狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

クリスマス、イエス・キリストの降誕から清貧・謙遜・忍耐の徳を知る

2012-12-25 23:45:37 | エッセイ・コラム
 クリスマスは、天におられる父と子と聖霊の三位一体の神様が、人と同様にして神の御子として此の世に御降誕された日です。天の父である神様が、処女である聖マリア(マリア・インマクラータ)の身体を使ってイエス・キリストをその胎内に宿して此の世に産まされました。天地・万物の創造主、全能の父である神様は全てにおいて不可能な事は無く、科学的な根拠を必要とせず、人間にとって不思議なわざ・しるしを行ないます。そして、聖マリアは勿論人間ですので、自らの能力によってイエス様をお産みになった訳では無く、飽く迄も神様の能力によって行われました神様は唯一の存在で、且つ、偶像崇拝が禁じられていますので、聖マリアの像を拝む事も間違いとなります
 もしも一般の人において神様を産まなければならないと言う運命を背負わされた場合に、それが大きな圧力となってその人は拒否するのではないかと思うのですが、聖マリアは主の御使いからの受胎告知を素直に受け入れて神様の御心のままに自分を使って頂く様にと祈り、そして神様の御名を崇め、神様を賛美しました。
 イエス・キリストは、ベツレヘム牛やろばの家畜小屋の中でお生まれになり、布にくるまれて飼葉おけに寝かされました。宿屋が全て一杯で入る所が無く、貧しい姿・環境の中でお生まれになられました。その事から、私達は清貧謙遜、忍耐を教わります。又、後にイエス様が御言葉を宣べ伝えられた事や、御自身の証しの為の不思議なわざしるしを行なって、此の世の人達に「いのち」を与えて「救い」をもたらし、全ての人の罪の贖いの為に十字架に架けられて「犠牲」となられた事を思う事も含めて、クリスマスの聖夜は静かに過ごす事が本来の在り方の様に思います。確かに、イエス様の降誕によってクリスマスに世の人達が喜びや幸福感を分かち合うと言う事をもたらしたと言う意味もあるとは思いますが、本来の意味としてのイエス様の「救い」と「犠牲」、清貧、謙遜、忍耐を思う事が大事で、決してお祭りやばか騒ぎ等はクリスマスには相応しくない様に私は思います。私は勿論見ないですが、クリスマスに意味の無い空虚なTVのバラエティー番組等を大きな時間を割いて流しているのは、マスコミの背後に存在するサタンイルミナティー・フリーメーソンのキリスト教を否定する意向の様に感じます。
 イエス・キリストがお生まれになって、最初に主の御使いによって知らされてキリストに会って祝った人達は、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた羊飼いの人達でした。決して学者や地位の高い議員等では無く、羊の主人(持ち主)に雇われて貧しく虐げられていた羊飼いの人達でした。天の神様は、その様な下の身分の低い人達を優先して天の御国にも取り上げられます。
 旧約聖書・イザヤ書7章14・15節それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる。イエス様のお生まれになった時(2000年程前)よりも700~800年程前に記された預言です。
 イザヤ書9章6・7節ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和に君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。
 新約聖書・ルカの福音書1章26~28節・・・御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。』」
 ルカの福音書1章31・32節ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。・・・。
 ルカの福音書1章35~38節御使いは答えて言った。『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。・・・神にとって不可能なことは一つもありません。』マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』こうして御使いは彼女から去っていった。
 ルカの福音書2章1~7節そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。・・・人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
 ルカの福音書2章8~20節さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。』・・・羊飼いたちは互いに話し合った。『さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。』そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。・・・羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」。