学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

主権=国家の最高独立性

2013-10-31 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年10月31日(木)08時29分42秒

>筆綾丸さん
憲法を真面目に学ぼうとする人の多くが最初に躓くのはおそらく「主権」概念で、歴史的展開も非常に複雑ですね。
基本的には憲法(と国際法)の世界では主権は国家の最高独立性を意味するので、丸島氏の<戦国大名をひとつの「主権的な国家」、日本国に対する「下位国家」として把握する>といった表現は、法学部出身者にはものすごく抵抗があります。

主権
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E6%A8%A9
主権国家体制
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E6%A8%A9%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E4%BD%93%E5%88%B6

上記のウィキペディアの記述には独自研究の部分もありそうですが、一応の理解には役立ちます。

戦国大名の研究者も、国家とは何かを考える上で憲法と国際法の議論は参考にしているものと思いますが、一般書という制約のためか、丸島氏の著書には言及はなく、黒田基樹氏の『百姓から見た戦国大名』にもなさそうですね。未読ですが。
いっそのこと戦国期には上位国家の「日本国」はなかった、最高独立性を持つ「地域国家」が分立していただけ、とすれば目茶目茶すっきりする話ですが、そのように言っている研究者はいないんですかね。

それと、丸島氏の議論では、

国家→外交

が自明の前提になっているような感じもしますが、これは決して自明ではないですね。
例えばシリアでは反体制派を集めてアサド政権に対抗できるだけの組織を作り、それを諸外国が「国家」として承認してアサド政権をつぶそうという動きがありましたが、これなどは

外交→国家

ですね。
外交を担えるだけの組織体だから国家だ、という見方は別に近代になって突然生まれたものではなく、むしろ歴史的にはそれが当たり前ではないかと思います。
東アジアだと中国の王朝が、周辺からやってくる有象無象の集団の代表者から事情聴取して、おまえのところはなかなかしっかりしているから外交相手として認めてあげよう、「国家」として承認してあげよう、みたいな感じじゃないですかね。
戦国期だとヨーロッパから来た宣教師は日本のいろんな集団を観察した上で、天皇を相手にしても無駄、室町幕府の将軍を相手にしても埒があかない、「外交」の相手として意味があるのは戦国大名だけ、だからこれが「国家」でしょう、と判断したのではないか。
丸島氏の挙げる第三の理由、「ポルトガル宣教師の視点」は非常に重要であり、当時はもちろん国際法と呼ぶに値する法体系はありませんが、

外交を担えるだけの組織体→国家

という理由だけで戦国大名を「国家」と認めてもよいのではないかという感じもします。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6989

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「国家」のマトリョーシカ

2013-10-29 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年10月29日(火)23時22分33秒

私も丸島氏が戦国大名を国家と把握すること自体がおかしいと言っている訳ではなくて、感覚的にはそれなりに理解できるけれども、理由付けがきちんと整理されていないのではないかと疑問を呈しているだけですね。
丸島氏が第三の理由として挙げている部分は、ポルトガル人宣教師かく語りき、というだけではなく、前提として国家の要件についての実質的な考察を含んでいるようにも見えるので、国家の実質的な要件を明確にした上で第三の理由だけで説明するのもひとつの手でしょうね。
例えば、16世紀のポルトガル国王はこれこれの要件を満たすので当時、「国王」と認識されていた。戦国大名も同様にこれら全ての要件を満たすので「国王」と認識すべきである、といった具合に。
国家とは何か、という根本的な問題を正面から論じるのは大変なので、誰でも国家と認識しているような組織体との比較で戦国大名も国家でしょう、と攻める論法は、あっさりすっきりした説明にはなりますね。
ま、いささかヨーロッパ中心史観なのではないかと懸念する向きもあるでしょうが。

>筆綾丸さん
丸島氏は第一の理由の前に、

-------
「地域国家」という表現が、研究者の間で用いられるようになったのは近年のことだが、戦国大名をひとつの「主権的な国家」、日本国に対する「下位国家」として把握する見解は、一九七〇年代にはみられた。
-------

と書かれているので、基本的には丸島氏もかかる見解を踏襲しており、「室町幕府・鎌倉府をはじめとする伝統的上位権力」が「上位国家」である「日本国」の主体であり、戦国大名はあくまで「下位国家」なんでしょうね。
二重の国家というと、旧ソ連などの連邦国家、あるいは state の集合体であるアメリカ合衆国などを連想しますが、戦国大名の場合、「上位国家」に「下位国家」を纏める統制力・指導力はないので、類似の国家形態は直ぐには思い浮かびません。
更に話が複雑になってくるのは丸島氏の所謂「国衆」の扱いですね。(p11以下)

-------
そして、戦国大名に従属し、大名から自治支配権を容認された領主権力を「国衆(くにしゅう)」と呼ぶこととしたい。国衆とは、室町時代には「国人(こくじん)」と定義されていた領主である。その国人が、戦国大名に従属することで自己変革を成し遂げ、戦国大名と同様の行政を行うようになっていき、自己の支配領域では(戦国大名を上位者として戴くものの)主権者となる。このような権力は、もはや国人領主という段階とは異なり、戦国大名のあり方に近い。しかしながら、独立性をもっていないという点が、戦国大名とは異なる。
-------

整理すると、

「日本国」の主体である「室町幕府・鎌倉府をはじめとする伝統的上位権力」
 ↓
戦国大名
 ↓
国衆

というヒエラルヒーがあるんでしょうね。

>「自己の領主権を超えた地域を支配下においた権力」(11頁)
これは丸島氏の所謂「国衆」が自己の領主権の及ぶ地域だけを支配下としていることとの対比なんでしょうね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6987
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦国大名=「国家」論の妥当性

2013-10-28 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年10月28日(月)22時03分39秒

『戦国大名の「外交」』、冒頭の総論の部分が引っかかって、相変わらず途中で止まっています。
丸島氏は戦国大名を「国家」と把握する理由を次のように三つ挙げています。(p8以下)

--------
 その第一の理由は、戦国時代の法律、戦国法のあり方である。戦国法の制定権は戦国大名にあり、数郡から数カ国にわたる戦国大名の支配領域において、一般法としての地位を占めていた。(中略)戦国大名領国の主権は戦国大名に帰属し、室町幕府・鎌倉府をはじめとする従来の公権力が公認してきた慣習や特権を継続して認めるかどうかは、戦国大名の判断次第であった。
 そのことを象徴するように、戦国大名は自分の支配領域を指して「国家」「御国(おくに)」という表現を使用した。これが第二の理由である。戦国大名は、自分自身を領国における主権者すなわち「公儀」と位置づけて、自身の領国を「国」(支配領域)と「家」(「家中」=家臣団)の複合体、「国家」と表現したのである。
(中略)
 そして第三に指摘しておかねばならない大きな事実が、ポルトガル宣教師の視点である。ポルトガル宣教師は、戦国大名のことを”rei”、つまり「国王」と呼び、ポルトガル国王と同じ表現を用いて呼称しているのである。この点はイエズス会東インド巡察使アレッシャンドロ=ヴァリニャーノが一五八三年に「ある人々は位階と実権を得たが、それらの者の中で最高の者は屋形(やかた)と称せられる。彼らは諸国の完全な領主であり、日本の法律と習慣に従い全支配権と命令権を有するから、国王であり、その名称に相応している」(『日本諸事要録』『日本巡察記』九頁)と記している点に端的に表れている。
(中略)
 以上のような理由から、筆者は戦国大名をひとつの「地域国家」と呼び、他大名との交渉を、「地域国家」の主権者による外交権の行使、という意味で「外交」と呼ぶのである。
--------

「国家」とは何か、についての説明なので、私としてはある程度抽象度の高い議論を期待したのですが、丸島氏の議論は私にはどうもすっきりと受け取れません。
まず、第一の理由は法律の制定権であり、これは私も納得できます。
しかし、第二の理由は「そのことを象徴するように」で始まっていて、第一の理由と並列して並べることができるだけの独立性を有するのか疑問であり、しかも戦国大名が自分自身で「国家」「御国」と呼んだというだけ、要は当事者がそういうレッテルを主観的に貼っただけ、という話らしいので、客観的に「国家」をいかに位置づけるべきかという理論的な問題とはズレているように感じます。
第三の「ポルトガル宣教師の視点」も、第二と同様、レッテル貼りであり、これまた現代の歴史学者が「国家」をいかに把握すべきかという問題とはズレているように感じます。
国家の要件は第一に法律の制定権、第二にこれこれ、第三にこれこれ、よって戦国大名は国家と把握すべきである、という議論の流れなら理解できるのですが、丸島氏の挙げる第二・第三の理由は、遥か昔、直接の当事者と外から来た観察者が戦国大名に「国」というレッテルを貼りました、という具体的な事実の指摘だけで、理論として抽象度が高いとは思えません。
丸島氏が究明された個別具体的な「外交」交渉の経緯については鋭い指摘が多いのでしょうが、それは別に戦国大名を「国家」、戦国大名間の交渉を「外交」と位置付けなくても説得力を持って論証できたはずです。

アフガニスタンやシリア情勢など、戦国大名と比較してみて「国家」とは何かを考える上での素材は事欠かない世界情勢ですが、アフガニスタンの"warlord"など、一定の領域をほぼ排他的に支配しており、印象としては戦国大名に近いような感じもします。
丸島氏の提示する三要件(?)に従って、"warlord"は明確な制定法を持つか、"warlord"が自分とその配下の複合体を「国家」等の表現で呼称しているか、国外の人が"warlord"の支配領域を「国」と呼称しているかを検討した場合、情報が少ないので該否は不明ですが、仮にこれら全てが否定されるとしても、相当広い領域を排他的に支配している実体があるなら、"warlord"の支配領域を「国家」と呼んでもおかしくないような感じもします。
丸島氏の国家論は理論としてそれほど精緻ではなく、従って他の類似の現象にも適用することが困難ではないかと思います。

>筆綾丸さん
一揆とSNSの類似性の議論、私もあまりに強引すぎて無理が多いと思います。
呉座氏の一揆論はすっきりしていますが、現代社会論・政治論とからめている部分は非常に読みづらい、というか正直鬱陶しいですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6984

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

異文化交流のない「外交」

2013-10-27 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年10月27日(日)22時46分53秒

>筆綾丸さん
私は戦国時代には全く疎くて話について行けないのですが、丸島氏のように戦国大名をひとつの「国家」と認識するとしても、その「国家」間の「外交」は同一の言語と文化を共有する人々の間の交渉ですから、異質な文化間に見られるような緊張はなく、「外交」と呼ぶにはいささか貧相な印象は否めないですね。
鎌倉時代の京都と鎌倉の間の交渉は伝統ある貴族文化と新興の武家文化の衝突という側面があり、感覚的には近代国家間の「外交」に似ていますね。
権門体制論者はこれを「外交」と呼ぶはずもありませんが、東国国家論者の場合、論理的には「外交」となりそうですね。
実際の用例はどうなっているのか、ちょっと気になります。

>愛知揆一
東北では愛知という名字は全然聞かないなあと思ってウィキペディアを見たら、揆一氏自身は東京生まれで、父親が東北帝大理学部教授となったので一家で仙台に移ったのだそうですね。
命名者の教養を感じさせる名前ですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E7%9F%A5%E6%8F%86%E4%B8%80

『一揆の原理』については後ほど。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6980
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小高区復興文化祭

2013-10-27 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年10月27日(日)22時21分13秒

今日は南相馬市の「小高区復興文化祭」に行ってきました。

http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2013/10/post_8484.html

ポスターに書かれていたメイン行事のひとつに「曲芸飛行」があり、何だかずいぶん古風な感じがしましたが、実際に見てみたらキリモミ降下や超低空飛行など大変にダイナミックで、予想外に面白かったですね。
本当は昨日に予定されていたそうですが、台風の影響で順延となり、今日しか行けなかった私にはラッキーでした。
帰宅してからネットで調べたら、曲芸飛行を行ったのは福島市を拠点とする「チーム・ヨシ・ムロヤ」で、代表者の室屋義秀氏は映画「紅の豚」を見てパイロットを志したそうです。
様々な人生がありますね。

http://yoshi-muroya.jp/airshow/pilot.html

一万発の花火も日曜に順延となったのですが、残念ながら私は所用のため早めに帰宅したので見ることができませんでした。

写真の3枚目は車道に駐車して曲芸飛行を見物する人々です。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6981

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勝俣「無縁」論

2013-10-26 | 東日本大震災と研究者

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年10月26日(土)21時48分38秒 編集済

『一揆の原理』で、なるほどな、と思ったのは例えば次のような箇所です。(p204以下)

----------
 中世一揆研究の第一人者である勝俣鎮夫氏は、一揆の結合原理は「無縁」であると主張した。一揆メンバーは、一揆に参加するにあたって、それぞれが血縁・地縁・主従の縁など諸々の「縁」を断ち切った。彼らは「無縁の場」という非日常的な空間を自ら創出することによって、はじめて「縁」を超越した「共同の場」である一揆を形成し、個々のメンバーの平等性と自立性を確保することができたのだという。この“縁切り”のための儀式として勝俣氏が重視したのが、例の「一味神水」なのである。
(中略)
 しかし、ここまでの章で述べてきたように、「一味神水」の神秘性を過大に評価すべきではない。私が思うに、どうも「無縁」論は、「神への信仰によって人々が平等になる」という理屈が先行しているようだ。「神の前では人間、みな平等」という発想は現代人にはとっつきやすいものだが、残念ながら史料的に証明されているとは言いがたい。
(中略)
 一揆契状の決まり文句である「水魚の思いを成す」・「一味同心の思いを成す」は、従来、神への信仰心によって諸々の「縁」=身分制から解き放たれた者たちの精神的連帯と解釈されてきた。言い換えるならば、自由で平等な、まるで「市民革命」を成し遂げた「近代的個人」のような人々の集団として、一揆を理解していたのである。
 要するに、マルクス流の「唯物史観」をしりぞけて宗教的側面を重視した勝俣「無縁」論も、一揆に自由と平等、個人の尊厳、さらには身分制を突き崩す革命的な要素を求めるという根っこの部分では、「階級闘争史観」とつながっているのだ。
 だが一揆の「一味同心」とは、そのような抽象的・理念的なものではなく、赤の他人との間に実の親子兄弟同然の親密な関係=絆を築くことを意味しているのではないだろうか。「無縁」の産物として語られることの多い一揆であるが、実はその根底に、擬制的な親子兄弟という、「縁」を秘めているのである。
 一揆の結成は、神仏の前での「無縁」空間の創出というより、旧来の「縁」をいったん切断した上で新たな「縁」を生み出す行為、と把握すべきである。
----------

言われてみれば当たり前なのだけれど、当たり前のことをあっさり言うためには鋭い直感だけでなく、旧来のそれなりに重みのある学問的蓄積を覆す地味な努力が必要ですね。
私は網野善彦氏の「無縁」論は胡散臭いなとずっと思っていたのですが、勝俣鎮夫氏の文章には網野氏とはまた違った独特の魅力があるので、読んでいるとついつい勝俣ワールドに引きずり込まれてしまっていました。
しかし、呉座氏のドライかつ無粋な案内に従ってセイレーンの歌声の聞こえない距離まで離れてみると、確かに勝俣「無縁」論には問題が多いですね。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『一揆の原理』

2013-10-26 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年10月26日(土)21時06分59秒

『戦国大名の「外交」』を読んでいる途中で、自分は起請文について何も知らないなあと思って一年前に出た呉座勇一氏の『一揆の原理 日本中世の一揆から現代のSNSまで』(洋泉社)を今ごろ読み始めたところ、非常に面白かったですね。
中世人の宗教感情については私もそれなりに醒めた見方をしていたつもりなのですが、呉座氏のドライさに驚嘆しました。
参考文献の論文をいくつか読んだ上で、こちらでも検討してみるつもりです。

中島岳志氏の書評
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2012112500017.html

>まるしまさん
筆綾丸さんはツイッターをやらない方なので代わって御連絡しましたが、催促したみたいで悪かったですね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鹿の角と馬の毛

2013-10-18 | 中世・近世史

投稿日:2013年10月18日(金)08時46分33秒

>筆綾丸さん
頭脳の明晰さの点では、東島氏は同世代の日本史研究者の中でも抜きん出ていますね。
師匠を痛烈に批判するような世渡り下手の故か、今は聖学院大学みたいな田舎大学に燻っていますが、語学力も相当なものでしょうから、いっそのこと海外の研究機関にでも行かれた方がよいように感じます。
日本史研究者の場合、なかなかそんなルートもないのですかね。

>碩学の湖
内藤湖南の「湖」は十和田湖だそうです。
父親も十和田湖にちなんだ号「十湾」を持っていて、父に習ったようですね。

松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/1245.html

湖南の出身地は秋田県鹿角市毛馬内(けまない)という動物色溢れる場所ですが、秋田なのに南部藩領内で、十和田湖も何となく青森県のイメージが強いですから、現在の都道府県の区分を前提にすると少し混乱してしまいますね。

「内藤湖南先生誕生地」碑
http://manju.livedoor.biz/archives/50938373.html

>寄神社
立派なご神木ですね。
弥勒神社と呼ばれた時期もあったそうですね。

http://town.matsuda.kanagawa.jp/kankou_main/content/play/24.html

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6960

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「中世自治とソシアビリテ論的展開」再読

2013-10-17 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』

投稿日:2013年10月17日(木)08時49分52秒

私は歴史そのものより、むしろ歴史を映し出す鏡、媒体としての歴史書・歴史物語作者や歴史学者の方に特殊な関心を寄せているのですが、出自を探って行って面白いと感じる下限はせいぜい1928年生まれの網野善彦氏くらいでした。
戦後生まれの研究者はそれなりに想像できる範囲内なので概してつまらないのですが、東島誠氏の場合、私にとっては発想の出発点が理解しにくく、ちょっと謎の存在でした。
『日本の起源』では、その点が次のようにはっきり書かれていましたね。(p300以下)

---------
 どうも私の履歴書をカミング・アウトしなければいけない空気をひしひしと感じますが・・・(笑)。原武史さんの『滝山コミューン一九七四』は、時代の<ひんやりした温度>を鮮烈に、しかもある種の<郷愁>とともに喚起してやまない、秀逸な一九七〇年代史です。ただし、東京は西武池袋線沿線の、マンモス団地の小学校で繰り広げられていたその<光景>は、同じことを経験していない人には、また読者の感受性によっては、たぶんわからないだろう、というところがあって、そこで評価の分かれる書物だと思います。
 少なくとも私は、東京生まれでも団地住まいでもない。しかしながら蜷川(虎三、共産党・社会党を与党に戦後七期連続で京都府知事)府政という、革新自治体の独特の雰囲気がみなぎっていた京都近郊の小学校区に育ったせいか、この本で語られるのと同様の、コミューンあるいはコミュニティの掲げる<理想>が、<暴力性>に転化する瞬間、それが息苦しいほどの<負の側面>を露わにする現実を実際に経験したし、同じことは、うっかりするといつでもどこでも起こりうる可能性を持っているのだ、ということが学問の出発点にあるわけです。
---------

これを読んでから「中世自治とソシアビリテ論的展開」を読み直すと、ああ、なるほど、とは思います。

「コミューンにおけるアソシアシオンの不在」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aa96203a1f89528a67b82a824305e274

2010年6月に上記投稿をしたとき、私は東島氏を<歴史に「ないものねだり」をし続ける無邪気な永遠の子供>と思っていたのですが、東日本大震災を挟んだ3年後、『日本の起源』を読んだ後も大体同じような感想を抱きます。

「中世自治とソシアビリテ論的展開」の内容とは直接関係ありませんが、ここで東島氏が厳しく批判された勝俣鎮夫氏は1934年生まれ、原発事故発生時の東京電力会長でマスコミから悪魔のように糾弾された勝俣恒久氏の6歳上の兄ですね。
経済界では勝俣恒久氏は新日本製鉄元副社長・九州石油元会長の孝雄氏、丸紅元社長の宣夫氏と並んで「勝俣三兄弟」として有名でしたが、実際には五人兄弟、それも残り二人を含め全員が大変な秀才という驚異的な家族ですね。
この兄弟関係、以前ツイートしてみたら中世史の研究者はあまり知らなかったようで、私は逆に少し驚きました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E4%BF%A3%E6%81%92%E4%B9%85

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

潤と誠

2013-10-16 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』

投稿日:2013年10月16日(水)21時58分18秒

>筆綾丸さん
私も『中国化する日本』は挫折が目に見えているので遠慮していますが、『日本の起源』p337で東島氏が言及されている與那覇氏の『翻訳の政治学─近代東アジアの形成と日琉関係の変容』は読んでみたいなと思っています。
前回、東島氏の著作を検討したときも、一般向けの本より専門書の『公共圏の歴史的創造』の方が分かりやすかったですね。

それにしても両氏とも関心の対象が朝鮮半島と中国にとどまっているのは何故なんですかね。
せめてシリア情勢くらい多少の言及があってもよいように思うのですが。
それと東島氏が安冨歩の「東大話法」を肯定的に引用(p192)しているのは、ちょっと驚きました。
與那覇氏は反原発運動には割と醒めた見方をしているようですが(p321)、東島氏は原発がらみではオールド左翼っぽい感じですね。

>「応仁の乱について」
内藤湖南は青空文庫で読めるのかな、と思って検索してみたら、「応仁の乱について」を含め、かなりリストアップされてますね。

http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person284.html
http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/1734_21414.html


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6956

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「若手」削除のお知らせ

2013-10-16 | 妙音天・弁才天
投稿日:2013年10月16日(水)09時33分54秒

ブログの

弁財天曼荼羅スカーフ【研究者への無償進呈のお知らせ】
http://chingokokka.sblo.jp/category/1330885-1.html

において、「(2)中世史・中世文学の若手研究者」としていましたが、「若手」の2字がイヤミったらしいので削除しました。
希望者にはどんどん差し上げます。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

與那覇亭と東島亭の芸風比較

2013-10-15 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』

投稿日:2013年10月15日(火)22時42分31秒

>筆綾丸さん
>「禁断の果実を口にしてしまった学問」(260頁)
これは東島氏が「戦前と戦後は断絶しておらず、じつは連続している」という見方を戦前再評価に「ギリギリまで」「寄った路線で」用いている雨宮昭一氏を批判する文脈での表現ですから、東島氏自身への批判としては適切でないように思います。

>高級落語
これはその通りですね。
華麗なレトリックの連続を無邪気に聞いていると、知的な刺激が非常に多くて、なかなか高尚な気分になれますね。
二人の高級落語家の芸風を比較した場合、私は與那覇亭潤師匠はちょっと苦手です。
與那覇氏の名前で検索してみると、

-------------
「冷戦を知らない子供たち」のために
歴史が進歩をやめた時代に、回帰し続ける記憶を生きる
http://toyokeizai.net/articles/-/20180

というポエムが出てきますが、1979年生まれの若い人がこの種のしみじみした文章を書いていては駄目ですね。
その点、1967生まれの東島亭誠師匠は円熟の境地に達しており、終始一貫、すっきりと乾いた口調で語っていて爽快です。
ただ、東島氏の主張自体は『自由にしてケシカラン人々の世紀』と『公共圏の歴史的創造――江湖の思想へ』を既に読んでいる読者にとっては全く新鮮という訳でもないですね。
この掲示板でも「空虚な中心」を含め、2010年6月から7月にかけて少し議論しましたので、今の時点であまり追加する必要もないように思います。

(追記)
当時のやり取り、今の時点だと47ページで始まっています。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs?page=47&

ただ、これもすぐにページ数が変わってしまうので、主要な投稿にもリンクを貼っておきます。

【筆綾丸さん】「可能態 ≒ if ?」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5492
【筆綾丸さん】二人の天皇あるいは玉と玉
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5495
後醍醐天皇は「変態」ですか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d9f137508709322bddf946b067676def
「コミューンにおけるアソシアシオンの不在」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aa96203a1f89528a67b82a824305e274
樋口陽一と廣松渉
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cb2d5588014471bf79fe5deb5ef86396
市河寛斎
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/418c4ad5607bde488dd4afe6584f7a83
遊女と「公共性」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/38c6cdf9daf88db33dc8bf7e7d2773ed
【筆綾丸さん】大文字と小文字の他者
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5511
「江湖」と裏社会
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed9cef7222c419a022dc40b9074ea41a
【筆綾丸さん】Zen
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5513
村の「二重帳簿」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b36cf72c198364a642e9020ac9b95379

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6948
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6951

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「歴史的には無関係な共通項探し」

2013-10-12 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』

投稿日:2013年10月11日(金)20時26分14秒

>まるしまさん
こんにちは。
私も『戦国大名の「外交」』は気になっていたのですが、本日やっと購入しました。
これから拝読します。

>筆綾丸さん
東島誠氏は難しい人ですね。
與那覇氏は

-------
本書は、粗っぽい力技で「中国化」なる雑駁な模様を編み出すのが精いっぱいの駆け出し職人である私が、「江湖」というひとすじの糸から数々の繊細なイメージを織り上げてきた東島さんに弟子入りして、一緒に二〇〇〇年分の日本史を仕立てなおした過程の記録です。(p6)
-------

と言われていて、<「中国化」なる雑駁な模様>は決して謙遜でも何でもなく、事実その通りだと思いますが、東島氏への評価はどんなものなのか。

たまたま前回の投稿で、横内裕人氏が『日本中世の仏教と東アジア』において黒田俊雄氏の顕密体制論を批判した部分にリンクを張りましたが、

----------
黒田氏の顕密体制論は、古代から中世にいたる各時代において諸宗教の共通項を選び出し、それを時代ごとに細い糸でつなぎあわせ、歴史的展開と称している、といったら言い過ぎであろうか。顕密仏教が従来の日本民族文化論の枠内で議論される限り、歴史的には無関係な共通項探しが繰り返されるわけで、それはかつて黒田氏が丸山説に向けた「非歴史的」という批判がそのまま当てはまるのではないか。
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f7ba2ad02586b788a09f1affbee54bb4

という指摘、特に「歴史的には無関係な共通項探し」との表現は東島氏の「江湖」論を考える上でも参考になりそうです。
東島氏は知識量が豊富で、学説の整理も見事、そして何より繊細な分析力を持った人だとは思いますが、どうにも考え方のバランスが悪いような感じがします。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6943

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「鎌倉後期・建武政権期の大覚寺統と大覚寺門跡─性円法親王を中心として─」

2013-10-05 | 網野善彦の父とその周辺

投稿日:2013年10月 5日(土)00時36分47秒

>筆綾丸さん
京都&虚空蔵で検索してみると、飲食店を除き、嵯峨の法輪寺が最初に出てきますね。
寺社好きの京都市民の場合、虚空蔵と聞いて最初に思い浮かべるのはやはり法輪寺なんでしょうね。

http://www2.ocn.ne.jp/~horinji/

ちなみに記憶力抜群の後深草院二条は法輪寺に籠もったことがあると言っていますね。

『とはずがたり』巻3.「法輪寺に籠る、嵯峨殿より院の使」
http://web.archive.org/web/20061006205720/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-11-horinji.htm

坂口太郎氏の「東京大学史料編纂所蔵『五大虚空蔵法記』について─ 後醍醐天皇と後宇多院法流─」を読んだ後、改めて同氏の「鎌倉後期・建武政権期の大覚寺統と大覚寺門跡─性円法親王を中心として─」(『史学雜誌 122(4)、2013年)を読み直しているのですが、これも良い論文ですね。
英文要旨が ReaD&Researchmap に出ていて、なかなか便利です。

----------
In recent years, particular attention has been drawn to the retired Emperor Go-Uda's 後宇多 promotion of esoteric Buddhism and it surrounding cultural and political environment as the staging ground for the "anomalous (igyo 異形) monarchical regime" of his son Emperor Go-Daigo 後醍醐.
----------

密教に特に造詣が深い訳でもない網野善彦氏が後醍醐を"anomalous"にしてしまいましたが、少なくとも密教に関しては後醍醐は父・後宇多の遺産を食いつぶしただけの人ですね。
後宇多研究の進展を知っている人にとっては、こうした認識が殆ど常識になっていると思いますが、一般的にはまだまだ網野氏の影響が強いのでしょうね。

----------
Since the publication of Amino Yoshihiko's seminal work on the period in question, the research has been focused on the Shingon priest Monkan 文観, in order to elucidate the religious aspects of Go-Daigo and his reign. However, if one considers the historical developments from the time of Go-Uda, it becomes clear, as this article shows, that it was not Monkan, but rather the Daikakuji Monzeki allying with the Daikakuji line of descent led by Shoen, which lent the primary support to Go-Daigo's regime from within the walls of Shingon Buddhism.

http://ci.nii.ac.jp/naid/110009604519

坂口太郎氏が「はじめに」において先行研究として特に重要視している横内裕人氏が、何故か文観については網野氏の見方を踏襲しているような印象があり、少し奇妙だなと思っていたのですが、坂口氏の研究によって文観の相対化も進みそうですね。

「普通の王権」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1ae34e02fc228b0b4fbb51799ddf1dd2
『日本中世の仏教と東アジア』
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f7ba2ad02586b788a09f1affbee54bb4

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五大虚空蔵菩薩

2013-10-03 | 東北にて
投稿日:2013年10月 3日(木)08時59分24秒

神護寺サイトを見ると、寺宝紹介の2番目に五大虚空蔵菩薩像が出てきますね。

---------
 五大虚空蔵菩薩は金剛界の五智如来の変化身といわれ、富貴成就、天変消除をこの菩薩に祈って秘法を行う。
 わが国での初見は弘仁十二年(821)、空海が両部曼荼羅、祖師像の新写の際に描かせた絵画であるが、本像もあるいはその像にもとづいて彫られたのかもしれない。
 五大虚空蔵菩薩を修する法を金門鳥敏法(かのととりどしのほう)ともいい、変革の年といわれる辛酉の年に除災のため行われた。
 本像は五体とも像高90センチメートルあまり。ほぼ同形の坐像で手の形や持物だけが異なる。
 肉身の色は中尊の法界虚空蔵が白色、東方尊金剛虚空蔵は黄色、南方尊宝光虚空蔵は緑色、西方尊蓮華虚空蔵は赤色、北方尊業用虚空蔵は黒色に塗り分けられている。
 いまは一直線に祀られているが、もとは東寺講堂の五菩薩像などと同様に、中尊を囲んで左右斜め前と、斜め後ろに他の四体が配されていた。
http://www.jingoji.or.jp/treasure02.html

同サイトの写真は不鮮明ですが、YouTubeには綺麗な動画があります。

http://www.youtube.com/watch?v=ykNsCbde8HI

東寺・観智院の五大虚空蔵菩薩は獅子・象・馬・孔雀・迦楼羅の上に鎮座していて、像高も90cmの神護寺のものよりは相当高いようですね。
なかなか迫力があります。

http://www.toji.or.jp/kanchiin.shtml

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする