現代だけでなく昔から世の中において、かわいくしていた方が世渡りが上手くいったり、出世に繋がったりします。嫌われず、友達も多くなり、会社等の組織の中に在ってもチヤホヤされて優遇されたりし、社会生活も送り易くなります。しかし、悪や権力者に媚びたり諂ったり迎合したりする事は、聖書に罪である事がはっきりと書いてあります。
新約聖書には、キリスト(救世主)であるイエス様とユダヤ教の指導者達であるサンヘドリンのパリサイ派、サドカイ派、律法学者や祭祀、長老等との戦いが書かれています。正義のイエス様と悪の権力者との戦い、神と悪魔との戦いが書かれています。決して、イエス様はかわいい様に振る舞っていた訳ではありませんでした。
新約聖書・マタイの福音書10章34~36節「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。」。
同37節「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」。
同38~39節「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」。
政治や社会不安に目を閉ざさせる3S政策「スポーツ、セックス、スクリーン」のエンターテイメントやアイドル等のかわいいタレント達からも解る様に、平和ボケ、愚民化の一環としての「かわいさ」が世間には存在します。「なあなあ」でやったり、「馴れ合い」で行ったりする所では、悪が隠蔽されて誤魔化され、「真実」がそこには存在しません。知識が無いか、或いは保身の為に、上からの指示に盲目的に服従する。「かわいさ」は、世の中の腐敗に繋がります。「かわいさ」を捨て、「鬼」となって公義を行なう必要があります。政治家も世間に迎合することなく、且つ裏の権力にも迎合せず、本当の社会正義を行なう必要があります。悪に対しては「怒り」が必要です。
イエス様の場合、上の地位にいる、ユダヤ教の指導者の権力者である偽善者達に対しては鬼となっていました。しかし、下に居る虐げられている人や、らい病等の病を持つ人、身体の不自由な人、貧しい人達に対しては、慈しみ、愛を持って迎えられました。つまり、世間のマジョリティーの人達や、政治家、官僚、財界幹部、公共団体幹部、マスコミ等の弱い者いじめをする者達とは正反対です。
今後、第三次世界大戦の後に、EUからの世界的独裁者(英国の某王子という情報がありますが)が、「預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つ」(マタイの福音書24章15節より)として出現し、かつてのローマ帝国を真似てエルサレムを中心として「偽りの平和」を作り出す事が、裏の権力組織(イルミナティー・フリーメーソン)によって計画されています。今年のロンドン・オリンピックは、そのアピールと予行演習の意味がありました。キャラクターやマスコット、競技場の照明等の装飾等、あからさまになって来ていました。人間のファシズムによる「偽りの平和」であり、先の聖書のイエス様の御言葉はこの様な事に対しての戦いを言っています。
イエス・キリストが定めによって十字架に架けられる為に、エルサレムに入られる時の模様を表した以下の動画が在ります。
但し、一方でイエス様は次の様にも宣べられました。
新約聖書・マタイの福音書5章39節「しかし、・・・悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」。
同44節「しかし、・・・自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」。
同45~48節「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。・・・だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」。
又、使徒パウロによって次の様に宣べられました。
新約聖書・テモテへの手紙 第一5章8節「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」。
新約聖書には、キリスト(救世主)であるイエス様とユダヤ教の指導者達であるサンヘドリンのパリサイ派、サドカイ派、律法学者や祭祀、長老等との戦いが書かれています。正義のイエス様と悪の権力者との戦い、神と悪魔との戦いが書かれています。決して、イエス様はかわいい様に振る舞っていた訳ではありませんでした。
新約聖書・マタイの福音書10章34~36節「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。」。
同37節「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」。
同38~39節「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」。
政治や社会不安に目を閉ざさせる3S政策「スポーツ、セックス、スクリーン」のエンターテイメントやアイドル等のかわいいタレント達からも解る様に、平和ボケ、愚民化の一環としての「かわいさ」が世間には存在します。「なあなあ」でやったり、「馴れ合い」で行ったりする所では、悪が隠蔽されて誤魔化され、「真実」がそこには存在しません。知識が無いか、或いは保身の為に、上からの指示に盲目的に服従する。「かわいさ」は、世の中の腐敗に繋がります。「かわいさ」を捨て、「鬼」となって公義を行なう必要があります。政治家も世間に迎合することなく、且つ裏の権力にも迎合せず、本当の社会正義を行なう必要があります。悪に対しては「怒り」が必要です。
イエス様の場合、上の地位にいる、ユダヤ教の指導者の権力者である偽善者達に対しては鬼となっていました。しかし、下に居る虐げられている人や、らい病等の病を持つ人、身体の不自由な人、貧しい人達に対しては、慈しみ、愛を持って迎えられました。つまり、世間のマジョリティーの人達や、政治家、官僚、財界幹部、公共団体幹部、マスコミ等の弱い者いじめをする者達とは正反対です。
今後、第三次世界大戦の後に、EUからの世界的独裁者(英国の某王子という情報がありますが)が、「預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つ」(マタイの福音書24章15節より)として出現し、かつてのローマ帝国を真似てエルサレムを中心として「偽りの平和」を作り出す事が、裏の権力組織(イルミナティー・フリーメーソン)によって計画されています。今年のロンドン・オリンピックは、そのアピールと予行演習の意味がありました。キャラクターやマスコット、競技場の照明等の装飾等、あからさまになって来ていました。人間のファシズムによる「偽りの平和」であり、先の聖書のイエス様の御言葉はこの様な事に対しての戦いを言っています。
イエス・キリストが定めによって十字架に架けられる為に、エルサレムに入られる時の模様を表した以下の動画が在ります。
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YouTube: エルサレム入場のイエス パゾリーニ 奇跡の丘
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YouTube: 終わりの日の預言 パゾリーニ 奇跡の丘
但し、一方でイエス様は次の様にも宣べられました。
新約聖書・マタイの福音書5章39節「しかし、・・・悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」。
同44節「しかし、・・・自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」。
同45~48節「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。・・・だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」。
又、使徒パウロによって次の様に宣べられました。
新約聖書・テモテへの手紙 第一5章8節「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」。