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0081 長谷川明則氏「赤橋登子─足利尊氏の正妻─」(その5)

2024-05-05 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第81回配信です。


一、前回配信の補足

「五月十二日  千寿王、新田軍に合流」と書いてしまったが、峰岸純夫氏『人物双書 新田義貞』(吉川弘文館、2005)に基づき「千寿王、世良田にて挙兵」と訂正します。
合流の日時は不明。

「利氏元弘三年五月十二日馳参上野国世良田、令参将軍家若君御方之処」〔2021-08-02〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a9bbb0a254035f4cf6032a6c2e819560

『歴史の旅 太平記の里 新田・足利を歩く』(吉川弘文館、2011)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b82243.html

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あとがき
 子どものころに歴史好きの父から聞いた話であるが、幕末から明治に生きた曾祖父伝吉は、新田郡米岡の栗原家から伊勢崎町の峰岸家の婿に入って仕事師の家業を継ぎ「伝頭〔でんがしら〕」を称し、世良田八坂神社の祇園祭りには法被(印半纏)を着て槍をもち、神幸の先触れを勤めたという。
 やがて私は、歴史研究の道に入り、米岡という地名は、明治になって八木沼と高岡という二つの集落が合併してできた名称であることを知った。「八木」を「米」に縮小し、高岡の「岡」と合わせて成立した村なのである。中世の八木沼郷や平塚は長楽寺領で長楽寺文書にしばしば登場し、永禄八年(一五六五)に長楽寺住持義哲によって記された『長楽寺永禄日記』に、長楽寺と金山城主由良氏の家臣とが平塚郷の大豆売買をめぐる争いの記述があり、そのなかで郷の指導層の百姓に「栗原」の名を見出したときはたいへん驚き、前述の父の昔話を思い出した。【後略】
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仕事師
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%95%E4%BA%8B%E5%B8%AB

二、長谷川論文の続き

p228
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●激動の中での婚姻関係
 西と東で同時に起こった足利氏の軍事行動が大きく貢献し、後醍醐天皇の倒幕運動が遂に実を結んだ。京都で後醍醐を迎えた尊氏は、天皇を中心とする建武政権で軍事部門の責任者とされ、天皇を補佐したとされる。鎌倉では、京都の尊氏から派遣された細川和氏・頼春・師氏の三兄弟が義詮を補佐した。十二月には、京都から後醍醐天皇の皇子成良親王が鎌倉に派遣され、関東十か国を統治する鎌倉将軍府が発足した。この時、成良親王の補佐役としてともに下向したのが、尊氏の弟直義であった。既に新田義貞は鎌倉を離れて上洛しており、鎌倉は義詮に従う足利勢力によって掌握されていた。このことから、鎌倉将軍府は足利氏によって支えられたといえよう。登子は世良田から鎌倉に戻り、幼い義詮の養育にあたったものと思われる。北条一門の娘として見聞きしてきた鎌倉幕府の政治手法が、足利氏の鎌倉統治にも生かされたのかもしれない。
 建武二年(一三三五)七月、北条時行(高時の子)が信濃国(長野県)で挙兵し、義詮や登子のいる鎌倉に攻めかかった(中先代の乱)。直義ら鎌倉将軍府の軍勢は、勢いに押されて鎌倉を守り切れず、成良親王と義詮を伴って西へ敗走した。京都にあった尊氏は、彼らを救援するため、後醍醐の許しを得ないまま八月二日に出陣した。尊氏は直義と三河国矢作(愛知県岡崎市)で合流し、登子や義詮とも二年以上ぶりの対面を果たしたものと思われる。十九日には鎌倉奪還に成功したものの、後醍醐からの帰郷命令に従わず鎌倉にとどまったため、建武政権への反逆の意志があるものと判断され、追討軍を差し向けられてしまう。親子水入らずの時間は長く続かなかったのである。
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成良親王は極めて興味深い人物。

成良親王(1326‐44)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B

四月初めの中間整理(その3)〔2021-04-05〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d242a4ee17a501ea5162bc48f52180c

「いったんは成良を征夷大将軍に任じて、尊氏の東下を封じうると判断したものの」(by 佐藤進一氏)〔2021-09-03〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/64eae21672f1f4990d44ae4f277c59f5
「高氏は…征夷大将軍ならびに諸国の惣追捕使を望けれど、征東将軍になされて悉くはゆるされず」(by 北畠親房氏)〔2021-09-04〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6bfc237fa4ed6c5b9fdd070a08f9cfeb
中院具光の鎌倉下向時期〔2021-09-05〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/33d0baa06ca96303998f87be609624d7

p229
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 新田義貞が率いる追討軍が鎌倉に迫る中、尊氏が取った行動は、彼に従ってきた人々の期待を裏切るものであった。扇ヶ谷の浄光明寺(神奈川県鎌倉市)に籠って謹慎し、後醍醐に赦免を乞うたのである。なお、浄光明寺は登子の実家である赤橋氏と縁が深く、幕府滅亡後は足利氏から庇護を受けた。尊氏が覚悟を決めて出陣したのは、追討軍を迎え撃つために出陣した直義の苦戦が伝えられてからであった。尊氏が加わったことで足利軍は勢いに乗り、箱根竹之下(静岡県駿東郡小山町)で追討軍を撃退。そのまま西に敗走した追討軍を追って、翌建武三年正月には入京を果たした。
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