、それに委ね従う事が必要・・・「しがみつかない生き方―『ふつうの幸せ』を手に入れる10のルール 」を読んで

2013-10-26 01:50:08 | エッセイ・コラム
 総タイトル:【自分の「欲望の奴隷」とならずに、創造主の「御心」を知って、それに委ね従う事が必要・・・「しがみつかない生き方―『ふつうの幸せ』を手に入れる10のルール 」を読んで】

 「しがみつく」とは、「執着」「拘り(こだわり)」「囚われ(とらわれ)」
 「拘り」・「囚われ」とは、「拘束」、「囚人」、「不自由」であり、それは「奴隷」状態に在ります。何かの目標を持ったり、欲望を持ったりする事は、結局は「欲望の奴隷」となってしまいます。
 「しがみつかない生き方―『ふつうの幸せ』を手に入れる10のルール 」(著者:香山リカ氏、出版日:2009/7/30、出版社:幻冬舎)
 上記の本を読みました。
 「ふつうの幸せ」「ふつう」に設定する基準は、何処に、どのレベルに置くかは人それぞれによって異なりますが、世間一般的には、「世間」や「空気」、「多数派」、「マスコミ」の言う事と同類である事を「普通」としています。しかし、その「普通」が決して正しい訳では有りません
 世間・社会の中に在って少数派であろうとも(俗に言う「普通」では無くとも)、自分の精神・心の上で自由や解放感が有り、マイペースであると言う、自分にとっての「自然な状態」が、自分にとっての「普通」であると思います。しがみつき拘る事は心が奴隷状態に在り、それはストレスを招く「不自然」な心の状態です。心の本来の状態(この世に生まれた時の状態)である、ストレスの無い「自然な状態」が、「本当の普通」です。世間・多数派の「偽りの普通」に合わせていると、却ってストレスは溜まってしまいます
 その「普通の基準」について、世間や社会のマジョリティー(多数派)にとっては周りの「世間・社会を基準」にしています。つまりそれは、周囲の人の顔色や反応、評判を気にしている事で、笑われない様にしようとか、見栄を張ったりする事で、常に「群れ」で行動し、最も未熟で幼稚な人達です。その様な人達よりも次元(レベル)が高いのが、「自分を基準」にしている人達で、主体的に考えた上での主義・主張・イデオロギーを持ち、マイノリティー(少数派)として、孤独にマイペースに、本当の自分にとっての普通で居る人達です。
 それらの人達よりも、人間として最も次元(レベル)が高く、最も成熟した人達は、「神を基準」にしています。神は「真理」であり「真(まこと)」です。その「真理」・「真実」を基準・規範にする事は、正しい考え方・捉え方・判断の仕方・生き方に繋がり、「世間・社会の考え」や「自分の考え」に依らずに、「神に従い」、「神に委ねる」ことで「本当の自由」が得られます。世間・社会の考えに合わさなくとも、わざわざ自分で考えなくとも、神に委ね従う事で、自由に、楽になります。
 故に、「神を基準」にする事が、本来の、本当の「ふつうの幸せ」であると思います。神に決められている「運命」を素直に受け入れて大きく委ねる事によって、喜んで神を賛美する事に繋がります。
 恋愛や孤独感等において感じる寂しさは、「誰か」を待ち望んでいる様ですが、同様に人に依存せずに、「神に依存」する事が、寂しさと言う心の空白を真に埋める事が出来ます。人からの愛を求めず、神が支える「本当の自立」をする事が出来ます。この世に在って孤独であろうとも、信仰の有る心には聖霊(=父である神と、子なるイエス・キリストとの三位一体)が宿っています。「alone」とは聖霊が心に存在していて寂しくない孤独であり、反対に「lonely」とは心に空白があって寂しさを感じる孤独の事です。「魂の声」とは、「聖霊の声」です。
 「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」(旧約聖書・箴言29章25節)
 ところで、就職活動などでは履歴書や面接においては自己PRをしなければならない面が有ります。この社会や世間が理想郷では無く、出来ればこの社会・世間を避けて遠ざかって生きたいと私は思うのですが、現実には社会に出て仕事をして、そこで生活の為のお金を稼がなければ、この世では生きていけません。社会の構造は強固で、それに従わざるを得ない面が在ります。自分を「出来ない者」として、自分には能力が無く、自分の力では無く「主に私は身を避ける」(旧約聖書・詩編11章1節より)等と言おうものなら、就職も儘(まま)ならない面が在ります。就職を目指す者等の様に、身分や地位が低い者の場合には、ある程度の自己PR自己主張、アピール、反論は必要に思います。結局、この世で生きて行く上では、自分の心の「純粋な理想」と、社会の「偽善」の中で生きて行く姿勢・処世術との「バランス」をとる必要が有る様に思います。その上でも、「6対4」とか「7対3」等とそのバランスの取り方は人それぞれによって異なります。一方、社会的に身分・地位が高い人達は、謙譲・謙虚さの必要性はより高くなります。
 生活の為だから等と、お金が一番等とお金にしがみつくのは勿論間違いですが、この世がお金で成り立っている以上は、額に汗して仕事をしてお金を稼ぎ、その「余裕」の部分から、募金・献金等で人々に分け与えたり、事業を起こして世の人々に貢献する事が正しい事となります。
 「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる」(旧約聖書・申命記8章3節より(新約聖書・マタイの福音書4章4節にも同様))。「主の口から出るすべてのもの」とは、「聖書」にある主の御言葉です。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。」(新約聖書・ルカの福音書6章20~21節より)
 現在の競争社会の中、「心のゆとり」が失われ、「人間の狭量化」が進み、「瞬間主義」(一瞬の勝ち負け)、「刹那主義」が進み、「寛容」を失い(自分と違う行動をする人の心を理解出来ない)、視野が狭くなっている事が挙げられています。「現世利益」は瞬間的で一時的なものですが、「魂」は永遠でこの世の後(死後)も続きます。
 世論操作を行なっている「マスコミ」を通したマーケティングに、騙されている高齢者等が多いと有ります。マスコミは「自主規制」や企業(スポンサー)、支配階級に使われている為に、自分の意見が言えず、真実を伝えず、偽りの世間の「空気」を作っています。その様な「マスコミ」や「空気」・「世論」を疑い、それらに影響されず、煽られない様にしなければなりません。
 自己の起源や根拠を問う傾向がある様ですが、人間の生と死は神の意志によるものであり、生命は「神の領域」で神に決定権が在り、神の計画の下に人の生命は置かれています。創造主によって一人ひとりの生命は造られ、人の生命はその人のものでは無く神のものです。
 同様に自分の生まれた価値、生きる意味を問う傾向もある様ですが、人は皆、神にとっては尊い存在です。そして、創造主の御計画の下に、人それぞれに「使命」・「運命」が与えられ、「神の御心」に添った生き方が、生きる上での正しい意味となります。何の為に生まれたのかは、私自身を造られた創造主(神)の為に生まれたのであって、神の為に生きる訳です。人の為と書いて「偽り」、神の為が正しいのです。
 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(旧約聖書・イザヤ書43章4節より)
 出世等の社会的成功を得られなかったり、事業や挑戦した事に失敗したり、借金、失恋、配偶者の死や離婚、不治の病、この世全てのものに信頼出来なくなる事等により、「絶望」してしまう人が多いです。「絶望」とは、神の御計画に従わず、自分の「欲望」に従う事から起こるものです。神の望みと、自分の望みは異なります。故に、「神の御心」を知って、それに委ね従う事が必要なのです。

 
しがみつかない生き方―「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール (幻冬舎新書)しがみつかない生き方―「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール (幻冬舎新書)価格:¥ 777(税込)発売日:2009-07


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「自然死」とは、死の時を、他人に決められるもの(=殺人)では無く、自分で決めるもの(=自殺)でも無く、創造主によって決められるもの(=運命)で、その運命を素直に受け入れて大きく委ねる事

2013-10-26 01:15:43 | 健康・医療・暮らし 2012~2017
 総タイトル:【「自然死」とは、死の時を、他人に決められるもの(=殺人)では無く、自分で決めるもの(=自殺)でも無く、創造主によって決められるもの(=運命)で、その運命を素直に受け入れて大きく委ねる事・・・「大往生したけりゃ医療とかかわるな~『自然死』のすすめ」を読んで】

 「自然死」とは、死の時を、他人に決められるもの(=殺人)では無く、自分で決めるもの(=自殺)でも無く、神によって決められるもの(=運命)です。つまり、神に委ねる、運命を素直に受け入れて大きく委ねる事が、「自然死」となります。
 「大往生したけりゃ医療とかかわるな~『自然死』のすすめ」(著者:中村仁一氏、出版日:2012/1/30、出版社:幻冬舎)
 上記の本を読みました。
 生命は「神の領域」であり、人が此の世に生まれる時においても、人間によって操作をする着床前診断や出生前診断、代理母出産、例外を除いた人工妊娠中絶等は行なってはならないと私は考えます。
 人の此の世の誕生や死は自分の意志で行われるものでは無く、また自分の能力によって行われるものでもありません。全能の創造主によって、生命は誕生します。創造主の計画の下に、一人ひとりの生命は創造主によってコントロールされています。一人ひとりの生命は創造主の持ち物であり、自分のものではありません。よって、他殺は勿論、自殺も「罪」となります。
 しかし、ガン等の末期症状の中で苦痛が激しい場合に、ターミナルケアにおいての疼痛緩和によるQOLの向上を図る事は仕方が無いと思い、苦痛が無く精神的にストレスの無いリラックスした状態が、精神面における「自然」な状態に思います。
 また、胃ろうや経鼻チューブ、点滴、人工呼吸器等の生命維持装置等の多くのチューブ・機器に繋がれる事も「不自然」な状態で、精神的にもストレスと言う「不自然」な状態に繋がります。大脳の機能の消失で、且つ回復の可能性が全く無く、脳幹の機能のみが働く植物人間の状態においては、人工呼吸器等の生命維持装置を外しても構わないと、私の場合には思っています。
 「大往生」とは、安らかに、少しの苦しみも無く、立派に死ぬ事です。神を信仰し運命に委ねる事で、この世の欲望等の様々なものの束縛から解放されて心の安らぎが得られ、終末医療においての疼痛緩和等の限定利用によって身体的苦痛から解放されると同時に精神面のストレスからも解放され、立派に老衰死出来るものと思います。
 濃厚医療や濃厚介護が患者の自然な平静さを奪っています。「医療が”穏やかな死”を邪魔している」、「『できるだけ手を尽くす』は『できる限り苦しめる』」(本書より)。逆に「放置」される事は、マイペースで、誰からも束縛されず、自由に、自分の思うままにいる事が出来ます。その上で、神に委ねる、運命に委ねる事が、最も自然に、俗事(世間のわずらわしい事)からも解放されて、ストレスの無い自然な心の状態に、そして人間としての最も成熟した状態になります。
 避ける事の出来ない死に関連して、告知・延命処置についての「リビングウィル」や、尊厳死について、自然災害・犯罪被害等の被災の非常時にも通用する「エンディングノート」、遺言書等を書く事は、自分の死について真剣に考える事となり、その事が生き方の見直しにも繋がります。
 メメント・モリ(死を想え、死を忘れるな)。

 
大往生したけりゃ医療とかかわるな (幻冬舎新書)大往生したけりゃ医療とかかわるな (幻冬舎新書)価格:¥ 798(税込)発売日:2012-01-30


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