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勅撰歌人「平守時朝臣女」について

2021-03-13 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月13日(土)13時37分16秒

今までの投稿で『臨永集』の歌人である「平守時朝臣女」を鎮西探題・赤橋英時の妹、即ち赤橋登子の姉妹として言及してきたのですが、赤橋守時は英時の兄なので、素直に考えれば「平守時朝臣女」は英時の姪になりますね。
もともと私は井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』の『臨永集』関係の記述に、

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 次に注意すべきは武家歌人の入集状況である。北条英時・同守時女<英時妹>・大友貞宗6、東氏村5、斎藤基明・二階堂行友・島津忠秀・安東重綱・斎藤基夏・足利高氏3、の如くで、中でも英時兄妹の歌がずばぬけて多い事は注目に価し、しかもその英時は元亨元年末~同三年九月、正中二、三年~元弘三年まで鎮西探題であり、この臨永集が成立した時もその任にあり、かつ英時の姉妹も新拾遺一八七七によって伴われて九州に下向していた事がわかる。〔補注〕

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dce23fb995dd1b94a833f744bba9ad78

とあることから、この女性歌人が「英時妹」と思い込んでいたのですが、井上氏は赤橋登子の父親についても少し変なことを言われています。
即ち、井上氏は赤橋登子の兄、守時の生年が不明であることを前提に登子の父について縷々検討され、

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 登子は公卿補任<観応元年義詮の尻付・尊卑分脈等系図類>によると赤橋久時女とあるが、師守記貞治四年五月四日の条には(登子)「入夜子剋入滅<年六十云々、名字平登子、相模守守時朝臣女>自去年虚労云々」とあり、同記には頻りに「大方殿」(登子)の親父守時の如くに記している。守時は久時の男である。登子は貞治四年六十歳で没したのだから、徳治元年の生まれとなる。而して久時は徳治二年に三十六歳で没している(北条九代記)。即ち久時の子ならその三十五歳の時の子である。守時の生年は不明であるが、仮に久時が十六、七歳で守時をもうけたとしたら、守時は徳治元年には既に十八、九歳になっており、登子をもうける年齢に達していた事になる。即ち登子は守時女であるかもしれず、また久時女であったとしても生まれた翌年久時が没しているので、恐らく守時に養育され、その養女となり、形式的には守時女となっていたのかもしれぬ。なお守時の弟は記述の鎮西探題英時で、その妹も歌人であった。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7df6a7439420b2aabfe07eef58997dbe

とされるのですが、現在では守時の生年は永仁三年(1295)であることが明確になっています(細川重男氏『鎌倉政権得宗専制論』、「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」30)。
ただ、「平守時朝臣女」が赤橋守時(1295-1333)の娘だとすると、仮に守時が二十歳の時の誕生、即ち正和三年(1314)の誕生として、『臨永集』が成立したとされる元徳三年(元弘元、1331)の時点で十七歳ですから、ちょっと若すぎるような感じがします。
とすると、井上氏の赤橋登子に関する「恐らく守時に養育され、その養女となり、形式的には守時女となっていたのかもしれぬ」という推定は、むしろ『臨永集』の歌人「平守時朝臣女」にあてはまるような感じもします。
ところで、私は「平守時朝臣女」に関して更に重大な勘違いをしていて、この女性が鎮西合戦で鎮西探題・英時とともに殺されてしまったと思い込んでいました。

謎の女・赤橋登子(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e90942d529b1b3a7d0e87c141516fea5

しかし、『新拾遺和歌集』巻第十九雑歌中(一八七七)には、

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 平英時にともなひて西国にすみ侍りし事をおもひ出でて
                      平守時朝臣女
しらざりき心づくしのいにしへを身の思出と忍ぶべしとは
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とあって、「平守時朝臣女」が鎮西合戦後も生存していたのは明らかですね。
井上著に「英時の姉妹も新拾遺一八七七によって伴われて九州に下向していた事がわかる」とあるにも関わらず、肝心の『新拾遺和歌集』を確認していませんでした。
まことに恥ずべき所業であります。
さて、勅撰歌人でもある「平守時朝臣女」については、正親町公蔭(忠兼)と結婚した赤橋種子との関係も一応問題となります。

赤橋種子と正親町公蔭(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/546ccaccce6039b2783c37af31ff74c5

「北条系図」(『続群書類従』系図部三十五)には赤橋久時に三人の女子がいたと記されていますが、この記述はかなり奇妙なものです。
即ち、久時の子女が、

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守時 相模守/号慈光院。法名道本。於鎌倉自害。
宗時 駿河守
種時 修理亮/元弘元年下向鎮西。
英時 於九州自害。
女子 二品/号登真院殿。尊氏将軍室。義詮卿母儀。貞治四年薨。六十歳。
女子 太政大臣公守妾実明母
女子 号種子。洞院大納言公蔭室。権大納言忠季卿并弾正大弼実文母。
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となっていますが、洞院公守(1249-1317)は正親町実明(1274-1351)の父、正親町公蔭(忠兼、1297-1360)の祖父なので、登子・種子以外の女子が「太政大臣公守妾実明母」ということはありえません。
恐らく系図が写される過程で何かの混乱があったのだと思いますが、久時の女子が本当に三人いたのであれば、登子・種子以外の女子が守時の養女となり、「平英時にともなひて西国に」一時的に居住して、「平守時朝臣女」として鎮西歌壇の二つの歌集である『臨永集』と『松花集』、そして『新拾遺和歌集』に登場した可能性はあります。
また、仮に久時の女子が登子・種子の二人だけだとすると、種子が「平守時朝臣女」として二つの私家集、そして『新拾遺和歌集』に登場した可能性も一応は考えられますが、種子は正親町公蔭室なので、こうした立場の女性が歌集、特に勅撰集に登場する場合にどのような名前になるのか、私にはちょっと分かりません。
ということで、この問題はけっこう難しく、今後の課題としたいと思います。
「平守時朝臣女」について何かご存じの方がいらっしゃれば、御教示願いたく。
なお、『新拾遺和歌集』の「平守時朝臣女」の歌とその詞書は下記サイトで確認できます。

ヴァージニア大学「Japanese Text Initiative」
http://jti.lib.virginia.edu/japanese/imperial_anthologies/shinshui/AnoSsnu.html
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