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BY 鈴木小太郎

「会員の結婚についても矢内原の許可が必要」

2017-06-25 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月25日(日)10時37分52秒

結婚つながりで、ちょっと気になったエピソードを『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』から引用してみます。(p139以下)

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 雑誌『嘉信』とならぶ、もうひとつの軸が「自由ヶ丘集会」である。矢内原のもっとも身近にいたのが、その会員たちである。会員数は三七年には二〇人あまりで、その後もすこしずつ増加している。
 矢内原によれば、自由ヶ丘集会は「家庭集会」であり、「誠実を誓つた同志の集り」である。矢内原はその会員を「養子、養女」、みずからを「父」とみなしている。そのため、会員はたがいに「兄弟姉妹の家庭的関係」にあるとされる。会員の結婚についても矢内原の許可が必要であり、矢内原がしばしば仲介し、世話をしている。
 会員の資格としては、かなりきびしい条件が設けられていた。まず、矢内原が「思ふ存分叱り得る」よう、基本的には矢内原よりも一〇歳以上年下の者に限る、とされる。そして、矢内原と生死をともにする覚悟があること、本人の意思だけでなく両親の許諾があることなどが求められた。
 警察による監視がつづいていたため、矢内原の発言などが漏れる危険を防ぐために、出席者は外部に対しては秘密を守ることとされた。また、同じ理由から傍聴などは許されなかった。三七年秋には矢内原が講師を務めた聖書講習会の出席者が警察に取り調べを受けていた。そのため、矢内原の集会の会員であることは警察の監視対象になる可能性が高かった。
 集会は厳格な秩序のもとでおこなわれた。定刻になると玄関は閉ざされ、一分でも遅れたら入ることができなかった。無届欠席は認められず、やむなく欠席するときには事前に届けを出すこととされた。
 集会のプログラムは讃美歌、聖書朗読、祈祷、聖句暗唱、聖書講義といったものであった。司会は矢内原が次週の担当者を指名した。矢内原は聖書講義について次のように書いている。「私の聖書講義は、預言者イザヤが教(おしえ)を弟子の中に「閉ぢこめる」と言つた気概を以て行はれた。私は若い人々の胸を切り開いて、その中に聖言を押しこんで、私亡き後において私の志を受けつがせようと期待したのであつた」。
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矢内原忠雄が筆禍により東京帝国大学を辞職したのは1937年(昭和12)ですから、そういう時代背景を考えると秘密結社並みの厳しい運営が必要だったのも理解できない訳ではありませんが、「会員の結婚についても矢内原の許可が必要」みたいな統制の仕方は、正直、ちょっと気味が悪いですね。
矢内原は若い頃はそれなりにユーモアを解する人だったそうで、長男の伊作が生まれたときには、伊作を抱いて「おはつにおめにかかります。不肖ながら私があなたの父親です。どうかよろしく」と挨拶して周囲の人を笑わせるようなこともあったそうです。(p37)
しかし、

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 矢内原は、満洲事変以後の状況に危機感を抱くなかで、みずからの使命を強く意識するようになっている。同時に、次第に矢内原の性格として、その厳格さが目立つようになる。それ以前の矢内原は、生真面目ではあるが、おだやかでユーモラスな人物であった。しかしこのころから、矢内原は信仰上の弟子や家族に対して厳格な態度で接するようになり、家庭の食卓でも私語を許さなくなる。
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そうですね。(p109)
林健太郎だったか、『矢内原忠雄全集』の月報で、戦後、東大教養学部長時代の矢内原が些細なことでブルブル手を震わせながら激怒する姿を描いていて、正直、私などはそれを読んで一種の狂人ではないかと思ったりもしました。
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黒木為楨と黒木三次

2017-06-25 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月25日(日)09時57分32秒

>筆綾丸さん
>昨今の岩波新書には抵抗がありますが、

私も岩波の『科学』が「幸福の科学」並みのオカルト雑誌と化して以降、一円たりとも岩波の利益に貢献しないように心掛けているのですが、『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』は、矢内原忠雄について自分が見落としていた側面があったかな、と思ってついつい購入してしまいました。
岩波も社会不安を煽ってセコく儲けていますが、火事場泥棒的な出版物を見て、泉下の岩波茂雄が泣いているのではないかと思います。

『科学』2017年7月号「特集 被曝影響と甲状腺がん」
https://www.iwanami.co.jp/kagaku/KaMo201707.html

>柏会の黒木三次が日比谷大神宮で神前結婚式を挙げて内村鑑三の逆鱗に触れた

ウィキペディアを見たら、黒木伯爵家の御曹司・黒木三次の結婚相手は松方公爵家の令嬢なんですね。
内村鑑三の逆鱗は大変だったでしょうが、それに配慮して結婚式を中止したら父親の猛将・黒木為楨が激怒したはずで、日露戦争の英雄に怒られるよりは内村鑑三の逆鱗を我慢する方がマシだったでしょうね。
黒木為楨の長男が三次のような内省的人物であることはちょっと不思議な感じもしますが、年齢は40歳離れていますね。

黒木為楨(1844-1923)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%9C%A8%E7%82%BA%E3%82%82%E3%81%A8
黒木三次(1884-1944)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%9C%A8%E4%B8%89%E6%AC%A1

『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』には、矢内原の神戸中学校時代のエピソードとして、「忠雄は、修身科の教師・島地雷夢の授業に魅了されている。雷夢は浄土真宗本願寺派の僧侶・島地黙雷の息子であったが、クリスチャンとして知られていた」(p8)とありますが、黒木為楨と三次の父子関係は、西本願寺の猛将ともいうべき島地黙雷とその三男・島地雷夢(1879-1914)の宗教対立を連想させます。
こちらも年齢差が41歳と、かなり離れていますね。

島地黙雷(1838-1911)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%9C%B0%E9%BB%99%E9%9B%B7
掲示板「日本人の宗教と宗教心」内、「地黙雷上人と子息の雷夢の往復書簡(現代語訳)」
http://8606.teacup.com/meizireligion/bbs/245

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
マンガ「ゴルゴ13×外務省」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8965
ゴルゴ13と金色のトビ
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8966
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赤江達也『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』

2017-06-23 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月23日(金)08時30分32秒

岩波新書の新刊、赤江達也氏の『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』を購入して少し読んでみました。

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非戦のキリスト教知識人の最大のミッションとは何だったか? 内村鑑三門下の無教会キリスト教知識人、植民政策学者、東大総長、戦後啓蒙・戦後民主主義の象徴といった多面的な相貌と生涯を、預言者意識、「キリスト教ナショナリズム」、「キリスト教全体主義」、天皇観など、従来の矢内原像を刷新する新しい視点から描く。

https://www.iwanami.co.jp/book/b287526.html

矢内原忠雄は面長で鼻梁が高く、いかにも頭の良さそうな美男子ですが、若い頃はビリケンに似ていると言われていたそうですね。
1910(明治43)年、第一神戸中学校を卒業し、旧制一高へ入学した頃の話として、

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 この時期、忠雄は次第に世の中への関心をもちはじめている。この年の夏、話題の中心は韓国併合であった。八月に大日本帝国は大韓帝国を併合し、台湾につづいて朝鮮半島を領有するのである。ただ、忠雄やそれ以前から朝鮮に漠然とした関心を抱いていた。
 きっかけは忠雄の尖った頭のかたちが、韓国統監(併合後は朝鮮総督)の寺内正毅と似ていたことだった。忠雄はときに「寺内」や「ビリケン」といったあだ名で呼ばれた。ビリケンは尖った頭と吊り目をもつ子供の像で、「幸福の像」として世界中で流行していた。六年後に寺内正毅が総理大臣になると、「非立憲」と「ビリケン」をかけて「ビリケン内閣」と呼ばれた。
 川西の親友の三谷隆正が七月に神戸を訪れたときにも忠雄を「韓国統監」とからかい、増井艶子が「私は統監夫人になりましょうか」と冗談を重ねた。忠雄自身も、韓国統監になったら愉快だろう、といった無邪気な想像をしている。一七歳の矢内原忠雄にとって、韓国統監は、きわめて身近な立身出世のイメージだったのである。
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とあります。(p10)
寺内正毅の写真を見ると、確かに頭の形が変わっていてビリケンにそっくりですが、矢内原は頭の輪郭だけはビリケンっぽいものの、全体の印象はそれほどでもないですね。
ま、十代の頃の容貌は違っていたのかもしれませんが。

Billiken
https://en.wikipedia.org/wiki/Billiken
寺内正毅(1852-1919)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%86%85%E6%AD%A3%E6%AF%85
矢内原忠雄(1893-1961)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E5%86%85%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E9%9B%84

以前、少し検討した将基面貴巳氏の『言論抑圧-矢内原事件の構図』(中公新書、2014)は「マイクロヒストリー」を標榜する割には特に緻密な実証的分析はなく、いささか拍子抜けの本でしたが、『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』は丁寧な叙述が続き、安心して読めますね。
といっても、まだ第一章しか読んでいませんが。

『言論抑圧-矢内原事件の構図』への疑問(その1) ~(その3)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7561
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7562
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7568
『言論抑圧-矢内原事件の構図』は「必読の書だ」(by中島岳志)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7611
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『河内屋可正旧記』と「後醍醐の天皇」

2017-06-22 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月22日(木)12時44分21秒

私の日本史に関する知識は鎌倉・南北朝あたりが極端に肥大していて、室町から江戸までは薄く、明治に入って多少は増えるという具合にバランスが悪いものなのですが、今回、天皇号再興関連の勉強を少しして、近世についてもある程度見通しがついたような感じを持てたことは収穫でした。
特に、昨年から何度か断続的に話題にしている「宗教的空白」に関しては、武士のみならず上層農民レベルでも相当早い時期に遡れることが分かって、ちょっと嬉しかったですね。
これは主として若尾政希氏の『「太平記読み」の時代』のおかげです。
同書から少し引用してみます。(平凡社ライブラリー版、p309以下)

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  『河内屋可正旧記』

 「民ハ是国のもと也。本立て末なる。しゐておとしむる事なかれ」(巻一二「雪の譜」)と、『河内屋可正旧記』(原題なし、可正自身は「来由記」と呼ぶ)も、この語を載せている。河内屋可正〔かうちやかしよう〕こと、壺井五兵衛(寛永一三<一六三六>~正徳三<一七一三>)は、河内国石川郡大ヶ塚村(現、大阪府南河内郡河南町)の上層農民(大地主)であり、酒造業を営む商人でもあった。この可正が隠居後、元禄初年(一六八八)から宝永年間(~一七一一)にかけて、子孫らへの教訓として書きためたのが『可正旧記』である。ところで可正はいったいどのようにして「民は国の本」の思想を獲得したのであろうか。
 『可正旧記』は、これまでも民衆思想史研究において取り上げられてきた。安丸良夫氏はこれを「石門心学成立の背景をもっともよく理解させる史料」と位置づけ、「「家」の没落についての危機意識がよびおこす思想形成の方向」は石田梅岩(貞享二<一六八五>~延享一<一七四四>)と「おどろくほど類似」しており、可正の立場を「より徹底して一貫性と原理性を獲得すれば、梅岩の立場となるように思われる」と述べる。具体的には、可正が「天狗、ばけ物、生霊、死霊、地獄、極楽など」を「己が心の妄乱」と見なしたことを挙げて、「「心」の哲学をおしすすめてすべての呪術を否定」する姿勢は、梅岩、二宮尊徳(天明七<一七八七>~安政三<一八五六>)、大原幽学(寛政九<一七九七>~安政五)などの重要な主張の一つでもあったとし、梅岩らの唯心論的通俗道徳形成の先駆として可正をとらえる。また高尾一彦氏は、『可正旧記』から「農村における庶民倫理」のありようを見、可正は「意識的には現状肯定の立場をとりながら」、その発言には「庶民意識の発展がもたらす政治批判意識」の「部分的」「萌芽」を見ることができると結論づけている。
 いうまでもなくこういった研究は、通俗道徳の形成なり庶民倫理の展開といった一つの流れの中に可正を位置づけることに主眼がある。よって可正がいかにして思想(体系的なものから日常の意識までを含めていう)を形成したのか、可正にとって既成の思想はどのようなものであり、可正はそれをどのように展開(あるいは克服)したのかという可正の思想形成には関心がはらわれていない。だが、可正に限らず、ある一つの思想を歴史的に位置づけるには、基礎作業として、その思想がその時代においてどのようにして形成されたかを解明する作業が必須である。こここでは、『可正旧記』に何度も登場する楠正成に着目し、可正の正成像を手がかりとして可正の政治意識を探るとともに、その形成過程を明らかにしていきたい。
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ということで、この後、若尾氏は可正が『理尽鈔』や、『理尽鈔』から更に派生した太平記関連書を幅広く享受していたことを丁寧に論証されています。
若尾氏は同様の問題意識と方法論に拠り、安藤昌益の思想形成過程に『理尽鈔』が存在することを主張されており、私も、ホントかな、と思って少しだけ安藤昌益関係の本を読んでみたのですが、そこまで手を広げると収拾がつかなくなりそうなので、今はやめておくことにしました。
なお、『可正旧記』には次のような記述があるそうです。(p320以下)

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後醍醐の天皇、笠置の皇居に楠正成卿を召せられ、東夷征伐の事、正成を頼ミおぼしめさせらるゝ時、正成の云、一天の君にたのまれ奉りて尸(かばね)を戦場にさらさん事、弓矢取身(とるみ)の面目何事か是にしかん(巻一四「処世訓(二)」)
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ま、『太平記』に「後醍醐天皇」とあるのですから、『太平記』や関連書籍の読者が「後醍醐の天皇」という表現を使うのは当たり前ですね。
近世史の研究者は至る所で「○○天皇」という表現を見ているはずですから、『幕末の天皇』の「『後醍醐天皇』などと呼びはじめたのは、たかだか八〇年ほど前からに過ぎない」という記述を見て、藤田氏は変なことを言っているなと思った人も多いと思います。
別に私が特別な発見をした訳ではなく、近世史の初心者である私が気づくようなことは当然に多くの研究者が気づいていて、直接・間接に批判したと思いますが、何で藤田氏は学術文庫版でも特に修正を加えず、未だにこんなことを主張しているのですかね。

「藤田覚氏への素朴な疑問」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8897
「『後醍醐天皇』などと呼びはじめたのは、たかだか八〇年ほど前からに過ぎない」(by 藤田覚氏)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8903

>筆綾丸さん
>日本と違って王位継承者が多すぎる国の悲喜劇

似たような名前が多すぎて、基本的な事実関係を把握するのも大変です。
イスラム国もそろそろ年貢の納め時が近づいてきたようですね。
ま、たとえ領域支配は終っても、様々な形での暴力の噴出は続くのでしょうが。

BBC:イラク・モスルでISがモスクを爆破 「国家樹立」宣言の場所
http://www.bbc.com/japanese/40363271

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「廃太子に伴う悲喜劇」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8962
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藤田覚氏について(その2)

2017-06-21 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月21日(水)10時14分23秒

松澤克行氏「近世の公家社会」の続きです。

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 このように、この間の天皇・公家などに関する研究は、国家史的関心と政治史的視点から主にアプローチされてきた。そのため、彼等の生活・活動の場である公家社会そのものに対する関心は必ずしも高くはなかった。そうした雰囲気は、この間にこの分野の研究を牽引した一人である藤田覚の、「あまり天皇や公家に共感を覚えないからかもしれないが、いまでも朝廷の仕組みや公家社会についてはよくわからないし、関心は薄い。それより、近世の政治史にとって天皇と朝廷はどのような意味を持つ存在であったのか、朝幕関係の変化は政治史全体とどのようにかかわるのか、という問題関心を重視して研究してきた」という述懐からも窺うことができよう。【後略】
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藤田氏の文章は『近世政治史と天皇』(吉川弘文館、1999)の「あとがき」からの引用ですが、この文章の直ぐ後に次のような記述があります。(p315)

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 かつてある編集者から、「あなたは天皇万歳主義者ですか」と聞かれたことがある。心外だったが、江戸時代の天皇や朝廷の研究成果は、使いようによってはどのようにも使える怖い面をもっている。よほどきちんとした問題意識と研究史の位置づけをしないと危ないなと思った経験がある。「寝た子を起こすことはない」とおっしゃった近世史研究者もおられたが、本当に「寝た子」だったのか疑問が残る。【後略】
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藤田氏は歴史学研究会委員長も勤めたそうですから(2007~2010)、「ある編集者」や「『寝た子を起こすことはない』とおっしゃった近世史研究者」も、おそらく歴研周辺にいるイデオロギー色の強い、些か古風な人々なのでしょうが、藤田氏自身の文章からも、百姓一揆の研究でもしているのが似合いそうな少々古くさい雰囲気が感じられます。
そういう人が公家社会の研究をするのは、やはり無理がありますね。
藤田氏のような「前代からの名残で存在しているにしか過ぎない『臍の緒』」的研究者ではなく、新しい世代の研究者に期待したいと思います。

なお、「臍の緒」発言の林基氏は1914年生まれで、ウィキペディアによれば「中高生時代既に英・独・仏各語に通暁していたが、通交史研究に当たってはオランダ語やポルトガル語、スペイン語も学んだ」というすごい語学力の持ち主ですが、そういう人が日本近世史の研究をしていたというのは宝の持ち腐れのような感じがしないでもないですね。
さすがに現在の歴研では革命の実現可能性を語る人はいないでしょうが、本気で革命を目ざしていた世代の日本史研究者は、語学力に限れば、今どきの日本史研究者を凌ぐ人がけっこう多いですね。
ま、「大日本帝国の贅沢品」であった旧制高校の世代だから、というだけの理由かもしれませんが。

「革命的語学力 」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7167
林基(はやし・もとい、1914-2010)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%9F%BA
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藤田覚氏について(その1)

2017-06-21 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月21日(水)10時13分23秒

ウィキペディアを見ると藤田覚氏は1946年生まれ、千葉大学文理学部・東北大学大学院博士課程を経て東大史料編纂所に21年勤務して教授となり、次いで東京大学大学院人文社会系研究科教授として14年を過ごした人で、近世の史料を自在に活用することができる本当に恵まれた研究環境にいた人ですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E8%A6%9A

『幕末の天皇』の「学術文庫版あとがき」(2013年1月付)によれば、

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 本書は、ある評論家から「日本人の必読書」のひとつとまで評価された。また、従来その名を知られていなかった光格天皇が、歴史上かなり特異で重要な人物であることを認知されるようになった。十八世紀末から十九世紀初頭が、日本近世史の転換点、つまり幕末維新変革の起点となったことは、一般読者向けの書物や概説書などでも承認され、高等学校の日本史教科書にも天皇権威の浮上が取り上げられるようになった。
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のだそうで(p262)、私もずいぶん昔に講談社選書メチエ版(1994)を読んだときは優れた書物のように感じました。
ところで、松澤克行氏(1966年生まれ、史料編纂所准教授)の「近世の公家社会」(『岩波講座日本歴史第12巻 近世3』、岩波書店、2014)の「はじめに」には研究史が簡潔に纏められていますが、戦後暫くの間は近世の天皇など「臍の緒」(by 林基)扱いされていたそうですね。(p37以下)

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 公家社会とは、天皇を頂点とし、それに仕え取り巻く人びとにより構成される集団世界のことである。この公家社会の成員である天皇や公家、また彼等によって運営される朝廷については、戦前の君主制・皇国史観に対する反発や心理的アレルギーの存在、また近世史研究で土地所有の検討を重視する基礎構造論が重視されていたことなどから、戦後しばらくの間ほとんど関心を向けられることがなかった。研究が皆無であったわけではないが、近世の強大な武家政権の下、天皇・公家・朝廷はそれに従属するだけの無為・無力な存在であるという視点からの研究が主流であり、近世の天皇は前代からの名残で存在しているにしか過ぎない「臍の緒」だなどという評価もなされた。
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変化のきっかけは1965年に始まった家永教科書裁判だそうです。

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近世の天皇は君主としての地位を失ったとする原告家永三郎の主張に対し、国が天皇はなお君主としての地位を失っていないと反論し、裁判における争点の一つとなったのである。近世の君主=主権者は将軍であると考えていた学界はこれに強い衝撃を受けたが、近世の天皇・公家・朝廷に対する関心の低さから、積極的な反論を展開できるだけの学術的蓄積をもっていなかった。そうした現状に対する反省とともに、折しも日本史学界では、上部構造を含めた国家史研究の必要性が唱えられるようになり、近世史の分野でも天皇・公家・朝廷を研究の対象とし得る状況が現出したのである。そして一九七五年に、深谷克己、宮地正人、朝尾直弘により、相次いで近世の天皇・公家・朝廷を俎上に乗せた論考が発表される。いずれも、従来のような無力論的視点や単純な公武対立的朝幕関係の図式から脱し、政治過程や権力構造の中に天皇・公家・朝廷を位置付け、近世に天皇や公家集団が存続した背景やその果たした機能などについて解明を試みたのである。こうした一九七〇年代に提起された問題意識と視点を受け継ぎ、一九八〇年代以降は幕政との関係や法、制度、朝廷運営などについて研究が進められ、近世国家における天皇・公家・朝廷の政治的諸側面が明らかにされていった。また、彼らの政治的位置がどのように変容し、幕末期における天皇権威の浮上につながったのかという問題についても検討が進められている。
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注記は煩雑なので省略しますが、最後の一文に付された注5には、高埜利彦氏の「江戸幕府の朝廷支配」(『近世の朝廷と宗教』、吉川弘文館、2014、初出は1989年)と並んで藤田氏の『幕末の天皇』が挙げられています。
長くなったので、ここでいったん切ります。
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藤田覚『近世政治史と天皇』

2017-06-20 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月20日(火)09時42分45秒

6月7日の投稿で藤田覚氏の「天皇号の再興」(『近世政治史と天皇』、吉川弘文館、1999)を検討する予定だと書きましたが、中井竹山や「柳営御追善の連歌」の評価などに関し藤田氏の見解に若干の疑問があるものの、細かい話になるので今はやめておきます。

安徳天皇以来の「諡号+天皇号」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8928
『雲上明覧』を読んでみた。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8931

ま、検討はしませんが、興味を持たれた方の参照の便宜のため、同論文の「天皇号再興の経緯」から、今上帝(仁孝)の「勅問」の内容に関する部分だけ引用しておきます。(p249以下)

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 一 天皇号再興の経緯

 兼仁上皇は、天保十一年十一月十九日に亡くなった。十二月三日に、兼仁上皇に贈る死後の称号について、「先例可被進 御追号之処、依被為有 叡慮、追可被進候迄奉称 故院候事」(橋本実久の「実久卿記」、野宮定功の「定功卿記」。いずれも東京大学史料編纂所所蔵謄写本による)という、天皇の意向が公家たちに伝えられた。この段階で、追号を贈る慣習の再検討が示唆され、決定までのあいだ故院と称することを伝えている。しかし、幕府へは「旧院御追号被 仰出候迄者 故院と奉称候事」と、追号を決めるまでのあいだ故院と称すると伝えられただけで、追号を再検討しようとする天皇の意向は伏されている(「水野忠邦日記」天保十一年十二月十三日条、東京都立大学付属図書館所蔵水野家文書)。
 十二月二十日に兼仁上皇の葬送が行なわれたが、その翌日の二十一日に、「議奏卿列座、以一紙伝仰曰、有太政天皇御諡号之事勅問、各々明日中可申所存云々」(「定功卿記」)とあるように、兼仁上皇へ贈る諡号の件で勅問の文書が出され、翌日までに意見を提出するように命じられた。勅問の下された範囲は、「実久卿記」によれば、大臣以下参議以上の現任の公卿全員であった。全公卿の意向を問うことにより朝廷の意思を決定しようとしており、諡号の再興は重要かつ重たい問題であったことが理解できる。
 勅問の全文は、次のとおりである。

太上皇、如中古以来雖可被奉 御追号、御登壇以来被興復故典旧儀、公事再興不少、 御在位卅有余年、古代も稀に、加之、被貴質素不被好修飾、専 御仁愛之聖慮、遂及衆庶一同安懐之事、 今上〔仁孝天皇〕深 御感悦、依之被奉御諡号、至万代被竭 御孝道度 叡慮候、雖然 小松帝〔光孝天皇〕以後 寿永帝〔安徳天皇〕之外不被奉 御諡号、今度被奉 御諡号可有如何哉、被尋下所存候事、

 天皇は、兼仁上皇が、在位中に多くの朝儀や公事を復古・再興したこと、在位期間も古来稀な三〇年以上に及んだこと、そして質素を好んだことなどから、諡号を贈り孝道を尽くしたいが、光孝天皇以来、安徳天皇を除いて諡号を贈ったことがない事実に配慮して、兼仁上皇に諡号を贈ることの可否を勅問した。この勅問では、諡号を贈られたのは光孝天皇以降では安徳天皇だけだといっているが、保安四(一一二三)年から永治元(一一四一)年まで在位し、保元の乱で讃岐に流された崇徳院の崇徳、寿永二(一一八三)年から建久九(一一九八)年まで在位し、承久の乱で隠岐に流された顕徳院(後に後鳥羽院)の顕徳、そして、承元四(一二一〇)年から承久三(一二二一)年まで在位し、承久の乱で佐渡に流された順徳院の順徳も諡号であり、安徳だけではない。これらの事実から、勅問にいう諡号とは、諡号と天皇号の組に合わさった【ママ】ものを指しているものと考えられる。
------

ということで、史料に「諡号」「追号」などとあっても、「勅問」ですら、その表現が何を意味するのかは個別に検討する必要がある訳で、このあたりも議論が錯綜する一因ではありますね。
私は安徳が「院」ではなく「天皇」とされた理由が未だに分からなくて、「諡号+天皇号」を復活させるに際し、不吉な先例だと懸念するような意見がなかったのか疑問に思っていたのですが、藤田論文を読む限り、特にそんな意見はなかったようですね。
この勅問自体も、寿永帝〔安徳天皇〕はあくまで例外的存在で、小松帝〔光孝天皇〕の先例に戻すか否かが問題の核心なのだ、みたいな主張を暗黙の前提としているようにも読めなくもないですね。
「<光>格天皇」の次は「仁<孝>天皇」ですから、ふたり併せて「<光><孝>天皇」に回帰しているのではないか、みたいなことをチラッと考えたりもしたのですが、図書頭・森林太郎の「帝諡考」を見ても特に裏付けになりそうな記述はなく、まあ、妄想の類のようです。

>筆綾丸さん
>日本の学者って、あんまりレベルが高くないんだね、

ごく一部の分析から著書全体を否定する訳ではないのはもちろんですが、当初予想していたよりも更に雑な部分が見えてきて、ちょっとびっくりでした。

>ザゲィムプレィアさん
私は全く将棋の世界を知らず、先に書いたことは単なる冗談ですので。

※下記投稿へのレスです。
「伝説の人」(筆綾丸さん)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8955
「藤井四段の未来」(ザゲィムプレィアさん)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8956
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一応のまとめ:二人の東大名誉教授の仕事について

2017-06-19 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月19日(月)11時29分26秒

ここ一ヵ月ほど、渡辺浩氏の『東アジアの王権と思想』を出発点として諡号・追号、天皇号・院号について検討して来ましたが、もともとこの話の土台には藤田覚氏の「『後醍醐天皇』などと呼びはじめたのは、たかだか八〇年ほど前からに過ぎない」という基本的な誤解が存在していますね。

「藤田覚氏への素朴な疑問」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8897
「『後醍醐天皇』などと呼びはじめたのは、たかだか八〇年ほど前からに過ぎない」(by 藤田覚氏)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8903

藤田氏はこの基本的誤解に加え、『雲上明覧』という史料も読み間違えて、自説を誤った方向に補強しています。

『雲上明覧』を読んでみた。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8931

そして藤田氏の『幕末の天皇』に惑わされた渡辺浩氏は、この問題の基本文献である『帝室制度史』を読んではみたものの正確に理解することができず、諡号・追号と天皇号・院号を混同し、史実としては「順徳院」という「諡号+院号」を贈られた人が「諡号+天皇号」を贈られたものと誤解しています。

「従来の日本史用語の思想性も衝き,斬新なパースぺクティブを提示」しているのか?
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8926
安徳天皇以来の「諡号+天皇号」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8928

更に渡辺浩氏は『大日本永代節用無尽蔵』という史料について、ちょっと信じられない誤読もしています。

『大日本永代節用無尽蔵』を読んでみた。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8929

ということで、『東アジアの王権と思想』における

-------------
 十三世紀初期から十八世紀末までの日本には、ある意味で、天皇は存在しない。順徳天皇(在位 承元四・一二一〇年ー承久三・一二二一年)以来、天保十一年(一八四〇)に光格天皇(在位 安永八・一七七九年ー文化十四・一八一七年)の諡号が復活するまで、「天皇」の号は、生前にも死後にも正式には用いられなかったからである。彼等は、在位中は「禁裏(様)」「禁中(様)」「天子(様)」「当今」「主上」等と、退位後は「仙洞」「新院」「本院」等と、そして、没後は例えば「後水尾院」「桜町院」「桃園院」と呼ばれた。前掲『大日本永代節用無尽蔵』(嘉永二年再刻)の「本朝年代要覧」も、光格・仁孝以前は(古代とそれ以降の順徳等少数の「天皇」を除き)、「何々院」と忠実に記載している。江戸時代人は、「後水尾天皇」などとは、言わなかったのである。(『東アジアの王権と思想』(1997年 初版 7頁)
----------------

という記述は、東京大学名誉教授・藤田覚氏の複数の勘違いの上に、東京大学名誉教授・渡辺浩氏が独自の複数の勘違いを追加した勘違いの詰め合わせであることはガッテンしていただけたのではないかと思います。

東京大学名誉教授・渡辺浩氏の勘違い
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8895

>筆綾丸さん
>15歳の竜王もありえますね。

藤井四段がこのまま連勝を続け、あらゆるタイトルを獲得し、18歳くらいで「見るべき程の事は見つ」とか言って飄然と棋界を去る、という可能性はどうでしょうか。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「中学生の名言と栗田艦隊の謎の反転」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8953
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『舞台をまわす、舞台がまわる―山崎正和オーラルヒストリー』の聞き手について

2017-06-18 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月18日(日)09時18分36秒

>筆綾丸さん
>たかが料理屋(料亭?)に出入りしたくらいで、なんでつるし上げられたのか

私も妙な話だなと思いました。
赤線廃止前の時代ですから、普通の料理屋ではなかったのかもしれないですね。
前回投稿で引用した部分の直前、貝塚啓明氏は、

------
 中学・高校時代の山崎氏については、実をいうと直接話をするという機会はなく、したがって見聞に基づく印象を書きつらねたい。中学・高校時代の山崎氏は、筆者のようなノン・ポリの安全指向型人間にとっては、驚嘆すべき存在であって、内心「すごい奴」がいるものだと思っていた。当時の鴨沂高校というのは、戦後の学制改革で六・三・三制が発足したとき、当時の京都に駐在した米軍の一将校の英断(?)によって完全な小学区制をしいたことの産物であった。われわれは、旧制中学(京都府立第一中学校)の最後の年次であり、有無をいわさずに女学校(京都府立第一高等女学校)と合併させられたのである。
------

と書かれていますが、貝塚茂樹の息子という坊ちゃん育ちで、「ノン・ポリの安全指向型人間」だった啓明氏は些か頼りない証言者ですね。
満州でソ連軍の中でも最も質の悪い兵士たちが行なった暴虐をつぶさに見ていたはずの山崎氏が共産党に入党した事情には不可解な部分が残りますが、『舞台をまわす、舞台がまわる-山崎正和オーラルヒストリー』では、シュトゥルム・ウント・ドラングの時期だった、みたいな説明で終っていて、聞き手も特に追及はしていません。
だいたい同書の聞き手四人は少しぬるくて、例えば阿川尚之氏は、

------
 機知に富んだ若者が逆境に置かれながら、ふとした出会いから運をつかみ、努力を重ねて大成功を収める。わらしべ長者からベンジャミン・フランクリンに至るまで、サクセス・ストーリーのパターンは変わらない。山崎さんの冒険は、敗戦とともにあらゆる秩序が崩壊した満州で、病身の父に変わって家族を守りつつ生き延びるという、想像を絶する経験から始まる。かちかちに凍り付いた首つり死体が梁からぶら下がる教室で、なにごともなかったかのように小学生たちが勉強を続けるという光景は、凄惨を越えてシュールである。敗戦から3年、父の死後内地へ帰還して高校へ進んだ少年は、飢えてはいたものの目前の死から解放されて知の世界に耽溺する。共産党の細胞になり、京大で美学を学びながら、初めて書いた戯曲が認められ上演される。不思議な出会いに恵まれ、アメリカへ留学してオフブロードウエーで自分の戯曲公演にこぎつけながら、「成功の泥沼」を嫌って帰国。戯曲を書き続け、評論を書きはじめ、大学で教えているうちに、30代半ばで時の総理大臣に直接助言をするようになる。これが成功物語でなくて何であろう。

http://www.suntory.co.jp/sfnd/asteion/essay/vol15.html

などと言っているのですが、「細胞」は共産党の末端の組織ですから、個人は「共産党の細胞になり」得ません。

細胞(政党)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E8%83%9E_(%E6%94%BF%E5%85%9A)

まあ、つまらない表現に拘っているように見えるかもしれませんが、共産党の歴史にある程度詳しい人だったらこんな書き方は絶対にしないはずで、アメリカ時代についてはともかく、青年期については阿川氏自身がずいぶん頼りない聞き手ですね。
このあたり、山崎氏と同世代で、同じく共産党経験を持つ伊藤隆氏あたりが聞き手だったら、もっと突っ込んだやり取りがあったはずです。
主たる編者である御厨貴氏についても、私はもともと同氏があまり好きではないこともあって種々疑問を感じるのですが、細かくなるのでやめておきます。
牧原出氏あたりになると発言の数が僅少で、更にその中に鋭い質問は皆無であり、そもそも何のためにいたのかすら疑問ですね。

「お前みたいな机上の学問をやっている奴とは違うんだ」(by 矢次一夫)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7790
「もうひとつの歴史学研究会」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7795

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「浴沂之楽」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8950
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貝塚啓明「高校時代の山崎氏のこと」

2017-06-17 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月17日(土)10時53分34秒

>筆綾丸さん
>いま読むと、なんだか照れ臭いような会話なんですね。贈名とか、用語も変で。

そうですね。
後白河は途中までは権力欲に憑かれた者たちの心理的弱点を巧みに突いて、その運命を弄ぶ不気味な予言者として描かれているので、いかにも「人は絢爛と滅びるために生きるのだ」みたいなことを言いそうな人物なのですが、最後の最後で妙に弱々しい人間になってしまっていますね。
まあ、山崎正和はそうした人間存在の矛盾を描きたかったのだ、みたいな見方もあるでしょうが、単に統一的な人間像を造型することに失敗しただけ、との評価も可能かもしれないですね。
『舞台をまわす、舞台がまわる-山崎正和オーラルヒストリー』では御厨貴氏らが山崎正和の記憶力の良さを絶賛していますが、「夏草と野望」の第一幕で後白河の追号を詳しく論じながら、第三幕ではその追号を生前の後白河の自称として使ってしまうような物覚えの悪い人だということを知ってしまった後では、作品全体に対する評価も変ってきますね。

>棚橋の論稿も、いまとなっては照れ臭くて読み返せないかもしれません。

後世に残るのは『中世成立期の法と国家』だけかもしれないですね。
ウィキペディアの棚橋光男の略歴には「岸俊男・大山喬平に師事」とありますが、大山氏は山崎正和と高校(京都府立鴨沂高校)で学生運動仲間だったそうですね。
貝塚啓明氏の「高校時代の山崎氏のこと」(『山崎正和著作集1』月報)には大山氏の名前も登場します。(p3以下)

------
 当時は、世の中がいわば一八〇度変った時期であり、先生方にとってもおそらく混迷時期であったと思われる。【中略】
 このような時期に、確か高校二年のときと記憶するが、突然校長つるし上げ事件が起きた。その経緯はそれほどはっきりしていないが、T校長が夕方料理屋(料亭?)からいい気分で出て来られるところを写真にとった学生がいて、これを種としてビラをまいたことがきっかけであった。ある日、「校長がつるし上げられとるぞ!」というクラスの一人の声で授業そっちのけで皆が校長室にかけつけると、すでに校長室はいっぱいで筆者が壁ぎわに押されるように立っておそるおそる眺めていると、数人の学生が校長をつるし上げている最中であった。
 残念ながらこの数人の学生のなかに山崎氏がいたかどうかは確認しえないが、当時、校門でビラを配っていた学生のなかに、ベレー帽をかぶり精悍な顔つきの山崎氏がいたことは間違いがない。これらの騒ぎの主謀者とおぼしき人々には、河合秀和(現在学習院大学教授)、竹内成明(現在同志社大学教授)や大山喬平(現在京都大学助教授)の諸氏が含まれていて、やがて山崎氏を含めてこれらの諸氏は、京都大学や東京大学の一時期の学生運動の立役者へと変貌するのである。筆者の印象では高校時代のこれらの諸氏のなかで、山崎氏がもっとも迫力があり、汚い頭陀袋を肩から下げ、ベレー帽をかぶり、どた靴をはいて道を歩いてくる山崎氏に出会うと圧倒される思いであった。いずれにしても、高校における学生運動のはしりともいえるこれらの事件については、一つの歴史的事実として、時期がくれば当事者に客観的な記録を作っていただくようお願いしたい。
------

『舞台をまわす、舞台がまわる-山崎正和オーラルヒストリー』では、共産党に入って学生運動をやっていたのは高校時代だけで、大学ではやっていなかった、みたいなことを言われていますね。
ま、政治的にはずいぶん早熟だったようで、この種の経験が「地底の鳥」のような暗鬱な作品にも活用されているようです。
山崎正和と同世代で演劇に詳しい人というと、私の場合は山口昌男の名前が最初に出てくるのですが、山崎正和の青春時代には山口昌男のような明るさが全くなく、それが山崎に喜劇を描く才能がない理由でもあるのでしょうね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「絢爛と、腹を切る」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8948
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「ただ穏やかな日が蘇へるために、ときどき驕れる者が絢爛と滅びなければなりませぬ」

2017-06-16 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月16日(金)11時43分19秒

>筆綾丸さん
>朧な記憶ながら、後者には、たしか、後白河法皇が清盛を指して、人は絢爛と滅びるために生きるのだ、とかなんとか言う場面があったと思いますが、

『山崎正和著作集2 戯曲(2)』(中央公論社、1982)を見たところ、「野望と夏草 三幕六場とエピローグ」のエピローグは、

------
文治二年(一一八六)夏。
大原の里、寂光院の庵室。
夜。月の光が深い林の葉叢を透してあちこちに落ちてゐる。
貧しい庵室に燭台を灯して、後白河と尼姿の阿波内侍、それに今は建礼門院となった徳子が座ってゐる。
庭のほの暗いところに、頭巾で深く顔を隠した二人の僧が佇む。
-------

という設定になっていて(p91)、次のようなやりとりがあります。(p93以下)

-------
後白河 できることなら答へてくれ。このむなしさに帰るために、ひとはなぜ一度あの栄華を築かねばならぬ。なんのためだ。寄辺ない娘二人を残すために、ひとはなぜ信西や清盛の恐ろしい志を抱かねばならぬ。
僧1 (低くゆっくりと)峰のうへの雲はなんのために湧くのか。獣を驚かす野分はなんのために吹くのか。青い大空をいや増しに青く、嵐のあとをいや増しにうららかにするためでございませう。
僧2 人の世の転変も同じこと、ただ穏やかな日が蘇へるために、ときどき驕れる者が絢爛と滅びなければなりませぬ。
後白河 待て。そなたは誰だ。その声には覚えがある。
建礼門院 あ。(暫時の間)父上……
阿波内侍 (ほぼ同時に)お父上。

女たち二人、縋りあふ。
二人の僧、ゆっくりと逃げて舞台前面に進み出る。
月の光が頭巾のなかに射して、僧1は信西、僧2は清盛の顔をしてゐるのが見える。
-------

ということで、絢爛と滅びる云々は清盛の亡霊(?)が後白河に語るセリフの中の表現ですね。
ところで、第一幕第一場には信西と清盛の次のようなやりとりがあります。(p19以下)

------
藤原信西 うむ清盛。いづれ今上には贈名〔おくりな〕をさしあげねばならぬ。ちょうど今、恰好の名前を思ひついたところだ。後白河天皇。どうだぴったりだとは思はぬか。あの恐るべき英雄、白河上皇。それを戯画に描いたやうな後白河天皇……
【中略】
平清盛 (短い間)だが贈名とは意地悪いしきたりですな。どんな帝王、英雄でも、結局は後の世の人間に名前をあたへられ、凡俗の眼によって計りにかけられるわけですな。
------

ここ暫く諡号・追号、天皇号・院号を検討してきた私としては、諡号ではなく追号だからそれほど「意地悪いしきたり」でもないだろうとか、「白河天皇」「後白河天皇」ではなく、それぞれ「白河院」「後白河院」だよね、とか若干の意見がない訳でもありません。
ま、それはともかくとして、これだけ贈名について丁寧な検討を加えておきながら、第三幕第一場では、

------
後白河 だとすればその清盛が、なぜ今となってこの私を責めようとする。なるほどそなたの調べによれば、後白河は謀叛人をそそのかしたのかもしれぬ。【中略】おのれの血筋と天命にもし本当の自信があれば、手に一兵もない後白河をそなたが恐れるわけがないではないか。
------

という具合に、生前の後白河天皇が「後白河」を自称で使っています(p74)。
「私」で通せば十分なのに、ここはさすがに変ですね。

>速水融氏の弟子筋
速水氏よりずっと若い世代なのに、磯田氏が妙に年寄臭く、おまけに田舎臭くなってしまっているのは困ったものですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
中国の「ひょっこりひょうたん島銀行」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8940
「トッドの失望」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8946
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「私は三十六歳で結婚するまで、経験がゼロ。きっちり直系家族の秩序主義をやり遂げました」(by 磯田道史氏)

2017-06-15 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月15日(木)10時36分26秒

昨日の投稿は去年12月12日の「エマニュエル・トッドと磯田道史氏のほのぼの対談」と比べて公平を欠くかなと思って、「日本の人口減少は『直系家族病』だ」を読み直してみたのですが、あまり印象は変わりませんでした。
トッドが、

------
その薩摩の特殊な家族形態をどのように捉えたらいいのか……。私の考えでは、方言と同じように、基本的に家族システムは中心から周縁部に伝播していくものです。だからユーラシア大陸の周縁部であるヨーロッパで核家族が中心的形態となっていることは、核家族こそが最も古い家族システムだということなのです。
 ただ、アルプスの溪谷やブルターニュ地方などの孤立した地域には、簡単に説明のつかない家族システムも存在します。それこそ、すべてを調べるためには百五十歳まで生きなければいけないくらい(笑)。
------

と述べた部分(p131)は、「中切」の問題点を糺すには絶好の機会でしたが、磯田氏は薩摩関係以外の応答はしていないので、家族社会学にそれなりに詳しいはずの磯田氏が「中切」に気づいていなかったことはこれで確定ですね。

「中切」の謎(その1)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8655
「中切」の謎(その2)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8657

また、トッドは、要所要所で日本ローカルな話からもう少し一般理論に広げようと試み、例えば、

------
 日本の社会が、秩序を重んじる直系家族によって固定化してしまったとき、それを打開するために薩摩の人たちが、あるいは薩摩風の人たちが無秩序というか、フレキシビリティを発揮するのですね。それは直系家族より前に存在した、原初的でアルカイック(古風)な家族システムによるのかもしれません。
 普段、日本人は非常に規律正しく礼節を重んじる民族ですが、と同時にもっと柔軟で、「自然人」とでも言うべき奔放な側面も併せ持っている気がします。同じ直系家族のドイツやスウェーデンで「自然人」を見つけようとしたら、もっと深く地層を掘り返さないといけない。(笑)
------

という具合に誘うのですが(p132以下)、磯田氏は、

------
なるほど。丸山真男が言うところの「古層」のようなものでしょうか。
------

というトンチンカンな対応をして、議論が発展する芽を自ら摘んでしまいます。
この文脈で丸山真男みたいな田舎知識人の名前を出すこと自体、根本的なセンスの欠如を感じます。
最後の方で、磯田氏が唐突に万葉集に言及してトッドを混乱させた後、

------
【前略】万葉集のころは、日本史上、一番性愛に大らかだった時代ですから。
 一方、変わらなかったのは、親を養うという意識です。実際にそうするかどうかは別として、今でもアンケートをとると「親を養う」という直系家族的な考え方は意外と根強いです。あとは子どもができたら結婚するという考え方。この志向は非常に強く維持されているから、芸能人でも「できちゃった婚」が多いんです。
 トッド 私はこれまで三回結婚しましたが、毎回、子どもが生まれてからでしたよ(笑)。
 磯田 私は三十六歳で結婚するまで、経験がゼロ。きっちり直系家族の秩序主義をやり遂げました。もてなかっただけだけど(笑)。
------

というほのぼのとしたやり取りが続きますが、正直、磯田氏ではなく、私がトッドと対談した方がよっぽど学問的な対話になったような気がしないでもありません。

>筆綾丸さん
『夏草と野望』、読み始めたところです。
『山崎正和著作集』1巻の月報に貝塚茂樹の息子、啓明氏の「高校時代の山崎氏のこと」というエッセイが載っていますが、若いころの山崎正和は精悍で、周囲を圧倒するような迫力があったそうですね。
温和そうな現在のイメージとはかけ離れていますが、若い頃の戯曲には、そうした精悍な側面が現れている感じがします。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「国家の黄金分割?」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8944
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「エマニュエル・トッドが語る天皇・女性・歴史」

2017-06-14 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月14日(水)07時44分17秒

本郷和人氏といえば、昨日、『文藝春秋SPECIAL』に本郷氏を聞き手とする「エマニュエル・トッドが語る天皇・女性・歴史」というインタビュー記事が出ていることに気づき(平成29年季刊冬号)、遅ればせながら読んでみたのですが、これは良い対談でした。

http://www.bunshun.co.jp/mag/special/special1701.htm

トッドと日本の歴史学者の対談では『文藝春秋』2016年12月号に掲載されたトッドと磯田道史氏の「日本の人口減少は『直系家族病』だ」を思い出しますが、磯田氏がトッドへの日本関係情報の提供者に終始していて、理論的な対話が一切ないのは残念でした。

「エマニュエル・トッドと磯田道史氏のほのぼの対談」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8682

本郷氏は「私がトッドさんの研究ですごいと思うのは、まさにその仮説を立てる力ですね。これは、日本の歴史学者が最も苦手とする、といいますか、忌避してきた部分でもある」(p224)、「今日は、日本の歴史から女性問題まで、トッドさんの仮説力に圧倒されました(笑)」(p233)などとトッドを持ちあげつつ、要所要所できちんとした議論を闘わせており、さすがですね。
二人のやりとりには微妙な可笑しさを感じさせるところもあります。
例えば、

-------
 本郷 そこで、日本は平和的な国だったのか、という問いと重なりますが、一方で、日本は一二世紀からずっと近代に至るまで、一貫して軍事政権です。それに対して、中国は武官よりも文官が上ですね。これは家族システムと関係するのでしょうか。
 トッド それはとてもいい問いですね。しかし、答えるのは非常に難しい。
 ただ、直系家族的なものと軍事組織のあり方は、関係があると思います。近代日本が効率の良い軍隊を作り上げたこと、一七~一八世紀のプロシアの軍人比率の高さなどが思い浮かびますね。【後略】
------

という会話(p229)の3p後に、

------
【前略】 となると、日本では、ヨーロッパとは逆に、明治になってから、一般の日本人が営んでいる「直系家族」を皇室にも適用した、といえるのでしょうか。本郷さん、いかがですか?
 本郷 王が一般社会のあり方を決めるのではなく、逆に、一般社会の側が王のあり方(家族システム)を決めてしまったのでは、という問いですね。うーん、とてもいい質問だと思います(笑)。
------

とあります。
トッドは対談で割と気楽に「それは良い質問ですね」という言い方をするのですが、ちょっとムカつく表現ではありますね。
本郷氏はトッドのジャブに対し、きっちりとジャブを打ち返しており、こういうところはさすがに世慣れているというか、古狸っぽくて良いですね。
相手の議論のペースに巻き込まれないようにするために、こうした小技も大事だと思います。

>筆綾丸さん
>山崎正和氏の『世阿弥』と『夏草と野望』

恥ずかしながら未読です。
早速読んでみます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
中国の「ひょっこりひょうたん島銀行」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8940
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「九条道家の系統は急坂を転げ落ちるように没落し、……」について

2017-06-13 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月13日(火)10時29分58秒

>筆綾丸さん
『雲上明覧』下巻を見ると、御摂家方・御華族方・大臣家・閑院家・花山院家・中御門家・御子左家・日野家・勧修寺家・四条家・水無瀬家……といった具合に分類されていて、この分類自体がいかにも近世的ですね。
私は公家の諸流の系統を『尊卑分脈』に従って分類することに慣れていたので、ちょっと妙な感じです。

>大田氏のブログ
文体も内容も、些か息苦しいですね。
先日、御厨貴・阿川尚之・苅部直・牧原出編『舞台をまわす、舞台がまわる 山崎正和オーラルヒストリー』(中央公論新社、2017)を読んだのですが、満州国崩壊後のなかなかショッキングな描写がありました。

鹿島茂「舞台をまわす、舞台がまわる - 山崎正和オーラルヒストリー」
https://allreviews.jp/review/31

>キラーカーンさん
>何を以って「没落」とされているのでしょうか

貴族社会から消えてしまった訳ではないので「没落」は強すぎる表現だったかもしれないですね。
九条道家は幕府との良好な関係を背景に朝廷において強力な指導力を発揮していたのですが、後鳥羽・順徳院の帰京を図って幕府の怒りを買ったことがあり(1235年)、次いで四条天皇急死(1242年)を受けて順徳院皇子の忠成王擁立を図ったことで幕府の不信感を決定的にしたようですね。
とはいえ直ぐに失脚した訳ではありませんが、宮騒動(1246年)・宝治合戦(1247年)の時期に幕府と完全に敵対し、了行事件(1251年)を経て将軍頼嗣追放の使者が入京した翌日に道家が急死します(1252年)。
九条流の一条・二条・九条三家のうち、道家と壮絶な親子喧嘩をして義絶された二条良実を祖とする二条家を除き、一条実経が関白になるのが1265年、九条忠家が関白になるのが1273年で、形式的にはこれで道家流が復活したように見えるかもしれませんが、道家の時代と比べると摂関の重みが実質的に全く違ってしまっていますね。
近衛流の近衛・鷹司家を加え、五摂家が摂関を持ち回りのように短期間に交替させるようになったのは、実際上の政治的指導力と摂関の地位が無関係になってしまったからですね。

『後深草院二条』サイトがあったときには九条道家とその子孫に関係する資料を直ぐに参照できたのですが、掲示板での投稿となると、次の二つくらいしか参考になりません。

『二条殿秘説』
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5354
「九条道家」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5356

九条道家については本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』(東大出版会、1995)が一番参考になります。
キラーカーンさんがこの本を読まれたならば、もう少し実質的な議論ができると思います。

なお、鎌倉時代の摂関については、手元に適当な資料がないので、便宜的にウィキペディアの「摂政・関白の一覧」を参考にしました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%94%BF%E3%83%BB%E9%96%A2%E7%99%BD%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

※下記投稿へのレスです。
「笹竜胆」(筆綾丸さん)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8936
「駄レス」(キラーカーンさん)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8937
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『公卿補任』における天皇号・院号

2017-06-12 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月12日(月)09時44分26秒

『雲上明覧』は公家鑑(くげかがみ)の一種で、武家社会における武鑑(ぶかん)に相当するものなんですね。

「公家鑑はこのようなモノです」(『藤實久美子WEB研究室』サイト内)
https://sites.google.com/site/zanekky/home/ing1/kuge1

武鑑があくまで民間の出版物であって、幕府や諸藩が公的に作成に関与したり、その内容の真正を保証したりしないのと同様、公家鑑も別に公的な「公家名簿、朝廷の職員録」ではなく、藤田覚氏の「江戸時代の公家名簿、朝廷の職員録ともいうべき『雲上明覧』」との表現は誤解を招きますね。
では、もっと正確な「公家名簿、朝廷の職員録」がないかというと、代々書き足されて作成されてきた『公卿補任』がいいんじゃないかなと思って、吉川弘文館から出ている黒板勝美・国史大系編修会(編)『新訂増補国史大系』の第53巻(公卿補任、第1篇)から第57巻(公卿補任、第5篇)までを眺めてみました。
まず第1篇を見ると、神武から醍醐までは全て「天皇」ですが、「朱雀院」の後、「村上天皇」となり、次の「冷泉院」から「高倉院」までは「院」が続きます。
そして「安徳天皇」となって、最後は「後鳥羽院」です。
第2篇は「順徳院<佐渡院>」から「後円融院」まで全て「院」ですね。
後醍醐も「後醍醐院」「後醍醐院<重祚>」で、南朝の天皇は無視されています。
第3篇は冒頭の後小松がちょっと特殊で、「後小松院」で始まっているのに、29~73pは「後小松天皇」ですね。
その後は「後西院」まで、全て「院」です。
第4篇は「霊元院」から「後桃園院」まで、全て「院」ですね。
第5篇は「光格天皇」から「明治天皇」まで、全て「天皇」です。

「国会図書館デジタルコレクション」では明治時代に出た経済雑誌社版の「国史大系」前・中・後編を閲覧できますが、こちらは「村上天皇」まで全て「天皇」で、朱雀も「朱雀天皇」ですね。
「冷泉院」以降は光格の前の「後桃園院」まで、「安徳天皇」を唯一の例外として全て「院」であり、吉川弘文館版と異なり、後小松も一貫して「後小松院」です。
光格の後は全て「天皇」ですが、一番最後は「今上天皇」(=明治)ですね。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991099
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991100
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991101

史実としては「院」号を贈られている宇多・陽成・朱雀(没年順)の扱いが、経済雑誌社版では全て「天皇」、吉川弘文館版では朱雀のみ「朱雀院」となっていますね。
史実とのズレは、あるいは公卿補任の成立時期の問題とも関係しているのでしょうか。
吉川弘文館版で後小松について特殊な扱いになっている理由は何なのか、ちょっと分かりません。
史実としては遺詔で「後小松院」となった点は間違いないですね。

さて、『大日本永代節用無尽蔵』『雲上明覧』『公卿補任』を比較してみると、安徳は全部共通して「安徳天皇」であり、また、順徳は全部共通して「順徳院」です。
また、『大日本永代節用無尽蔵』が南北朝併記であるのに対し、『雲上明覧』『公卿補任』は南朝を無視しています。
後醍醐の扱いも、『大日本永代節用無尽蔵』だけ「後醍醐天皇」で、『雲上明覧』『公卿補任』は「後醍醐院」です。
「江戸時代の公家名簿、朝廷の職員録ともいうべき」存在は『公卿補任』ですが、『雲上明覧』は『公卿補任』とその基本的傾向が概ね一致しており、公的記録ではないにしてもそれなりに信頼できる情報源に基づいているといえそうですね。
他方、渡辺浩氏が引用する『大日本永代節用無尽蔵』は、まあ、俗書の類ですね。

>筆綾丸さん
東西を問わず、本願寺は本当に大陸進出に積極的な教団でしたね。
検索してみたところ、「長春だより」の大田英昭氏は、

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1974年生まれ。京都大学総合人間学部卒業。東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程修了。博士(学術)。現在、東北師範大学(中国)歴史文化学院教授。専門は日本近代思想史。
https://www.nippyo.co.jp/shop/author/3633.html

とのことで、私などより一回り以上若い世代ですが、「日本共産党と天皇制―国会開会式への出席をめぐって」という記事を読むと、その古色蒼然たる文体には「そんな時代もあったね」と中島みゆき的な感懐を抱いてしまいます。
個人的には私も日本共産党の変化にあまり賛同できず、いつまでもノスタルジーを感じさせる存在であってほしいと願っています。

http://datyz.blog.so-net.ne.jp/2015-12-25

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「爾霊山」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8934
コメント
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