学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

0085 長谷川明則氏「赤橋登子─足利尊氏の正妻─」(その7)

2024-05-09 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第85回配信です。


p230以下
-------
●赤橋氏の人脈
 先ほど述べたとおり、後醍醐天皇は三種の神器を光明天皇に譲り渡して光明の皇位を認めた。しかし、その年の年末、後醍醐は京都から大和国吉野(奈良県吉野町)へ脱出し、自身の皇位の正統性を主張した。これにより、京都(北朝)と吉野(南朝)に二人の天皇が並び立つ状態となったのである。
 北朝では貞和四年(一三四八)に、光明天皇が甥の崇光天皇に位を譲った。この時、皇太子となったのが直仁親王だが、この決定の背後には、崇光の父である光厳上皇の強い意志があったとされている。直仁の父は花園法皇であり、花園の甥である光厳から見て直仁は従兄弟にあたる。しかし、実は直仁が光厳上皇の子だとする光厳自身の置文が残されており、しかもその事実は花園にも知らされていたのではないかと考えられているのである[深津二〇一四]。
 一方で、直仁の立太子は、光厳が足利氏との連携を重要視した結果であるとの指摘もある[家永二〇一六]。このことを理解するには、直仁の母方の血縁をたどる必要がある。直仁の母は正親町実明の娘・宣光門院実子である。実子には正親町公蔭という兄弟がおり、「北条系図」(『続群書類従』六上)によれば、登子の姉妹が公蔭の妻となっていたとされる。公蔭の従兄弟に当たる洞院公賢の日記『園太暦』にも、「宰相中将(=足利義詮)の母と前大納言(=正親町公蔭)の妻は姉妹だ」と記されており(観応元年(一三五〇)九月七日条)、この二人が姉妹だったのは事実のようである。つまり、登子と尊氏の夫妻にとって、直仁は義兄弟の甥に当たるのである。
 もう一度、正親町公蔭の妻に目を向けてみると、彼女が産んだとされる忠季は元亨二年(一三二二)に生まれており、これが事実であれば、公蔭との婚姻時期は鎌倉幕府滅亡より十年以上も前である。つまり、二人の婚姻は、鎌倉幕府の下での赤橋氏の人脈によって成立したものと考えられる。極楽寺流北条氏と京都との縁は深く、連続して六波羅探題を輩出しただけでなく、実質的に六波羅探題が極楽寺流による請負で運営されていたとされる時期もある。登子の父久時も六波羅探題として京都に赴任したことがあり、そうした経歴の中で京都での人脈を作り上げたのであろう。登子の実家である赤橋氏が築いた京都における人脈は、そのほかにも様々な面で尊氏の政権運営を助けたのであろう。正親町公蔭を通じた直仁との縁戚関係は、その最たるものと考えられる。
-------

直仁親王(1335‐98)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
正親町公蔭(1297‐1360)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E5%85%AC%E8%94%AD
正親町実子(宣光門院、1297‐1360)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E5%AE%9F%E5%AD%90

深津睦夫『光厳天皇 をさまらぬ世のための身ぞうれはしき』(ミネルヴァ書房、2014)
https://www.minervashobo.co.jp/book/b165220.html

家永遵嗣「光厳上皇の皇位継承戦略と室町幕府」
(桃崎有一郎・山田邦和編『室町政権の首都構想と京都』所収、文理閣、2016)
http://www.bunrikaku.com/book1/book1-798.html

赤橋種子と正親町公蔭(その1)~(その6)〔2021-03-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/756ec6003953e04915b7d6c2daa6df1a
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/546ccaccce6039b2783c37af31ff74c5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/17cd878a675a47c28624985d51301d63
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/588e84f3ea3f9104df0529410ddf29c0
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4518f31a8cefeab913a45cf8cd28d541
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/39d230584728bf45b6a86b87eed73878

四月初めの中間整理(その14)〔2021-04-15〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cbabbcf7e6d0394b5518ea5767d8dcc1

京極為兼と長井宗秀・貞秀父子の関係(その3)〔2022-05-11〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5697e3ed6a90b97f784f8323bb11fdb3

小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その1)~(その3)〔2022-05-18〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/19c179315a06cf09305cda3654717d96
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f550deb07c949ce458d1cff7985dbe71
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ac644fc7eb5fcecd949902ff8ca5fba1

『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その11)〔2022-09-17〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7f8ee7d6c5c197c88510cc2314a0ccce
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする