第77回配信です。
続きです。(p224以下)
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●尊氏との婚姻と義詮の誕生
享年から逆算すると、登子の生年は徳治元年(一三〇六)である。父の赤橋(北条)久時は、六波羅探題(北方)や評定衆といった鎌倉幕府の要職を歴任し、正安三年(一三〇一)には一番引付頭人に就任した。北条重時を祖とする極楽寺流北条氏の嫡流とされる赤橋氏は、その嫡子が将軍を烏帽子親として元服し、将軍の名から一字を賜る(偏諱)など、北条一門の中でも得宗家に次ぐ高い家格に位置付けられていた。順当にいけば久時も連署に昇任したものと思われるが、登子誕生から間もない徳治二年十一月二十八日に三十六歳で死去したため叶わなかった。
登子が尊氏に嫁いだ時期ははっきりしないが、大きく分けて二つの説がある。より早い時期と考えるのは、元応元年(一三一九)、尊氏が十五歳で叙爵(従五位下に叙せられること)した頃とする説である[細川二〇一六]。足利氏では、北条一門から迎えた正妻から生まれた男子が家督を継承することが通例となっており、尊氏の父貞氏の後継者についても、尊氏の異母兄である高義(母は金沢顕時の娘)に決まっていた。しかし、文保元年(一三一七)に高義が二十一歳の若さで死去すると、足利氏の家督継承者候補として尊氏に注目が集まるようになる。先述のとおり、足利氏当主は代々北条一門から正妻を迎えており、登子との婚姻時期を叙爵の前後とする説は、登子との婚姻によって、尊氏が嫡子として認められたとする点を強調する。
一方で、尊氏と登子の婚姻時期は、彼らの第一子である千寿王(のちの義詮)が生まれた、元徳二年(一三三〇)の少し前だとする説もある[清水二〇一三]。この説では、尊氏がまだ従五位下だったにもかかわらず、嘉暦元年(一三二六)に弟の直義が同じ従五位下に叙された点を重視し、高義の死去後しばらくの間、尊氏の家督継承者の地位は不安定だったと考える。その上で、登子との間に北条氏の血を引く義詮が誕生したことによって、尊氏の家督継承が確固たるものになったとする。しかし、この説に対しては、①直義が叙爵したのは二十歳の時であって、十五歳で叙爵した尊氏の待遇との格差は歴然である上に、②当時の女性の婚姻年齢を踏まえると、登子が義詮誕生の直前(二十代半ば)まで未婚だったとは考え難いという批判がある[細川二〇一六]。いずれにしても、登子との婚姻(=北条一門との姻戚関係)が、尊氏の家督継承者としての地位の確立と密接に関連しているとする点は、多くの研究者の共通認識となっている。なお、中原師守の日記『師守記』は、登子を「守時の息女」としている。このことは、生後すぐに父を亡くした登子が、尊氏との婚姻に際して、その頃既に幕府の中枢にいた兄守時の養女となっていた可能性を示唆している。
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北条義宗(1253‐77)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E7%BE%A9%E5%AE%97
北条久時(1272‐1307)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E4%B9%85%E6%99%82
北条守時(1305‐33)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E5%AE%88%E6%99%82
四月初めの中間整理(その11)〔2021-04-13〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a1051df1b192c3b72790a7e12ff1f223
●尊氏との婚姻と義詮の誕生
享年から逆算すると、登子の生年は徳治元年(一三〇六)である。父の赤橋(北条)久時は、六波羅探題(北方)や評定衆といった鎌倉幕府の要職を歴任し、正安三年(一三〇一)には一番引付頭人に就任した。北条重時を祖とする極楽寺流北条氏の嫡流とされる赤橋氏は、その嫡子が将軍を烏帽子親として元服し、将軍の名から一字を賜る(偏諱)など、北条一門の中でも得宗家に次ぐ高い家格に位置付けられていた。順当にいけば久時も連署に昇任したものと思われるが、登子誕生から間もない徳治二年十一月二十八日に三十六歳で死去したため叶わなかった。
登子が尊氏に嫁いだ時期ははっきりしないが、大きく分けて二つの説がある。より早い時期と考えるのは、元応元年(一三一九)、尊氏が十五歳で叙爵(従五位下に叙せられること)した頃とする説である[細川二〇一六]。足利氏では、北条一門から迎えた正妻から生まれた男子が家督を継承することが通例となっており、尊氏の父貞氏の後継者についても、尊氏の異母兄である高義(母は金沢顕時の娘)に決まっていた。しかし、文保元年(一三一七)に高義が二十一歳の若さで死去すると、足利氏の家督継承者候補として尊氏に注目が集まるようになる。先述のとおり、足利氏当主は代々北条一門から正妻を迎えており、登子との婚姻時期を叙爵の前後とする説は、登子との婚姻によって、尊氏が嫡子として認められたとする点を強調する。
一方で、尊氏と登子の婚姻時期は、彼らの第一子である千寿王(のちの義詮)が生まれた、元徳二年(一三三〇)の少し前だとする説もある[清水二〇一三]。この説では、尊氏がまだ従五位下だったにもかかわらず、嘉暦元年(一三二六)に弟の直義が同じ従五位下に叙された点を重視し、高義の死去後しばらくの間、尊氏の家督継承者の地位は不安定だったと考える。その上で、登子との間に北条氏の血を引く義詮が誕生したことによって、尊氏の家督継承が確固たるものになったとする。しかし、この説に対しては、①直義が叙爵したのは二十歳の時であって、十五歳で叙爵した尊氏の待遇との格差は歴然である上に、②当時の女性の婚姻年齢を踏まえると、登子が義詮誕生の直前(二十代半ば)まで未婚だったとは考え難いという批判がある[細川二〇一六]。いずれにしても、登子との婚姻(=北条一門との姻戚関係)が、尊氏の家督継承者としての地位の確立と密接に関連しているとする点は、多くの研究者の共通認識となっている。なお、中原師守の日記『師守記』は、登子を「守時の息女」としている。このことは、生後すぐに父を亡くした登子が、尊氏との婚姻に際して、その頃既に幕府の中枢にいた兄守時の養女となっていた可能性を示唆している。
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北条義宗(1253‐77)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E7%BE%A9%E5%AE%97
北条久時(1272‐1307)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E4%B9%85%E6%99%82
北条守時(1305‐33)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E5%AE%88%E6%99%82
四月初めの中間整理(その11)〔2021-04-13〕
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「八方美人で投げ出し屋」考(その1)~(その5)〔2021-02-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7312b65bef08f78765acf6cd0cc0242d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/403beb692df2ec12c498dfce1454beda
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6071e3967e92f5fe4f0e9a887bf88d38
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/add1b0715d2a158d9168afb12c5230fa
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0027728f59f2a6c06d243ac42a4a2be4
「尊氏が庶子の直冬を嫌っていたと書かれているのは、『太平記』だけなのです」(by 亀田俊和氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5c4483d8a1c0320d5b998c34598e873a
「八方美人で投げ出し屋」考(その6)(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/60ed2bacbac4c2bf121d2f1dfa4a4c7c
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e2b7abf83ef195fb7cf2f8fefd739935
「貞顕は、生まれながらの嫡子ではなかったのである」(by 永井晋氏)〔2021-02-24〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2c9bb3e0633c321b445e4c7d5946e87a
『人をあるく 足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b122516.html
『南朝研究の最前線 ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』(洋泉社、2016)
https://publications.asahi.com/product/22330.html
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b122516.html
『南朝研究の最前線 ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』(洋泉社、2016)
https://publications.asahi.com/product/22330.html