狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

PTSD・・・心の傷、沖縄、理不尽な被害者、自責の念

2012-12-12 06:05:29 | 社会・経済
 日米地位協定に象徴される様に、敗戦後の戦後レジームにおける米国の奴隷国家日本の現状、中でも最も酷い沖縄県民の虐げられた状態に対する怒りを感じながら、次の放送を見ました。
 今年の8月12日に放送された「ETV 特集・沖縄戦 心の傷~戦後67年 初の大規模調査」 を、録画しておいた再放送の11月11日放送分を見ました。本土の前衛とされて本土の犠牲にされ、終戦直後から米軍による沖縄本島の全域での恒久的な基地利用が計画され、日本国と連合諸国との平和条約と旧日米安全保障条約の発行後の1953年から米軍による沖縄本島全域でのの土地の接収が行われました。1972年に戦後の占領下からの日本国復帰が成されましたが、現在、日本全国に存在する米軍専用施設の総面積に占める沖縄県の割合は73.9%、沖縄本島に占める米軍施設の総面積の割合は18.4%となっています。しかし現在までに米軍による犯罪や事件・事故が多発し、米軍機と民間機とのニアミスも日常的に発生しています。
 1995年米兵少女暴行事件2004年沖縄国際大学米軍ヘリ墜落事件等、それらの事件により、それまでにも存在していた米兵による強姦、暴行等の犯罪や米軍の事故に対する鬱憤反米感情としてはっきり表明される様になりました。しかしそれらの事件も含めて、日米地位協定によって殆ど不起訴とされています。沖縄県民の方々は日々安全が脅かされ不安感を抱くと同時に、戦争の経験者は戦後67年経った後もPTSD(心的外傷後ストレス障害)で苦しんでいます。
 此度の沖縄在住の戦争経験者へのお年寄りに対する大規模調査によりますと、戦争中の記憶によるPTSDを持っておられる方が調査対象全体の40~50%にもなります。戦後67年も経っているにも関わらず、戦争中の事がフラッシュバックして思い出されたり、不安・不眠等の過覚醒回避・忘却等の症状となって現われ、それらによって頭痛、吐き気、腹痛、パニック、不安、悪夢、鬱、感情の麻痺等が伴い、食欲不振や各種行動意欲の減退等に繋がって、日常生活も幸福感が無く送りづらい状態に陥っています。
 戦争中米軍が沖縄本島に乗り込んで、村を焼き払い、無差別機銃掃討、防空壕の中へダイナマイトを放り込んで民間人を無差別に殺害し、女性を強姦・殺害する等、それら米軍の残虐非道な行いの被害者、又はそれらを目撃した人はその理不尽な経験の記憶を負っています。又、米兵に襲われる恐れから自分の家族の者を殺害したり、親や兄弟が殺害されるのを助ける事が出来なかった事や、横たわる人を踏みつけて恐ろしさの余り自分の命しか顧みなかった事等による自責の念に陥っている方々もいます。戦争中に本土に利用され、米軍に虐待され、戦後も精神的・社会的・日常的な負担を強いられて来ました。米国の政策、日本の政治、そしてPTSDによって依然変わらず苦しめられています。戦後の占領期には、日本国復帰に向けて精神疾患を負った人達を、県民自らが恥に思って隔離してしまった経験も有ります。
 勿論、理不尽な被害に遭った方々は多大な苦しみを負っているのですが、加害者意識からの自責の念を持つ方の方がより深刻である様に思います。責任感が強く道徳・道理が解っている程に自分が「罪」を犯したと言う思いが重く圧し掛かり、後になってから後悔し反省する度合いが強くなり、自分のを責めて自ら苦しめに傷を負わせて余計に悪化しかねません。被害者の方は「罪」を自らは犯していないと言う点で、加害者意識のある方よりは未だが軽いのではないかと思います。ろくに反省もしないで前向きになる事はおざなり・無責任である様にも思え、後ろ向きとなって過去ばかりを振り返って物事が前に進まなくなってしまいます。
 私もこのPTSDの様にになった経験が有り、二十何年前の事が急に思い出されて自責の念に陥り、心が重く本や新聞も読む気になれず、外出や趣味等の行動も億劫になり、日々うっとおしい気分で少し鬱の様になりました。但し、病気や障害では無かった為に診察を受けた事は無く、労災認定にもなる深刻な状態である鬱病では無い為に、薬やサプリメントの服用は必要とせず、ただ過去を振り返っての後悔、反省、点検、見つめ直し、気持ちの整理等を行なっていました。深く思えば思う程、動く事が難しくなりました。そして「悔い改め」をする中、「聖書」が救いとなりました。
 聖書では「悔い改め」をして神様から赦しを得て、罪から解放されて心の自由を得る事が記されています。その上で被害者である人に謝罪する事は勿論必要ですが、もっと大事な事は神様に赦しを請う事です。そして人から赦しを得る事よりも神様から赦しを得る事こそ必要であります。又、「懺悔」と言うのが悪い事をしたと赦しを請い次は良くあって欲しいと願うものですが、「悔い改め」二度と同じ事はしないと反対に方向転換するものであると言う違いがあります。に罪を犯したと告白し赦しを請うた後、赦されて神の新しい自由な霊が自分の心に満たされる事、其の後、どの様な窮乏をも受け入れて耐える事です。又、「罪」は神様の御心に適わない事を行なう事や、神様の御名を崇めない事が「罪」となります。
 新約聖書・ヨハネの福音書8章31~34節そこでイエスは、・・・言われた。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』・・・『まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷ですだけでは無く此の世の欲望や楽しみに溺れる事等の束縛からの解放が、真の心の自由に繋がります。
 コリント人への手紙 第二5章17節だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。。真の「悔い改め」によって神様から赦しを得て、過去の失敗や過ち等の忘却をする事が出来て、その結果、前進挑戦をする事が出来る様になります。
 続けて、コリント人への手紙 第二5章18~19節これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
 次に、コリント人への手紙 第二5章21節神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。イエス・キリスト十字架に架けられて私たちの犠牲となられた事により、イエス・キリストを信じる事によって私たちが救われて真の生きる「いのち」を得る事が出来ます。