学問空間

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人麿影供と通光影供

2008-05-31 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 5月31日(土)23時36分57秒

>筆綾丸さん
佐々木孝浩氏に「『とはずがたり』の人麿影供─二条の血統意識と六条有房の通光影供をめぐって─」(『国語と国文学』平成5年7月号)という論文があります。
直接関係する部分を引用してみます。

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 ここまでは、『とはずがたり』内部の記述に即しつつ、二条の影供の特性と背景とを考察してきたのだが、今一度作品の外に目を転じ、二条の人麿影供を影供の歴史上に据えようとする時、どうしても無視できない一つの特殊な影供が存在している。それが、前掲の年表にも挙げた、二条の人麿展墓の僅か数ヶ月前に位置する、二条の従兄弟六条有房によって催された、二条・有房共通の祖父である久我通光を讃嘆の対象とする影供である。この催しの、二条とその影供に対する人的そして時期的な近さは、両者の関係の有無を確認することを要請するものであると言えよう。
 この影供は、嘉元三年(1305)成立の私撰集『続門葉集』中の一首のみによってその存在を知ることができる。
   嘉元二年五月十八日前中納言<有房>後久我太政大臣の
   影供はじめ侍りけるに、述懐の心をよみ侍りける
                      権少僧都道順
 かずならでよはひも今は武隈のまつ事おそき年もへにけり
                       (八〇五)
 主催者六条有房は、二条の伯父通有の息、二条より七年の年長でこの時五十四歳、官位は従二位権中納言であった。そしてこの和歌の詠者、つまり影供の参加者である道順(後に大僧正・醍醐寺座主)も二条の伯父通能の息で、やはり二条の従兄弟に当たる。
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びっくりするほど濃密な人間関係の中の話ですね。
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「家」世界の原理

2008-05-31 | 日本文学
「家」世界の原理 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 5月31日(土)00時31分33秒

>筆綾丸さん
讃岐国は知行国の実態を把握する手がかりに恵まれた珍しい国ですね。
私は以前、田中健二「大覚寺統分国讃岐国について」(『古代中世史論集』.吉川弘文館)という論文をみつけて、少し掘り下げたら面白そうだなと思ったことがあるのですが、きちんとした分析をするだけの基礎がなくて、結局そのままです。

和知の場面については、永原慶二氏が、

---------------
 在地領主層がこのような形で、本領について将軍権力も及びえない強力な「家」権力を確保し、空間的にはいかなる上級支配権をも排除した屋敷地を核として、その排他的支配領域を拡大しようとしていたことは、国家体制との関連から見れば、中世国家においては国家の中に国家権力の介入できない「家」世界が存在していたことであり、近代国家的理解からはおよそ考えられない事態である。
 後深草院女房の日記『とはずがたり』によると、その女房が一三〇二(乾元元)年厳島詣の帰路、海が荒れたため、先の船中で知った備後国和知郷の地頭代官和知氏の家に泊めてもらったが、主人が毎日男女の人々に呵責を加えるのにおどろき、程近い江田に住む和知氏の兄の家に移った。和知氏は「年来の下人に逃げられ、兄がこれを取った」と怒り、兄弟喧嘩にまでなったが、たまたま下ってきた地頭広沢与三入道に救われたという事実がある。かりそめに宿泊した貴族の女房を、「下人」というのはまことに乱暴な話としかみえないが、いったんその家に泊った者はその家の内部にあるかぎり主人の「家」権力=家父長権に包摂される、というのが当時の考え方であったから、和知氏の主張もあながち無法ではないのである。
 在地領主層の「家」世界はこのように、屋敷地・「住郷」といった空間とともに、その「家」的人間関係の一切を包みこんでいる自律的世界である。いうまでもなく、在地領主層自体は中世国家の権力基盤を構成する地方支配層であるが、かれ自身の直接的存立基盤は中世国家の「公」権が立ち入ることのできない世界となっている。こうした「家」世界の原理は、在地領主層における「領主制」の発展とともに、独自の支配領域として拡大されてゆくが、「家」はあくまでその原点であり、中世国家の構造的特質を規定する基本的契機をなしていたのである。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-nagahara-zaichiryoshuto-iekenryoku.htm

などと言われていますね。
私は「領主制」の難しい議論については全くの門外漢ですが、他の信頼できる記録に基づくならともかく、『とはずがたり』のエピソードを根拠に、こんな壮大な理論を打ち立ててよいのであろうか、という懸念は感じますね。
和知の話も、結局のところ、自分のように美しくて才能豊かな女に惑わされて地方の馬鹿豪族どもが右往左往して面白かった、美人は何て罪作りなのかしら、という自慢話なんですけどね。
永原氏は「事実がある」と言われますが、果たしてどこまで信じられるのか、訳のわからん話じゃなかろか、と私は思います。

>はぎつきさん
いろいろお騒がせしましたけど、掲示板の基本スタンスは全然変わっていませんので、以前同様、自由に書いてくださいね。
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広沢氏

2008-05-30 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 5月30日(金)06時40分44秒  

>筆綾丸さん
『金刀比羅宮の美術』、私も早速、アマゾンに注文しました。
藤原信実についてきちんと考える必要が生じたので、米倉氏の論文もしっかり読んでみます。

広沢氏については、『吉舎町史』では、

--------------
広沢氏はこの波多野氏からの分流である。「和智氏系譜」は、余三実方を「広沢流之初」とし、久寿二年(一一五五)八月源義朝の子義平が叔父源義賢を討った戦いの功で、翌保元元年一○月、武蔵国広沢を賜い初めて広沢を称したとある。この実方が戦賞として得た広沢については、確証を欠くが現埼玉県朝霞市内とみられている(群馬県桐生市内の旧広沢村に勢力を張った広沢氏をあてる説もあるが、これは間違いである。『桐生市史』参照)。
--------------

となってますね。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/kisachoshi-chuseihen.htm

ちなみに、桐生市広沢は女優の篠原涼子の出身地ですね。
どうでもいいことですが、知っていると書かずにはいられません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%A0%E5%8E%9F%E6%B6%BC%E5%AD%90

>Aki さん
小松茂美氏の解説によると、
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柳の木陰に直衣の下に赤い大口(おおくち、袴)を着用して浅沓を履くのは、後嵯峨天皇であろう。その前に控えるのは、公卿の一人。あれなる見物の中なる女性、いず方の女なるぞ。かの女のあとをつけ、しかと居所を見定めてまいれ、と命を受けているところ。後ろに、細纓(ほそえい)に※(おいかけ)の冠をかぶり、緑の袍を着けるのが、その使いとなった六位の蔵人。
-------------
だそうです。
赤ほっぺのおじさんが公卿の一人で、その右にわずかに写っている人が後嵯峨院となりますね。
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画才自慢

2008-05-29 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 5月29日(木)00時13分45秒  

筆綾丸さんが既に少し引用されている「白峰で写経供養」の場面、全文はこちらです。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa5-4-shiromine.htm

ずいぶん長期間滞在してますね。
ここに琵琶が出てきますが、後深草院二条にとって、琵琶と後嵯峨院は非常に密接に結びついているんですね。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-17-onnagaku.htm

そして、この白峯の場面の直後が備後和知の場面なのですが、二条はここで自分がいかに絵の才能があるかを自慢してますね。

「『吉舎町史(上)』中世編」
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/kisachoshi-chuseihen-02.htm

>Aki さん
>味わいのある顔だちの貴公子(おじさん?)
それは女を探し出すように後嵯峨院から指示を受けている蔵人かも。
赤いホッペが少し情けないような感じがします。

>筆綾丸さん
一番最初の投稿でリンク先にした四国新聞の記事の著者、伊藤大輔氏が『金刀比羅宮の美術―思いもよらぬ空間芸術』という本を出しているそうで、これが一番分かりやすいかもしれないですね。
http://www.bk1.jp/product/02501101
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小松茂美氏の解説

2008-05-28 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 5月28日(水)23時43分0秒

前回投稿の引用は中途半端で誤解を招きかねないので、小松茂美氏の『日本の絵巻17 奈与竹物語絵巻 直幹申文絵詞』(中央公論社、昭和63年)の解説から改めて引用しておきます。
遠山忠史氏も、ここからの孫引きですね。

------------------
 じつは、東京国立博物館に狩野養信(おさのぶ)(号・晴川院<1796-1846>)の模本一巻を残している。現存の金刀比羅宮所蔵の「奈与竹物語絵巻」の忠実な模写である。巻末に養信みずからが、奥書を記している。それによれば、

 弱竹物語一■者 正二位大納言為家卿所併書、而
 蔵人画所預正五位上行主殿頭藤原隆能之画也。
後深草天皇所寄附讃州綾松山白峯寺、
崇徳天皇陵廟中、而為廟中上第之奇宝也。隆能、乃土
 佐氏之祖、而正二位中納言清隆 之仲子<以春日、為家称。>而妙
 画通霊矣。余与白峯寺主有知己乃偶。窃盗乞借模写
 之。蔵中衍中、以比禁方、資宮殿服色之制、以為他日
 後素之具也。為余之後者、莫出梱 外矣。莫写以示人矣。
 寛政十有二年庚申三月               法橋豊泉源孝之  -----(A)

   古土佐筆
   此本写松平越中守殿※(ヨリ)来ル
                 文化九<壬申>年正月廿二日写養信   ------(B)

というように、(A)(B)二つの奥書と知る。(B)が養信が加えたもので、文化九年(1812)の年紀により、かれの十七歳の筆と判明。少年期のころから、画業修練のために模写を企てたものと知る。(A)は、養信が模写に際して用いた親本に書かれていた奥書である。「古土佐筆 此本写松平越中守殿※来ル」というのは、奥書(A)を記したこの絵巻が、「古土佐筆(ことさのふで)」(古い時代の土佐家の絵師の筆)と言い伝えるもので、松平越中守殿の所持本であったという。この松平越中守は、松平定信<1758-1829>のこと。周知のように、かれは幕府の老中を退いてからは、奥州白河の藩政をととのえることに専念し、かたがた『集古十種』(全八十五巻・寛政十二年<1800>序)の編集上梓に心血をそそいだ。諸国の社寺に蔵する古書画を求めて、模写を蓄積した。この「奈与竹物語絵巻」も、その模本が定信の手元に秘蔵されていた事情が、この短い養信の奥書(A)から判明するのである。
 ところで、この奥書(A)は、年紀が示すように、寛政十二年<1800>の三月、当時、法橋位(ほっきょうい)に叙せられていた、豊泉(ほうせん)を名乗る、俗姓源氏の孝之(たかゆき)なる画家の手によって写されたもの、と知る。
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推定の根拠

2008-05-26 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 5月26日(月)22時46分56秒

>筆綾丸さん
遠山忠史氏の「『金刀比羅宮本なよ竹物語絵巻』作者の視点」(『解釈』1996年7月号)という論文によると、
----------------
この「なよ竹物語」を絵画化した『なよ竹物語絵巻』はいつ制作されたものなのであろうか。現在は香川県の金刀比羅宮に蔵しているが、もともとは讃岐の松山、白峯寺の寺宝として伝来したことが知られている。この絵巻は、今日、いくつかの模本を伝えているが、それらは金刀比羅宮本の模写である。この絵巻の巻末の奥書に

弱竹物語一局者 正二位大納言為家卿所
併書、蔵人画所預正五位上行主殿頭
藤原隆能之画也。
後深草天皇所寄附讃州綾松山白峯寺、
(略)

と書かれており、詞書は、正二位、大納言藤原為家の筆、絵は蔵人で、絵所預(えどころあずかり)であった、正五位上・主殿頭(とのものかみ)藤原隆能の筆と伝えている。しかし、この両人とも後嵯峨院の時代より百年も前に生存していたので、この奥書は間違ってる。小松茂美氏は十四世紀前半の頃、宮次男氏は十四世紀の中葉に製作されたと推定されている。
-------------------
とのことで、絵巻は後深草天皇が白峯寺に寄せたと伝えられているのだそうです。
ただ、この絵巻の変てこな内容からみて、父の後嵯峨院を非常に重んじていた後深草院が、こんなものをわざわざ白峯寺に寄附するはずがありません。
とすると、後深草院と深い縁があり、白峯寺に参詣したことがあって、絵の才能があるとも自ら語っている人物が関係しているのではないかと思うんですね。
なお、遠山忠史氏は「この両人とも後嵯峨院の時代より百年も前に生存していたので」と書かれていますが、為家(1198~1275)は後嵯峨院と同時代人で、後嵯峨院の勅を奉じて『続後撰和歌集』『続古今和歌集』を撰しているのですから、ここに名前が出てくること自体は変ではないですね。
藤原隆能は確かに変ですが。
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奈与竹物語絵巻

2008-05-26 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 5月26日(月)00時07分32秒

>筆綾丸さん
5月24日付の朝日新聞の記事、読みましたが、作風以外根拠がないのでは微妙な話ですね。
ま、この世界はそういうものなんでしょうけど。
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辻惟雄(のぶお)・東大名誉教授(日本美術史)は約40年前から、写真しか手がかりのなかったこの作品を、元信でなく永徳の作だと推測していた。最近になって、古美術商から情報がもたらされ、都内の画廊でついに作品と対面。樹木の根や岩の描き方など、作風から、やはり永徳と判断した。
 永徳には京都府・大徳寺聚光院に残る国宝「花鳥図襖(ふすま)」がある。今回の屏風はよく似た作風から、辻さんは、それより少し若いころの制作と推定している。
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「真筆」といえば、実は私、崇徳天皇廟・頓證寺に伝来し、現在は金刀比羅宮に保管されている「奈与竹物語絵巻」が、後深草院二条「真筆」の可能性があるのではないかと想像(妄想?)していまして、これが地方の古美術品店に100万円くらいで売られていたら、預金をおろして購入する覚悟はあるのですが、既に重要文化財に指定されているので、購入はちょっと無理ですね。

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奈与竹(なよたけ)物語は物語中で女主人公が読む和歌の文句を取って、くれ竹物語とも称したと言われ、また後世には鳴門中将物語という名でも知られた。鎌倉後期、後嵯峨院の時代、ある年の春三月、花徳門(かとくもん)の御壺(おつぼ)で行われた蹴鞠(けまり)を見物に来ていたある少将の妻が、後嵯峨院に見初められる。苦悩の末、妻は院の寵(ちょう)を受け入れ、その果報として少将は中将に出世する。人の妻である女房が帝に見出され、その寵愛を受け入れることで、当の妻はもとより、周囲の人々にまで繁栄をもたらすという筋は鎌倉時代になってできた物語の一類型であるという。
http://www.shikoku-np.co.jp/feature/kotohira/8/index.htm

その前提として、馴れ馴れしい友達感覚で後嵯峨院をシニカルに描いている「奈与竹物語」(別名、「鳴門中将物語」)の作者が後深草院二条ではないかと疑っているわけです。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-kokonchomonju-gosaga.htm
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/matumura-yuji-binran.htm
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お返事

2008-05-11 | その他
お返事 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 5月11日(日)19時21分39秒  

名前が長すぎるので、元にもどしました。

>通りすがりのものですが。さん
>あなたの日本語の用法ミスです
そうともいえないですね。
異なる相手との間で完全に誤解を生じさせない表現にするとしたら、数十ページに及ぶ長大な英文契約書のような文章を工夫しないと駄目でしょう。
しかし、それでは通常のコミュニケーションは成り立たないですね。
趣旨不明な箇所があれば、修正すればよいだけですね。
あなたが「補足」を追加したように。

>「この人は歴史研究に裁判と同等の原則を適用しようとしているのだ」と受け取られる可能性は、当然高くなるでしょう。
>「実際上ありえない仮定」であると一度も述べられなかった、あなたの問題です。
それは単なる誤読ですね。
私の表現能力ではなく、あなたの読解力の問題です。
そんな読み方をする人まで想定して文章を書くのは耐え難いですね。

>とかいう風に思うようになられたりしたら困る
杞憂です。
他の情報源はいくらでもありますので。
コメント (6)
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>通りすがりのものですが。 さん

2008-05-11 | その他
>通りすがりのものですが。 さん 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 5月11日(日)08時53分43秒

>敷衍していますよね?
敷衍していません。
敷衍していないからこそ、大黒屋さんの歴史研究者一般を揶揄したような投稿に対しても、
---------
シニカルなレス、ありがとうございます。
「歴史学の論文で要求される程度の、高い蓋然性を示す作業」といった表現は、歴史研究者にとっても決して自明なことではないとの趣旨として理解させていただきます。
---------
と答えています。

>「ふえださんは雑な議論をするなあ」
ふえださんという歴史研究者は雑な議論をするなあ、といえばよかったでしょうか。

>結局のところ、あなたは私の説明に納得されたのでしょうか?
突き詰めて考えたことがなかったので、大変参考になりました。
基本的には納得できましたが、ご紹介の文献等を見て、もう少し考えてみたいと思います。

>「歴史学に刑事裁判と同様の証明が要求されることになったら、(中略)死者の残した記録は
>全部排除され、歴史学は崩壊することになりますね。」といった、事実誤認に基づく発言を発信されていること、

これは伝聞証拠排除という刑事裁判の原則を歴史学にそのまま適用するという実際上ありえない仮定に基づく奇妙な結論を提示してみただけで、「事実誤認」ではないですね。
なお、伝聞証拠排除というのはもともと英米法系特有の歴史的背景をもった制度で、完全にこの原則を貫くと真実の解明という刑事裁判の重要な目的が達成できないため、実際上は刑事訴訟法も例外を多くみとめています。

>この二つの現象が、歴史研究を行っていく上で、非常に有害だからです。
論理が理解できません。
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