学問空間

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0082 長谷川明則氏「赤橋登子─足利尊氏の正妻─」(その6)

2024-05-06 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第82回配信です。



北条重時─長時─義宗─久時─登子

『梅松論』は「扇ヶ谷の浄光明寺(神奈川県鎌倉市)に籠って謹慎し、後醍醐に赦免を乞うた」ことを記す。
しかし、『太平記』では建長寺。
何故に多くの研究者は浄光明寺と判断するのか。
それはおそらく『太平記』のエピソードが面白すぎるから。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p374)

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 さる程に、足利左馬頭、鎌倉へ打ち帰つて、合戦の様を申さんために、将軍の御屋形に参ぜられたれば、四門空しく閉じて人もなし。荒らかに門を扣かせて、「誰かある」と問ひ給へば、須賀左衛門、出で会ひて、「将軍は、矢矧に合戦ありと聞こし召されし日より、建長寺に御入り候ひて、すでに御出家候はんと仰せ給ひしを、付きまゐらせて候ふ人々、様々に申して押し留めまゐらせて候ふ程に、御本結〔おんもとゆい〕をば切らせ給ひながら、未だ御法体〔ごほったい〕にはならせ給はで候ふなり」とぞ申ける。
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清水克行氏による「尊氏の精神分析」〔2018-03-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25befb1f5a691966a61ffe63c2baecc3
「支離滅裂である」(by 細川重男氏)〔2021-01-21〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/622f879dac5ef49c38c9d720c9566824

二、長谷川論文の続き

p229以下
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 その後、尊氏は後醍醐に与する北畠顕家の攻撃によって京都を追われたが、九州で勢力を盛り返し、六月には反転攻勢して京都を奪還する。十月になると、比叡山(滋賀県大津市)に落ち延びていた後醍醐が抵抗をあきらめて京都に戻り、尊氏に擁立された光明天皇に三種の神器を譲り渡した。この間の登子は、鎌倉を預かる義詮とともに過ごしたものと思われる。その後、暦応三年(一三四〇)には尊氏との間に基氏が生まれていることから、その数年前には、鎌倉から京都の尊氏のもとへ呼び寄せられたはずである。なお、基氏には一歳年長の夭折した兄(聖王)がいた可能性があり[田辺二〇〇二]、その場合には上洛の時期を早めに考える必要がある。登子が呼び寄せられたのは、反足利勢力であった新田義貞や北畠顕家が相次いで戦死し、尊氏が征夷大将軍に任じられるなど、室町幕府の地盤が徐々に固まっていく時期であった。義詮が独り立ちしていく中で、登子には、京都にあって尊氏を支える役割が求められていたのかもしれない。なお、暦応元年には、登子の兄弟で鎌倉末期に東大寺の寺務代に任じられていた時宝が寺務代に再任されており[平二〇〇〇]、登子の上洛に関連して彼が復権した可能性もある。
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田辺久子『関東公方足利氏四代─基氏・氏満・満兼・持氏─』(吉川弘文館、2002)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b34535.html

平雅行「鎌倉山門派の成立と展開」(『大阪大学大学院文学研究科紀要』40巻、2000)
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