学問空間

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瀬沼夏葉訳

2009-05-30 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 5月30日(土)00時29分24秒

夏葉訳がどんなものか、雰囲気をつかむために、第三幕のロパーヒンの有名なセリフを引用してみます。
秋山勇造氏「瀬沼夏葉─生涯と業績─」からの孫引きですが。

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今、桜の園は私のものです!私のです(高く笑ふ)あゝもうこの桜の園は私のものになつて了ひました!まあ、どうぞ私を酩酊(よつぱら)つたとも、気が違つたとも、或は私のこりや幻影だとも云つて下さい・・・(足踏をして踊る)私を笑はないで下さい! あゝもし死んだ親父(おやぢ)や祖父(ぢゝい)が墓から出て来て、この事を見たら奈何(どう)でせう。自分達のこのエルモライが、然も始終殴打(なぐ)られてゐた、教育も受けさせられない、エルモライが、いやまだ/\冬にも始終跣(はだし)で駈廻(かえまは)つてゐた、あのエルモライがね、奈何です、この世間に二つとは無い、この立派な桜の園を買ひました。昔は祖父も親父も農奴の身分で、もう此方(こちら)のお台所だつても、首を出すことすら、出来なかつたものです。こりやどうも私の夢だろうよ、私の眼にさう閃(ちら)ついて見えるのだらう・・・いや、こりゃたゞ貴方々(あなたがた)の暗い、訳の解らない、何かの妄想の結果に過ぎないのでせう・・・(鍵を床から拾ひ上げて優しく笑ふ)鍵を放り投げた、もう彼(あ)の女(ひと)は此処の女主人(あるじ)株ぢやないと云ふやうに・・・(鍵の鈴を鳴す)さう、そりや何方でも可い。(音楽隊が調子を合はせる音がする)やあ、楽隊、弾け弾け!私が所望だ! さあ、皆来て見るがいゝ、このエルモライ・ロパーヒンは甚麼風に斧を取って、この桜の園を切払ふか、木は甚麼風に伐られて地上(つち)に倒されるか! 私は此処を別荘の貸地に経営する。さうして我々の孫や曾孫は初めて此処で新しい生活を始めるのだろう・・・おゝい! 弾け弾け! 音楽隊。
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恥ずかしながら私は「甚麼風」が読めません。
ご存知の方は教えてください。

>好事家さん
私は楠木正成について特に調べたことはないのですが、普通は楠木正成関係の系図は信頼できないと言われてますね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E6%88%90

>筆綾丸さん
>『消されたヘッドライン』
最後のひとひねりで、ずいぶん複雑な話になってしまいましたね。
ラッセル・クロウを始め、俳優は皆、好演していたと思いますが。
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喜劇的イギリスと悲劇的アメリカ

2009-05-28 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 5月28日(木)00時26分44秒

下の投稿で紹介したJames N. Loehlin氏の"Chekhov: The Cherry Orchard"を、千葉大学の内田健介氏が要約されてますね。

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 このようなイギリスでの『桜の園』の上演を見ていくと、どの演出においても喜劇として『桜の園』を捉えていることに気がつかされる。チェーホフ自身は喜劇として『桜の園』を書いたのだから、喜劇として演出されるのは当然だとも思われるが、スタニスラフスキーはそうは捉えなかった。彼にとって『桜の園』は喜劇ではなく悲劇であったためである。そして、それはスタニスラフスキーだけの理解ではない、現在でも『桜の園』が喜劇か悲劇なのかという論争は止む気配がなく、大きな問題として残っている。(中略)

 第4章では、このような 20 世紀前半のイギリスとアメリカの『桜の園』について取り上げられているが、同じ英語圏でありながら2つの国で上演された『桜の園』には、演出だけでなく劇評も含めて大きな差が生じている。モスクワ芸術座が遠征公演を行う前から『桜の園』を上演していたイギリスでは、失敗を経験しつつも上演を重ねて成功に至った。そして、早い段階の劇評から『桜の園』の喜劇性についての批評が見られ、最終的に成功を収めた Old Vic の演出は、笑いにあふれた喜劇として演出された『桜の園』であった。
 それに対して、アメリカではこうした批評の中にも喜劇性についての言及は見られず、観客の笑いを誘うような舞台ではなかった。ここには、やはりモスクワ芸術座の公演が大きく作用していると考えられる。スタニスラフスキーの理解によって悲劇として演出がなされた『桜の園』は、アメリカでもほぼ変わらない形で上演された。当然、初めてモスクワ芸術座の舞台を見たアメリカの観客は、この演出がオリジナルであり、チェーホフの望んだ舞台だと信じていたはずである。また、筆者が指摘するように、当時の劇団の置かれた社会状況も『桜の園』を理解する上で影響を与えていたであろう。
 ところが、モスクワ芸術座の遠征が行われる前に『桜の園』の上演をしていたイギリスでは初期の頃から喜劇として捉えようと試み、劇評の中でも喜劇性について指摘がなされている。そして、20 世紀前半のイギリスで最も成功した Old Vic の『桜の園』は笑劇に近い舞台で、それ以降イギリスでの『桜の園』の解釈に大きく影響を与えたことが指摘されている。1928 年にはイギリスから Fagan の舞台が訪米し、『桜の園』を上演したが、イギリスでは好評だった彼の舞台がアメリカでは全く受け入れられなかった。批評の中では役者の演技などについて言及がなされているが、そこには喜劇として演出された『桜の園』に対する違和感もあったのだと考えられる。

http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/irwg10/jinshaken-18-15.pdf


イギリスとアメリカでこれだけ評価が違うというのも、ずいぶん面白い現象です。
James N. Loehlin氏の本はアマゾンで6,424円と、260ページほどの本にしてはずいぶん高価ですが、どうしても確認したい事項があるので、思い切って購入してみることにしました。

>好事家さん
なるほど。
私は、もしかしたら「観世福田系図」のことを言われているのかな、と思っていました。
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喜劇と悲劇の間

2009-05-26 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 5月26日(火)02時36分58秒

私が『桜の園』に異常な関心を抱いた理由は、この作品が喜劇として作られたのに、初演の時点で、早々に悲劇にされてしまったことにあるのですが、もちろんそれは単なる勘違いではなく、相当深刻な対立があった訳ですね。

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It is clear that from the play's inception, Chekhov conceived of it as a comedy. As early as 1901, when Three Sisters had just opened, Chekhov wrote to his wife, Olga Knipper, “The next play I write will definitely be funny, very funny - at least in intention.” He later wrote, “There are moments when an overwhelming desire comes over me to write a four-act farce [vodevil] or comedy for the Art Theatre.” When he had almost finished the play, he wrote to Stanislavsky's wife, Mariya Petrovna Lilina, “It hasn't turned out a drama, but as a comedy, in places even a farce.”

When Stanislavsky read it, he had a different reaction. He considered it Chekhov's best work, and wept during the reading. He wrote a long letter to Chekhov expressing his love for the play and making very clear his understanding of it:

This is not a comedy, nor a farce as you have written, this is a tragedy, whatever escape toward a better life you open up in the last act . . . I wept like a woman, I wanted to control myself but I couldn't. I hear what you say: “Look you must realize this is a farce” . . . no, for simple men this is a tragedy. I feel a special tenderness and love for this play.

http://www.cambridge.org/us/catalogue/catalogue.asp?isbn=9780521825931&ss=exc


瀬沼夏葉はcomedyとしての性格をきちんと押えていますが、100年たった今でもtragedyと思っている人が多いようで、なかなか難しい作品ですね。
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「瀬沼夏葉の露国漫遊」

2009-05-26 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 5月26日(火)00時55分45秒

「東山千栄子さんに聞く」に出てきた「たしか瀬沼さんという方」は瀬沼夏葉のようです。
ただ、東山千栄子氏の回想では、ご自身がモスクワに住み始めた1909年(明治42)の出来事のように書かれていますが、とすると、瀬沼夏葉の第一回目のロシア訪問時となります。
しかし、私が手元に集めた資料の中には、第一回目はウラジオストックにしか行っていないと書いているものもあるので(秋山勇造「瀬沼夏葉─生涯と業績─」神奈川大学人文学会『人文研究』131号、1997)、若干の疑問が残ります。

瀬沼夏葉は生後三ヶ月の乳児を背負ってロシア旅行をするような元気溢れる女性で、世間からは相当変わった人と思われたでしょうね。
瀬沼茂樹氏の「瀬沼夏葉の露国漫遊─日本文壇史第二百八回─」(『群像』1972年3月号)から、少し引用してみます。

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 明治四十四年四月二十九日の夜、瀬沼夏葉(郁子)は、新橋駅のプラットフォムで、暗い品川沖へ吹き抜ける寒い風の中を、一家眷族にとりかこまれて、立っていた。数え年三十七歳の夏葉には、この年一月十一日に産み落としたばかりの三女文代子のほか、十四歳の長女悦子を頭に、十二歳の長男道衛、十歳の次女忍子、七歳の次男勝彦、五歳の三男健と、三男三女があって、四十四歳の夫恪三郎とともに、皆見送りにきていた。長女は母の肩がはりはしないかと、乳児をうけとって抱き、八歳にしかみえぬ小柄な次女は赤いマントに包まれ、寒さにふるえる手で、母の傘と信玄袋をマントの下にさげて、上気した顔で見まもっている。右に左に子供らを見まわすと、みなで分けて旅行用の小荷物を携えている。夏葉はひとり乳児をつれて、和服姿で、八時四十分発、神戸行急行列車で、再度のロシア漫遊という長途の旅に上ろうとしていた。
 夏葉は、明治八年十二月十一日、上州高崎の蚕種商山田勘次郎の長女に生まれた。高崎藩士の出であった母内藤氏よかが評判の美人であったため、幼い時から人目をひく美貌に生れつき、周囲にきわだっていた。山田家は高崎正教会の草分であり、ニコライ大主教に見込まれて、夏葉は十一歳の秋に、駿河台のニコライ堂(日本ハリスト正教会)にある女子神学校に入学した。母は九歳の年に弟真次と二人を残して先立ち、父は再婚した。それで、全寮制の神学校に起居できるのは、むしろ夏葉にとっては幸であった。足掛け八年間を神学校に過し、明治二十五年七月に、十八歳で卒業すると、母校に残って、「教理」の教師として勤めた。ドイツ系ロシア人であるラファエル・フォン・ケエベルが神学校に訪ねてきて、ピアノをひいたのを機縁に、ケエベルについて、三年間、ピアノを学んだ。
 内田不知庵訳の『罪と罰』(明治二五・一一刊)や、二葉亭四迷訳の『片恋』(明治二九・一〇刊)を読んで、ロシア文学に心を傾けた。師の恩に報いるためにも、一生を独身ですごそうと決意していたので、ニコライ大主教にロシア文学の研究をして自立したいと、希望をうちあけた。主教はロシア語のアルファベットの本を、わざわざ図書館から探しだしてくれ、その日から、教師についてロシア語に励んだ。しかし、一生を独身で過す決意は一年足らずで捨てた。明治三十一年十二月一日に、数え年二十三歳で、ニコライ神学校校長であった瀬沼恪三郎と、大主教の薦めで、結婚した。恪三郎は八王子の出身で、このとき数え年三十一歳、親兄弟の反対を押し切って、ニコライ神学校に入り、モスクヴァ大学に留学した神学士である。この結婚は夏葉のロシア語の勉強に幸して、進境にいちじるしいものがあった。
 夏葉は、明治三十四年二月二十八日、夫恪三郎の薦めで、牛込区横寺町四十七の十千万堂に尾崎紅葉を訪ね、その門に入った。紅葉は喜んで入門を許し、三月八日に、「夏葉」の号を与えた。(後略)
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>筆綾丸さん
>『消されたヘッドライン』
原題は"State of Play "ですか。
私はラッセル・クロウが結構好きなので、この映画も見に行くつもりでした。
独特の風貌の人ですが、ウィキペディアでラッセル・クロウを引くと、

Crowe's maternal great-great grandmother was Māori, and as a result Crowe is registered on the Māori electoral roll in New Zealand;Crowe also has Welsh, Scottish, Norwegian, English and Irish ancestry.

とありますね。

http://en.wikipedia.org/wiki/Russell_Crowe

>グリゴリ・ペレリマン
その番組、私もたまたま見ました。
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キノコとロシア文学

2009-05-24 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 5月24日(日)23時52分49秒

東山千栄子氏の「ダーチャの思い出」に「ベールイ・グリブイ」というキノコを採りに行く話が出てきますが、ロシア人は相当キノコ好きなようで、ロシア&キノコで検索すると、多数のサイトが出てきますね。
「環日本海経済研究所」のサイトで見つけた市岡政夫氏のエッセイは、冒頭でダーチャ(別荘)を紹介した後で、

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8月末から9月になると足早に秋がやってくる。森の落葉樹はその葉を紅く変えるものは意外と少なく、ほとんどが黄色に染まることから、ロシアでは「黄金の秋」と呼んでいる。この季節になると人々は森へ森へと出かけて行く。目指すのはきのこ、ロシア語でグリブィである。日本でもきのこ狩りを楽しむ人は少なくないが、ロシアのきのこ狩りはその比ではない。(中略)
数え切れないほどの種類のあるきのこの中でロシア人が最も好むのは「ベールイェ グリブィ」、日本語に直訳すれば「白きのこ」だ。

http://www.erina.or.jp/jp/Appear/opinion/2003/Russia/ichioka.htm

と書かれています。
文学作品にもずいぶんキノコが出てくるそうで、「ヘテロソフィア」というキノコ関係の膨大な情報量を誇るサイトでは、木村浩訳『アンナ・カレーニナ』に登場する「シラカバ茸」について、詳細な検討がなされています。

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最初、翻訳文を読んだときにはこの当時のロシア文学者の翻訳はキノコの名前を直訳していることが多かったので、たちどころに「シラカバの木の下のキノコ」と考え、柄に黒い粒点のあるヤマイグチを想像しましたが、作中の登場人物はキノコの分類学者ではありませんので、発生のまれな白いヤマイグチをそれぞれがかご一杯に採ってはしゃいでいるとはどうしても考えられません。こうして見てくるとこのキノコはやはり、ロシア人が愛してやまない白いヤマドリタケ。すなわち、キノコ採りの途中でこのキノコに出会おうものなら誰もが寄ってきてその見事な形姿を口をきわめて賞賛するベーリィー・グリップであることに落ち着きそうです。

http://heterosophia.j-fas.com/wiki.cgi?page=%A1%D8%A5%A2%A5%F3%A5%CA%A1%A6%A5%AB%A5%EC%A1%BC%A5%CB%A5%CA%A1%D9%A4%CE%A5%B7%A5%E9%A5%AB%A5%D0%C2%FB%A4%CB%A4%C4%A4%A4%A4%C6

キノコの世界はなかなか深いですね。
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経済史資料集サイト

2009-05-24 | その他
経済史資料集サイト 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 5月24日(日)23時29分2秒

来月に入れば、経済史資料集サイトの仮オープンができそうです。
それに合わせて、この掲示板の名称も変更することになります。

>好事家さん
>楠木正成の一番信頼されている先祖の系譜は?
最初にもう少し踏み込んで書いていただけるとありがたいですね。
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長岡教授

2009-05-22 | その他
長岡教授 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 5月22日(金)00時14分32秒  

>筆綾丸さん
ご紹介のサイトからCERNの特設サイトに行ってみましたが、殺人事件の現場にされてしまった割には、CERN関係者はみんな嬉しそうですね。
ちょうどよい宣伝になって笑いがとまらない、といった雰囲気です。

http://angelsanddemons.cern.ch/
http://angelsanddemons.cern.ch/news/howard-at-cern

Langdonは long hill という意味だそうですね。

http://www.surnamedb.com/surname.aspx?name=Langdon
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「ダーチャの思い出」(後半)

2009-05-21 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 5月21日(木)01時41分44秒

東山千栄子氏の「ダーチャの思い出」はあまりに素晴らしい文章なので、続きも紹介しておきます。

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 その間にお台所では夕食の仕事が始まっているわけですが、私のおりました頃には、女中さんの月給が八円から十二円ぐらい、料理人のおばさんが二十円位でした。なお、女中さんたちに別に食事を出すような場合には、朝ならば紅茶を茶さじに山盛り一ぱい、お砂糖を角砂糖なら四つ位の分量、これは、女中さんはみんなめいめい自分のサモワールを持って来るからです。それから白いパン一斤と牛乳を一合位。お金で上げるとすると、これが十五銭でした。その頃の物価では、白パンが一斤で五銭、黒パンニ・三銭でした。白パンを食べるのは主に朝食の時で、多くは黒パンでした。
 そろそろご主人の帰っていらっしゃる五時頃になると、お出迎えの人たちで停車場が一ぱいになります。御主人を待ちながら、奥さん方や子供さんたちが、四方山話しに花を咲かせて、ここがダーチャ生活独特の社交場になるのでした。やがて汽車が着くと、今朝出がけに奥さまから註文された、パンや肉やソーセーヂなどの食料品を山のように両腕にかかえた御主人が、降りていらっしゃる。その荷物を家族中で持ち合ってダーチャに帰る・・・ということになるのでした。
 一家揃っての楽しい夕飯の時間は七時から八時頃。ボリシチなどをお腹一ぱいに頂きます。開放的な生活ですからどこのお家からもピアノやレコードの音が聞えて来ます。都会では、お隣のこともまるで判らないような生活をしているのですが、このダーチャではすべてが開放的なのでまた笑い声や人声などで、どのお家にはどんな娘さんがいるとか、青年がいるとかいうことが判るのでした。
 ボルシチでございますか?これはロシヤ独特の、作り方は簡単ながらおいしいお料理です。(中略)
 もともと社交好きなロシヤ人は、日曜日とか祭日とかになると、大ていお客さまをお招きするのでした。若い人たちならボートやテニス、年配の人々は樹の下でチェスやトランプをして楽しく時間を過します。それから、若い人でもお年寄りでもみんなが散歩します。それに、お茶やお食事。お酒ももちろんのことです。
 日曜日や祭日には、女中さんたちも、村の人たちもみんな晴着を着飾ります。娘さんたちなら更紗のブラウスに、ひだの多いスカート。それに刺繍のある大きな前かけをして、頭は派手な模様のきれで包みます。村の青年たちは、白や青や赤などの派手なルパシカに長ぐつ。みんなが停車場の近くの広場などに集って、アコーデオンやパラライカを弾きながら、歌ったり踊ったり・・・・それはそれは、とても賑やかな、楽しい雰囲気でした。ロシヤ人はとても散歩と歌が好きな国民ですから、林の中の道などでも、よく何人かが一しょになって歌いながら通っていました。
 けれども、こうした楽しいのんきなダーチャ生活にも、八月の半ばを過ぎた頃からは、朝晩はペーチカをたかなければならないような寒い日が訪れるようになります。そうなると、ちらほらと落ちる枯葉に誘われるように、次ぎ次ぎに人々はダーチャを去って、モスクワに引き揚げて行きます。あれほどあこがれて出かけて来たダーチャ生活だったのですが。実はダーチャの人々は、モスクワ生活への郷愁にもう堪えられなくなって来ていたのですね。冬は社交シーズンで、お芝居、音楽会、舞踏会と、胸をときめかすたのしいものが一ぱい待っているのです。そしてやがて、その屋根には白い雪が降り出し、次第にダーチャは雪に埋もれて行くのでした・・・。
(昭、二四、十月)
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Ambigram

2009-05-21 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 5月21日(木)00時34分0秒    

>筆綾丸さん
『天使と悪魔』は『ダ・ヴィンチ・コード』以上にストーリー展開が慌しいようですね。
タイトルの意味は、犯人は天使であり、見方を変えれば悪魔である、ということでしょうか。

Ambigramは私の電子辞書には載っていませんでしたが、最近の造語なんですね。
Ambigramの名手、John Langdon氏がDan Brownの父親の友人で、主人公の名前はJohn Langdon氏に敬意を表して命名されたとか。

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It was in Angels & Demons, his second novel, that Brown introduced the character Robert Langdon, named after the artist/philosopher John Langdon, a friend of Brown's father, and inspired by the religious historian Joseph Campbell, whom Brown saw interviewed on a television programme.

http://www.timesonline.co.uk/tol/news/uk/article740691.ece

http://en.wikipedia.org/wiki/Ambigram

>この人
私が入手した論文には「劇作家/演出家」とあるだけですが、その人のようですね。

>「不条理の劇」ならぬ「不動産の劇」なる論文
内容は、どちらかというと「不条理」です。
マルクスの著作は、もともとトンチンカンな人に勇気と力強さを与える栄養剤のような機能がありますね。
レベルは異なりますが、中沢護人氏の『鋼の時代』も、ソ連・中国関係の記述はそんなことを感じさせます。
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ロパーヒン、かく語りき。

2009-05-19 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 5月19日(火)00時31分43秒

参考までに書いておくと、ロパーヒンの説明は次のようなものです。(小野理子訳『桜の園』、p29以下)

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御存知のとおり、お宅の桜の園は、借金のために売られることになっています。競売の日も八月二二日と決まりました。しかし奥様、御心配には及びません。ゆっくりとお寝みなさってください。解決策(やりかた)はあるんです。・・・わたしの計画を聞いていただきましょう。よろしいですか。お宅の領地は町から二〇キロしか離れていない、その上、近くに鉄道が通じた。そこで、桜の園と川沿いの土地を別荘地向きに分割し、別荘を建てる人に貸し出します。そうすれば、一年に少なくとも二万五千ルーブルの収入になります。
(中略)
あなたは別荘族から、一ヘクタール当たり少なくとも年間二五ルーブルをお取りになる。今すぐ広告をお出しになれば、秋までには一区画残らず、全部借り手がつくことを、わたしは、この首をかけてでも請け合いますよ。つまりは、おめでとうございます、皆さんは助かるのです。立地条件は良し、川は深い。むろん少し整地する必要はあります。・・・たとえば老朽化した建物、この屋敷などは、もう役に立ちませんから取り除き、古い桜の園も伐り払って・・・
------------

小野氏の注にあるように、「単純計算すればラネーフスカヤの荘園は少なくとも千ヘクタールある」ことになりますね。
ここで川が深いことが肯定的に記述されている理由がよくわからなかったのですが、「ダーチャの思い出」から推測すると、水浴に向いているということなんでしょうね。
「大ていのダーチャには浴室の設備がない」というのは、ちょっとびっくりしました。
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「ダーチャの思い出」

2009-05-19 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 5月19日(火)00時06分14秒

ロパーヒンは確かに謎の人物なのですが、彼が作ろうとした別荘地は、別に「いっさいの他人を排除して地球の一定の部分を彼らの個人的意志の占有領域として支配する」というようなものではなかったんじゃないですかね。
それを考えるヒントとなりそうなのが、東山千栄子氏の「ダーチャの思い出」という随想です。(『新劇女優』p92)
東山千栄子氏がロシアに滞在していたのは1909年から1917年ですから、1903年に書かれた『桜の園』で想定されている別荘地も、概ねこんな感じなのではないかと思います。

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 ええ、もう三十年ほどの昔話になりますけど、帝政ロシヤでのダーチャ(別荘)生活は私にとって忘れない懐かしい思い出です。
 私の住んでいましたモスクワのあたりでは、四月になって雪解けが済むと同時に、待ち構えていたように森の白樺の芽が萌え出し、それがまたたく間にみづみづしい若葉になります。そして、花という花が──春の花も夏の花も秋の花もみんな一どきに美しく咲き揃います。さあこうなると、ちょうどガラス鉢のなかの金魚がひろい池の水にあこがれるように、モスクワ中の人たちという人たちがダーチャに出かけて行くのですね。つまり、お役所の事務とか商業の取引きとか商店とか・・・それには変りはないのですが、モスクワ市民の家庭生活はそれから秋になるまでの間、すべてダーチャ生活に移されてしまうと言っても言い過ぎではないでしょう。薬屋さんのほかは肉屋さんでもパン屋さんでもみんな夕方の四時になるとお店を閉めて、ダーチャに引き揚げてしまうのですからね。
 私のいた頃のモスクワは市を出離れたところからすぐ森になっていたのですが、このあたりからもうダーチャは広がっています。大抵は、汽車で十五分から一時間ぐらいまでで行ける距離の間にあるわけですね。
 冬の間は、二重窓に目張りをした部屋でペチカをたき通しなのですから、それこそむさぼるように大自然のなかにとび出したくなるのです。
 そうです、大多数は夏場だけの、それも借別荘なんです。ほとんどが丸太造りのせいぜい二階建で、その二階からちょいと腕をのばせば白樺の枝に手がとどいたり、戸口からはすぐ土や芝生の上に出られる・・・といった具合でした。それで住む人たちの方でも、部屋の中よりはテラスにいる時間の方が多いような生活をしています。棒縞や無地などの厚い麻地カーテンをこのテラスに張りめぐらすのですが、その隙間などから、夏の服装をした奥さんやお嬢さん方の姿がちらちらと見えるのは、いかにも夏らしい爽やかな眺めでした。
 御主人が朝早くモスクワの勤めにおでかけになったあとで、奥さまは八時ごろにこのテラスで朝食をなさる・・・というあたりからダーチャの主婦の主婦の一日が始まるのでしょうね。女中さんが運んで来てくれたサモワールで、まづお茶をのみます。それから牛乳と白いパン、バダやチーズにヂャム、時々は半熟の卵がつく程度で、朝の食事は軽い簡単なものでした。午前中のあとの時間は、静かに本を読んだりまたちょうど果物の出盛る季節ですから、それで一年中につかうジャムをつくったりします。このジャムは、お紅茶の時に別に小皿にとって頂くというのがあちらの習慣なのですが、その種類がなかなか大変です。苺にしても、草いちご、野いちご、木いちごとありますし、プラムや桃や水瓜や林檎や・・・。とにかく一家の主婦として、ジャムの種類の多いということが自慢なのですから、次ぎ次ぎにいろいろなものを大きな真鍮のお鍋で念入りに作るのです。
 お昼の食事は、だいたい二時頃でしょうか。午後は白樺の林の間を散歩したり、ベールイ・グリブイという、ちょつと日本の松茸に似た茸を取りに出かけたりもします。それから、大ていのダーチャには浴室の設備がないのですが、近くには川や湖がありますので、ここで水浴をするのです。もちろんそのためには脱衣場が出来ています。この川や湖では、ボートを漕いで遊んだりもします。(後略)
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「不動産の劇」

2009-05-18 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 5月18日(月)23時54分42秒

国会図書館の雑誌検索でタイトルに「桜の園」が含まれる記事を調べたら、「『桜の園』と不動産業者の普遍性1」(宮沢章夫、『ユリイカ』2003年9月号)という奇妙な論文が出てきたので、取り寄せてみました。
経済学者が冗談まじりに書いたエッセイなのかなと思ったら、著者は劇作家で、マルクスの『資本論』なども引用した大真面目な論文なので、ちょっとびっくりしました。
宮沢章夫氏によれば、

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 ここで『桜の園』を読むにあたってひとまず「経済」に焦点をあてたのは、論考の第一回としてその概要を示すにあたり、チェーホフのの『桜の園』とはつまるところ「不条理の劇」ならぬ、「不動産の劇」にちがいないと考えるからである。(p218)

 マルクスは『資本論』で「土地所有」に関し、「小農民的農業では、土地の占有は直接生産者にとっての生産条件として現われ、彼の土地所有は彼の生産様式の最も有利な条件、その繁栄として現れるのである。資本主義的生産様式一般が労働者からの労働条件の収奪を前提とすれば、この生産様式は農業では農村労働者からの土地の収奪と、利潤のために農業を営む資本化への農業労働者の従属を前提とする」と書くが、ここで強調すべきなのは先にも書いたとおりロバーヒンが農民階級の出身だったことだ。(中略)

当然ながらロバーヒンに注目することが、『桜の園』という作品にとっての核となるが、さらに踏み込めば、そこに「不動産の劇」として「チェーホフ的な喜劇」を見ることができ、ロバーヒンとはつまり概念を体現する「人の形」をしたなにものかだ。概念として、あるいは土地そのもの、桜が植えられて育った「土」こそが、「喜劇」の主役だと理解するべきではないか。だからさらにマルクスは書く。
「土地所有は、ある人々がいっさいの他人を排除して地球の一定の部分を彼らの個人的意志の占有領域として支配するという独占を前提とする」
 ここにチェーホフがみつめ、『桜の園』のほか、小説などにもしばしば書いた「土地にまつわる喜劇」の本質があるのではないか。つまり「いっさいの他人を排除して地球の一定の部分を彼らの個人的意志の占有領域として支配する」ことにまつわる滑稽さを「喜劇」として見つめるチェーホフのイロニーだ。(p220)
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のだそうです。
うーむ、何という深遠さ。
「論考の第一回」だけでも長大なこの論文は、さらに第二回、第三回と続くのですが、私は続きを読むのは遠慮しました。
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『鋼の時代』のことなど

2009-05-18 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 5月18日(月)00時01分19秒

網野銀行シリーズは中途半端のままですが、終わりにすることになりそうです。
4月13日に「奇妙な対立の図式」の投稿してから、すぐに中沢護人氏の『鋼の時代』(岩波新書、1964年)を購入して読んでみたものの、「大躍進」の記述には失望しました。
中沢護人氏は殆ど完全に事実を確認していながら、中国共産党への幻想のために、非常に歪んだ認識に至っていますね。
中沢新一氏が『僕の叔父さん 網野善彦』のおいて愛情を込めて語る、1960年代の網野善彦氏を交えた「激しい議論」も、今となっては殆ど無意味な議論だったのだろうと思います。
ただ、中沢護人氏は人間的には非常に立派な人であり、これ以上何か書くと悪口めいたことになってしまうので、それは避けたいですね。
また、中沢新一氏は網野善彦氏には「金融業に対する独特な感覚」があって、それは実家が網野銀行をやっていたことと関係があるのではないか、という趣旨のことを繰り返し言われていますが(中沢新一・赤坂憲雄『網野善彦を継ぐ。』など)、中沢新一氏はご自身の所謂「トランセンデンタルに憑かれた人々」の一員なので、現実の経済社会にはうとくて、網野銀行の実態も正確に把握していないようですね。
そもそも網野善彦氏自身、「父のときはもうやめていたかもしれませんが、造り酒屋もやっていました」などと不正確なことを言っているので(『歴史としての戦後史学』p277以下)、家業に全然関心がなかったのは明らかです。
網野善彦氏に「金融業に対する独特な感覚」や、あるいは資本主義に対する独特な感覚があったとしても、それはマルクスの著作への没入などから網野氏が独自に獲得・形成したものであって、実家が網野銀行を経営していたこととは無関係であり、また父親を通して甲州財閥の中核につながる人間関係を有していたこととも無関係ですね。
5年前、私は網野善彦氏の「資本主義」への特異な関心が網野銀行・甲州財閥と何か関係があるのではないか、という見通しをもっていろいろ調べ始めたのですが、何も関係はなかった、という身も蓋もない結論を得て以降は、単なる好奇心から資料を集めていました。
それも、もう終わりにします。
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「モスコー芸術座へ行くと頭が痛くなるよ」(by 河野通九郎)

2009-05-17 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 5月17日(日)16時55分13秒

以下も「東山千栄子さんに聞く」からの引用です。
河野通九郎は東山千栄子(もちろん芸名)の14歳年上の夫君で、「東山千栄子さんに聞く」には「主人」とあるだけですが、他の資料で名前を知りました。

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 尾崎[宏次] オペラの次が芝居ですか?
 はい。オペラは、ドイツの物が多かったようですけれど、ちゃんとやっておりましたよ。その次に、ことばがわからなくても、スタニスラフスキーの評判がいいから行ってみようというので芸術座に行ったんです。主人はわりと、そういうことをよく知っておりました。
 戸板 カリキュラムがちゃんとあるね(笑い)。
 私は何も知らないものですから、「お前は勉強させなければ社交界に出せない」って主人が言うのです。だんだん、仕込むつもりだったんでしょう。で、はじめて見た芝居が「桜の園」でした。ことばはわかりませんけど。
 尾崎 それが東山さんの一生を決めるとは、まさか・・・。
 あとで俳優になるとは思いもよりませんでしたからね。それで、「桜の園で」たしか瀬沼さんという方だと思います、日本から来られて「見たい」と言われるので、総領事さんがご案内したか、主人がご案内したか、私も知らないのですけれども、同じ席にいました。日本語の翻訳も持っていらっしゃって。きっと全訳ではなかったでしょう、薄いものでしたから。筋だけ、書いてあったんじゃないかと思います。私はそれをボックスに入ってから見せていただいて見物したのです。私にはまだ何が何だかわからないけれども、「ほら、あれがチェホフの奥さんだよ」って教えられました。クニッペルさんが出ていらっしゃったんです。お兄さんの役がスタニスラフスキー、演出もこの方がやっているんだって、主人が教えてくれましたの。無我夢中ですよ、でも楽しかった、何だか知らないけれども。わからなくても、楽しいですよ。ほかにもきっと有名な方が出ていたんでしょうね、アーニャだの何だの。モスクウィンも出ていたでしょう。その後やっぱり「知恵の悲しみ」だとか、トルストイの「生ける屍」とか、みなむずかしいんですが見ました。ロシア語ができても、むずかしいでしょう。ましてロシア語ができないから、「ドン・ファン」とか、まだいくつか拝見いたしましたけれども、主人の方は仕事が忙しいものですから、「モスコー芸術座へ行くと頭が痛くなるよ」っていうんです。一生懸命見てくるからでしょうね。「私、芸術座見たい」といいますと、「あすこへ行くのはもういいだろう、それよりもオペレッタへ行こう」って言うんです。ところがオペレッタとなりますと、私はキリスト教で育っておりますし、私にはちょっと色っぽいものが多すぎるんですよ。それを主人が喜んで見ているのが、私にはちょっと軽薄のような気がしましてね(笑い)。二十歳の乙女としてはいやなんですよ。うしろからデコルテのお乳をのぞいたり何かするでしょう。ハートが出てくると、それにキューピッドが矢を射る、何かそういうのがつまらなかった。
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<それで、「桜の園で」たしか瀬沼さんという方だと思います>の部分、少しつながりがおかしいですが、原文のままです。
『桜の園』を最初に翻訳したのは群馬県高崎市出身の瀬沼夏葉(1875~1915)という女性ですが、「瀬沼」というのは比較的珍しい苗字ですから、関係がありそうですね。
ただ、女性ならそう書くような感じもするので、夫の瀬沼恪三郎のことですかね。
詳しい方がいたら、ご教示ください。

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瀬沼恪三郎 せぬま‐かくさぶろう
1868‐1945
明治-昭和時代前期の神学者。
慶応4年6月27日生まれ。瀬沼夏葉の夫。明治23年ロシアに留学し、キエフ神学大にまなぶ。帰国後、正教神学校教授、校長をつとめた。ロシアのトルストイと文通し、尾崎紅葉と「アンナ=カレーニナ」の翻訳をおこなった。昭和20年8月死去。78歳。武蔵(むさし)八王子(東京都)出身。正教神学校卒。旧姓は河本。
http://kotobank.jp/word/%E7%80%AC%E6%B2%BC%E6%81%AA%E4%B8%89%E9%83%8E
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Bolshevik Revolution

2009-05-17 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 5月17日(日)15時55分36秒

「東山千栄子さんに聞く はじめて『桜の園』を見たころ─帝政末期・モスコーの思い出─」(『悲劇喜劇』第255号、1972)を読んでみましたが、これも面白いですね。
少し引用してみます。

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革命の頃■
私がモスコーへ参りましたのは一九〇九年で、革命の起こる一九一七年までおりましたでしょう、だから、革命の予感は知っています。革命の起こる三ヶ月前にちょっと日本に帰って、また向こうに行くつもりでおりましたら、おまえの家は革命で焼けてしまったと知らされました。総領事館も引き揚げるからもう帰れないよといわれましてね。(中略)
お店の人たちは、その晩みんなで芝居を見に行こうというので、私の留守宅に集まって、いい着物を着ていたら、革命が起こったんです。私のところはクレムリンと士官学校の間にありましたが、大砲をうち合ったそうです。お互いに向き合って、一週間だか、続いたそうです。自分のところが焼けると、焼けない家へ逃げて行って、またそこが燃えるとあっちへ行きというふうに逃げたんですって。「これから先、どうなるかわからない。これは、家内がとても好きで弾いていたピアノだから、今晩、お別れに私が家内のピアノを弾きます」と、ショパンの何かを弾いたという話もききました。悲壮だったっていっていましたよ。(中略)
でも、奥さんがいたら、燃えている中に荷物を取りに行って、きっと死んでいたかもしれない、いなくてよかったなんて言われました。モスコー銀行に預けたものがだめになったでしょう、モスコー銀行とられたもんですから。それで、みんな失いました。銀の食器─お客さんは銀でないといけないので─とか、自分は飾らないけれども、お客に対して宝石とか─商売道具ですよ─そんなものみんな預けてきたのを一番先にとられてしまったのね。主人は十五年あちらにおりましたから、すべてをそこに賭けていたわけです。東京にあるお金もここにおいておくほうがいいと、わざわざモスコーへ取り寄せたら取られてしまって。革命は起こりそうだっていうことはわかっておりました。でも、いつ成功するかはわかりませんでしたね。家のすぐそばにモスコー大学がありましてね、そこを毎日のように市場に女中さんと一緒に買い物に行ったのですが、大学の前を通ると、よく、騎馬巡査がいっぱい大学を取り巻いていました。学生がそれに対抗していて、「きょうはここは通行禁止だから遠回りして帰れ」といわれたくらい、騒いでおりました。でも、それがそんなに早く成功するとはね・・・。
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この後、聞き手の一人である戸板康二氏は、「革命の勃発の晩、シャリアピンが歌っていたんですからね。予兆はわからなかったのでしょう」と言っていますが、革命の予感はあったけれど、時期は予想できなかった、という本人の発言を受けた後の感想としては、少し間が抜けている感じがします。
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