学問空間

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ワカメ戦記

2009-01-28 | 近現代史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 1月28日(水)23時13分13秒

今朝の日経新聞によると、帝国海軍のワカメ部隊がニュージーランド沿岸部を完全制圧し、敵のロブスター軍団に壊滅的な打撃を与えたそうですね。
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20090128AT1G2702Y27012009.html

外来種という言葉を聞くと、ついつい日本の動植物が被害者のように思ってしまいますが、立派に加害者として世界で活躍している日本産の生物もいるようです。

日経新聞の紙面では上記リンク先より相当詳しい記事になっていて、すごいニュースのように思えたのですが、少し検索すると、神戸新聞には2008/03/10付で殆ど同じ内容の記事が出てますね。
http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/shakai/200803balance/01.shtml

日経は別にウソをついている訳ではないですけど、神戸新聞と読み比べてみると、何だか賞味期限切れのワカメを食べさせられたような気分になりました。
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信濃丸史

2009-01-28 | 近現代史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 1月28日(水)22時31分45秒  

蟹工船というのは大きいだけで安っぽい船というイメージがあったのですが、実際にはなかなか立派な船が多かったみたいですね。
ま、考えてみれば、船の中に小さな工場を造るのだから、しっかりした船でなければならなかったことは当然なんでしょうけど。
『文芸にあらわれた日本の近代』には、先に紹介した部分の直前に以下の記述があります。

--------
 『蟹工船』は「博愛丸事件」をモデルとしている。小説に現れる「博光丸」という船名も、明らかにこの博愛丸から取られている。モデルとされた博愛丸はスコットランドで建造され、1898年10月進水、同年12月竣工と同時に日本郵船に移籍された。日露戦争では日本初の病院船として活躍したが、1926年2月に長崎の林兼商店に売却され、蟹工船に改造される。それまで平時には上海航路に就航していた。「赤十字の精神」を体化した大型船が、「海のタコ部屋」「地獄船」と呼ばれる船へと変身したのである。
このように大型船が蟹工船に改造されるケースはかなりあったようだ。1903年9月に永井荷風をアメリカへと運び、1945年11月、大岡昇平をフィリピンのタクロバンから神戸まで載せた「信濃丸」もその例である。欧州航路用の予備船として建造された信濃丸は、実に数奇な一生を送っている。スコットランド・グラスゴーのD.W.Henderson.Co.で建造され、進水したのは1900年4月。信濃丸には日本海軍が開発した無線機が搭載されており、日露戦争の最終局面で日本海に向かう帝政ロシアのバルチック艦隊を発見し、この無線機で「敵の艦隊203地点に見ゆ、敵は東水道に向かうものの如し」と打電したことでもその名を歴史に残している(以下、『近代世界艦船事典』、読売新聞[1970]参照)。
 また孫文が1913年8月、日本に亡命する際、神戸上陸を果たしたのも信濃丸であり、『ゲゲゲの鬼太郎』の作者水木しげるを戦時中南方へと送ったのもこの信濃丸であった。戦後は大陸からの引揚げ船としても使用されている。しかし戦前には何度も転売された。1930年には日魯漁業株式会社(横浜)に売却されて蟹工船に改造され、太平洋漁業、日魯漁業株式会社(東京)へと、たびたび船主を変えている。最終的に解体のため売却されたのは、戦後引揚げ船としての役目を終えた1951年のことであった。
--------

水木しげるが乗った当時は、相当な老朽船になっていたそうです。
信濃丸が沈没していたら、鬼太郎も目玉親父もこの世に生まれなかった訳ですね。

http://www.asahi-net.or.jp/~an4s-okd/private/manman/man00306.htm
http://homepage2.nifty.com/i-museum/19460000sinano/sinano.htm
http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/epi/sinano-izumi.html
http://www.nyk.com/yusen/200110/index.htm


>筆綾丸さん
>野島小太郎
恒太(つねた)→コウタ→コタロウかと思ったら、単に小太郎という名前が好きなだけみたいですね。
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角田小太郎のモデル

2009-01-28 | 近現代史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 1月28日(水)01時22分26秒

>筆綾丸さん
>渡辺房男氏
幕末・明治期を一貫してマネーの観点から描いている方のようですね。
私の現在の関心にピッタリなので、早速読んでみます。
この方の『命に値段つけます』は、アマゾンの紹介によると、

------
明治十年代はじめ、庶民の暮らしを守ろうと「人命」保険結社を立ち上げた男・角田小太郎は、熱心に勧誘に励むものの、保険への理解はなかなか進まない。東京を襲った大火やコレラなどの疫病、日本最初の本格的生命保険会社である明治生命との加入者競争、保険金詐欺など、多くの困難に直面しつつ、純粋な助け合いの精神によって「命の絆」をつなごうと、小太郎は格闘する――。『ゲルマン紙幣一億円』『円を創った男』など、経済歴史小説の書き手として多くの傑作をものした著者が、明治期に産声をあげた日本の生命保険事業を描いた傑作歴史長編。
------

となっていて、主人公の名前は個人的にはずいぶん親しみを感じます。
モデルとしては、おそらく第一生命の矢野恒太が一番近いのでしょうが、異同もかなりあるようです。
確認してみたいですね。

http://www.libnet.pref.okayama.jp/mmhp/kyodo/person/yanotuneta/yanotuneta-short.htm
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蟹缶史

2009-01-27 | 近現代史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 1月27日(火)00時11分48秒    

このところ金融関係の地味な本を読んでいたので、今日は気分転換に猪木武徳著『文芸にあらわれた日本の近代 社会科学と文学のあいだ』(有斐閣、2004)をパラパラ見ていました。
同書の「第7章 急成長と過当競争の歪み」は小林多喜二『蟹工船』を扱ったもので、そこに次のような記述があります。

------------
 そもそもカニ漁業はタラバガニの缶詰に対する欧米からの需要によって発展した。カニ缶詰は、いわば日本の特産品で、輸出によって成長を遂げ、日本の国際収支に大きく貢献した商品であった。カニ缶詰の輸出が盛んになるのは日露戦争が終わった頃からであるが、一部の海域での禁漁措置が下されたため、漁獲量は一時減少し始めた。ところが1920年代に、富山県立水産講習所の練習船が、西カムチャッカの洋上で、「海水処理の缶詰製造」に成功、船内缶詰の有望性を確認した。翌年には小型汽船による母船式漁業が始まる。この技術的成功が、それ以後の蟹工船漁業の本格的展開を可能にした(岡本[1965])。
 1920年代前半は母船式カニ漁業がまさに「急激に」発達した時期であった。1921年(大正10)には母船数わずか2艘であったのが、2年後の23年には許可艘数18艘、うち稼動15艘(内帆船8艘)、カニ缶生産高3万3000箱と、大飛躍を遂げている。(中略)
 1927(昭和2)年、工船蟹漁業水産組合の東京の総会で、組員の労働条件に関する統一協定を作る働きかけがあり、覚書が締結されている(井出『船員社会の変遷と労働運動』)。そこでは、給料(水夫長60円から水夫見習い26円まで、職種・階層別に定められている)九一金と配分方式などが規定されている。九一金とは歩合給をさす名称で、もとは収入の9割を船主が取り、1割を乗組員の給料に当てるという意味から出たようだ。(中略)
-------------

急成長した産業だから無理が多かったのでしょうが、ただ、

--------------
小林多喜二の未発表ノートには「昨年英航丸や博愛丸のリンチ事件が暴露されてから、カニ工船が、労働者虐待の『模範工場』であるかの如く取沙汰されて、床続きの長屋の火事みたいに、飛んでもなく社会の耳目を聳動させたが、実際には案外良いのだ。"九一金”という特別手当制度があって、何ポンド缶一箱で漁夫がいくら、雑夫がいくらいくらと収入があることになっている」という一節も残されている。
--------------

のだそうで、あるいは『蟹工船』には脚色されている部分が相当あるんですかね。
ま、『蟹工船』の研究史を紐解けば、誰かが詳しく分析しているのでしょうが。


>Akiさん
東野英心著『私説父(オド)物語』(1996)のp19には、東野酒店の豪壮な蔵の前で従業員一同(22名)を撮った集合写真が載っていますね。
なかなか繁盛していたようです。
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サヤトリ

2009-01-24 | 近現代史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 1月24日(土)14時19分55秒  

このところやたら本を読んでいるのですが、ここで紹介しても誰も面白いと思ってくれないような本ばかりなので、なかなか投稿には結びつきません。
ま、しばらくは地味に知識の蓄積を図ろうと思っています。

>Akiさん
>昭和3年の生まれです。
びっくりしました。
全く同じですね。ただ、私の父は早生まれなので、学年は違うかもしれませんが。

>東野英治郎
父は大学も東野英治郎の後輩です。
プロレタリア演劇運動に関わって治安維持法違反でつかまったこともある東野英治郎とは異なり、単なるノンポリ学生でしたが、戦争直後の時期に東京で学生生活を送ったので、野坂参三の立会演説会などには何度か行ったことがあるそうです。
また、東京裁判を傍聴したのがけっこう自慢のようです。

>波瀾万丈
そうですね。
ただ、相場師という派手なイメージと異なり、実際にはそれなりに堅実な手段で蓄財したようですね。
『そろばん』にも、

-------------
私もこのブローカー中心の行き方にした。相場を張ったといっても、それはディーラーとして手持ちした実米を
清算市場に売りつないだのである。保険つなぎだった。収入の基礎はブローカーによる手数料にあり、
それだけで十分に食べていかれるようにしてあった。
その上で儲けた分を積み上げていった。毎年、年末には棚上げ貯金をした。この資金は主としてサヤトリに使った。
当限を買って、先限を売るというやり方だ。サヤトリというと馬鹿にする人もあった。
でも、日歩十銭以上、時には三十銭にも回すことも出来た。年に三割から十割の儲けである。
銀行から資金を借りても、日歩七銭なら十分に引き合った。
これは大きい。危険の大きい相場を張るより、結果は確実なうえに、大きく儲けられる。
私にしてみれば、なぜ皆が利用しないのか不思議だった。
http://www.al-chemy.biz/B/soro_38.htm

などという記述がありますが、このあたり、学生時代に読んだときは全くチンプンカンブンでした。
今ではさすがに商品先物取引の仕組みや裁定取引(サヤトリ)の意味くらいは分かりますが、理解力とお金儲けの能力は全く別なので、未だに私には縁遠い世界です。
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陣屋にて

2009-01-22 | 近現代史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 1月22日(木)02時10分29秒  

>Akiさん
たまには超ローカルな話もいいですかね。
しょうもない悪戯好きの私の父親は旧制富岡中学(現富岡高校)出身で、七日市藩陣屋跡の校舎に通っていました。
遠足で長学寺に行ったりもしたそうです。
また、学校の近くには保阪道場という剣道場があって、古い家のようでしたから、たぶんそこが家老の保阪家なんだろうなと思います。
若い頃は富岡などつまらない田舎町だと思っていましたが、古い駅舎の写真などを見ていると、じわ~と胸に来るものがありますね。

http://4travel.jp/traveler/tabineko_j/album/10108631/
http://homepage2.nifty.com/edononagori/nanokaitihan275.html
http://castle.slowstandard.com/10kanto/17gunma/post_492.html

山崎種二氏は相撲取りのように体格が良く、全身気迫に満ちていて鬼のように怖い人だったそうですが、地元の若者には親切だったそうです。
私の伯父は、『そろばん』に出てくる来宮の別荘に行って、豪華な部屋に泊めてもらったことがあると言っていました。
私の父親も、何かの折に山崎種二氏の実家を訪ねたら、山崎種二氏が縁側に布団を敷いて日向ぼっこをしていて、「おお、よく来たな」てなことを言ってくれたそうです。
『そろばん』はずいぶん昔に父親に勧められて読みましたが、世間知らずの小生意気な大学生だった私は、株屋の自慢話など下らない、みたいな態度で読み飛ばしただけでした。
でも、改めて読んでみると、独特の一貫した視点から社会の変遷が鮮明に見えてきて、実に新鮮ですね。

http://www.real-solution.biz/wus/gyambler/gyambler_07.html

>立原道造
『大日本史』の立原翠軒の子孫なんですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%8E%9F%E7%BF%A0%E8%BB%92
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七日市藩つながり

2009-01-20 | 近現代史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 1月20日(火)01時02分57秒

>Akiさん
おひさしぶりです。

>畑鉄鶏の墓碑銘
七日市前田家の菩提寺だった長学寺にあるようですね。
長学寺はこじんまりとしたお寺さんですが、風情はありますね。
http://www.chogakuji.ecnet.jp/

>筆綾丸さん
山縣有朋の『葉桜日記』を読んだことがありますが、幕末の動乱の緊迫した描写があるのかと思ったら、大半はのんびりとした歌日記なので、何じゃこれ、という感じでした。
ただ、ピストルを詠んだ珍しい歌もあり、素材の点では石川啄木の先駆者かもしれないですね。

「秋篠宮が天皇になる日」の保阪正康氏は七日市藩の家老の末裔だそうです。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/hosaka-masayasu-sakaimiiko.htm
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歌会始

2009-01-17 | 歌会始
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 1月17日(土)00時22分52秒    

>筆綾丸さん
歌会始のニュースを聞くと、今年も筆綾丸さんが酷評されているのだろうなと想像してしまいます。
皇室ファンの私はあまり皇族の悪口は言いたくはないのですが、歌の勉強はもう少ししていただきたいですね。
もっと古風でいいんじゃないかな、と思うのですが。

http://www.asahi.com/national/update/0115/TKY200901150102.html

>米の字
山崎種二氏に『そろばん』という自伝がありますが、2・26事件で大儲けをした場面など、本当に面白いですね。
歴史研究者は近代史をついつい思想などの生真面目かつ陰気な方面から見てしまいがちですが、軍事クーデターの勃発を認識した瞬間、千載一遇のチャンスだから株を売って売って売りまくれ、と思うような乾いた知性の存在を知ると、歴史もまた違って見えてきますね。

http://www.al-chemy.biz/B/soro_20.htm

>平岡定太郎
『神々の乱心』、アマゾンに注文しました。
三島由紀夫の祖父はずいぶん屈折した人ですね。
父親も相当変な人ですので、変人の家系だなと感心してしまいます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B2%A1%E5%AE%9A%E5%A4%AA%E9%83%8E
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山種美術館

2009-01-14 | 近現代史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 1月14日(水)01時14分34秒

この前、田舎に帰り、父親と雑談していたときの話です。
日本画の収集で有名な山種美術館は、群馬県出身の実業家で、横山大観のパトロンでもあった山崎種二氏が創設したものですが、同美術館がまだ兜町にあった頃、私の父親は仕事で近所に出かけたついでに訪問してみたそうです。
そして受付の女性に、「ヤマタネさんの親戚の○○だけど」と言ったところ、館長が出てきて、無料で丁重に館内を案内し、うやうやしく著名作品の解説をしてくれたので、まるで天皇陛下になったような気分だったそうです。
私は自分の家がヤマタネさんの親戚だなどとは一度も聞いたことがなかったので、「ヤマタネさんって、親戚だったの?」と聞いたら、父親は平然と、「いや、別に親戚じゃない」と答えました。
そこで私が、「そりゃ、詐欺だろ」と言うと、父親は「いや、別に(入場料を)まけてくれと頼んだわけじゃない」ときっぱり言い切っていました。

山種美術館
http://www.yamatane-museum.or.jp/about.html

山崎種二氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E7%A8%AE%E4%BA%8C

>亀子さん
いらっしゃいませ。
『後深草院二条』はずっと更新をさぼっていますが、そろそろ再開するつもりです。
貴サイト、これから拝見させていただきます。
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トロ様

2009-01-12 | 佐藤優『国家の罠』&モロゾフ・野坂参三
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 1月12日(月)20時59分49秒    

>筆綾丸さん
佐藤優氏についてのまとめなど、いくつか書きたいことがあるのですが、今日も休日出勤しているような状況で、なかなか書けません。
あしからず。

>トロ
スティーブン・ソダーバーグの映画では、『トラフィック』で強烈な存在感を出していましたね。
映画自体はもう一度見たいとは思いませんが。
http://en.wikipedia.org/wiki/Traffic_(2000_film)
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塩鮭史・肉じゃが史

2009-01-07 | 近現代史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 1月 7日(水)23時18分55秒

今日は『経済失政はなぜ繰り返すのか-メディアが伝えた昭和恐慌』(中村宗悦著、東洋経済、2005)を読んでみましたが、本来のテーマ以外の部分でも、けっこう面白い記述が多いですね。
例えば、こんな具合です(p49)。

-------------
 二十世紀、とくに第一次世界大戦を画期として、日本人の生活は衣・食・住ともに急速に洋風化していった。このことは日本の産業構造が変わり、全国的に都市化が進展していったことと並行する。
 筆者は、別に日露戦後期の日本における生産と流通の実態がどのようなものであったかを、府県レベルの統計書をデータベース化することによって具体的に解き明かそうという共同研究に参加し、水産品・水産加工品を事例にしながらその分析を行ったのであるが、まさに二十世紀初頭のこの時期の生産と流通の変化してゆく様子は、具体的な産品を通じてのみ理解できることを実感した。
 たとえば、現代のわれわれの食生活にも欠かすことのできない食品として塩鮭がある。塩鮭そのものは、それこそ北海道が蝦夷地と呼ばれるようになるもっと前から保存食として作られてきたものであるが、今ではコンビニエンス・ストアやお弁当屋さんの人気定番メニューの一つである「鮭弁」の主役として全国どこでも食べられている。
 しかし、日露戦争後に日本の漁業基地としての北海道・樺太開発が進み、大量の鮭・鱒が、これまた瀬戸内から輸送されてきた塩(北海道では良質の食塩は手に入りにくい)によって加工され、東京を中心とした大都市にも移出されるようになったことはほとんど知られていない。この時期に初めて、日本人の食のメニューに「塩鮭をおかずにしたご飯」といった「定番」が加わったのである(ちなみに、「肉じゃが」もこの頃に「定番」に加わった一つである。東郷平八郎が自身のイギリス留学時に食べたビーフシチューをヒントに、のちに艦上食としてつくらせたものがもともとのルーツという。舞鶴市公式サイト掲載「肉じゃが発祥の地」を参照)。
--------------

肉じゃがは日本版ビーフシチューだったんですね。

「舞鶴市ホームページ」
http://www.city.maizuru.kyoto.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020000&WIT_oid=icityv2::Contents::1262
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怪傑

2009-01-07 | 近現代史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 1月 7日(水)22時58分12秒

>筆綾丸さん
>ゾロゾロ
いえいえ。
ただ、何だかんだ言っても私の同窓生には基本的に真面目な人が多く、それぞれ与えられた環境の中でしっかり頑張っているんだな、といった安心感はありました。
金融関係では、別の銀行に入ったはずなのに今は同じ銀行という人がかなりいて、微苦笑を誘っていましたね。

>井原今朝男氏
本の内容には全然関係ありませんが、「けさ」のつく名前の方なので、少し気になります。

-----
袈裟雄、袈裟男、今朝男という名前の人をたまに見かけるが、それは本人の誕生時、胎内で臍の緒が首に絡まって生まれてきた状態が、袈裟を着ているように見えることに由来する。胎内でこの状態になると非常に危険で、死亡率が高く、無事生まれてきた子の成長のための呪い事(まじないごと)として、この名がつけられる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%88%E8%A3%9F

「袈裟」がつく名前は新潟・長野・群馬あたりに多いという話を聞いたことがありますが、井原今朝男氏も確か長野出身ですね。
ま、ウィキペディアの説明で全てをカバーできる訳でもないでしょうが。
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謹賀新年

2009-01-05 | その他
謹賀新年 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 1月 5日(月)00時27分37秒

三が日は田舎に帰って、のんびりすごしていました。
遅ればせながら、本年も宜しくお願いいたします。

>筆綾丸さん
年末、大学の同窓会があって、久しぶりに昔の友達と会ってきました。
私の年代になると、同級生はみんな官庁や企業でそれなりに責任のある地位についていて、気儘に生きてきた私など少し肩身が狭いのですが、ま、私も仕事以外でいろいろやっているので、それなりに話題を提供できて楽しかったですね。
この掲示板は、今は筆綾丸さんと私の交換日記状態で、誰が読者なのかも正直よく分かりませんが、今後、私としては自分の大学の同級生クラスを念頭において運営して行こうかなと思っています。
中世史や中世文学はあまりにマニアックなので、普通の人にはなかなか敷居が高いと思いますが、以前少し書いたように、私の興味は近現代史、それも自分が今まで一番苦手だった経済史に移っていますので、その分野の話題だったら参加できる人も結構多いのではないかと思います。
かといって中世を離れるつもりもなく、近現代と中世を往還することにより、歴史に対する認識を深めて行けたらよいなと思っています。

>『現代のイスラム金融』
ドバイが何であんなに発展したのかを知りたくてイスラムの金融について少し調べたことがあるのですが、利子の否定も実際には建前であって、便法はいくらでもあるようですね。
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