学問空間

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「従一位」

2011-02-28 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 2月28日(月)12時48分17秒

>筆綾丸さん
そーなんですよ。
一瞬、目が点になりましたが、間違いなく「従」と書いてあります。
まあ、神祇不拝の信念を持つ浄土真宗の坊主が意地悪く稲荷神をからかった、というよりは単なるケアレスミスなんでしょうが、それにしても釈徹宗氏が稲荷信仰を舐めていることは明らかですね。
新潮社の編集者も、それなりに宗教に関心のある人が担当しているのでしょうが、みんな見逃してしまったようですね。


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間違い探し

2011-02-27 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 2月27日(日)23時07分44秒

(設問)
次の文章の中に明らかな誤りがあります。
どの部分でしょうか。
(出典、『不干斎ハビアン』p73以下)

--------
 そして幽貞は、「吉田家が神をコントロールしているのであれば、神は吉田家よりも下に位置するではないか。いずれにしても、天地創造の神ではないということである」と述べる。
 このあたり、日本の「神」の特性をよく押さえて語っていることがわかる。日本の「神」は、もちろんキリシタンの神(デウス)とはまったく別物である(近代になって、Godに「神」という訳を使うようになったのは、キリスト教にとって大きな躓きだったかもしれない)。本居宣長が言うように「尋常でないほどすごいもの」が神ならば、尋常でないほどの能力があったり、功績があったり、とにかく普通ではないものを神として祀ることになる。神話の神々、土着の神、外来の神、人間、道具、自然現象、なんだって祀るのだ。さらに、日本の「神」は一神教の神のように人間と断絶した存在ではない。政府が神にいろんな称号を与えたり、位階を授与したりもする。だから稲荷は従一位の位をもらっている。吉田家が神をコントロールしている、というのは少し言い過ぎだが、吉田家の意向を神が受けることだってある。これは、キリスト教の神とはまったく違う神概念である。少なくとも、ハビアンが言うように、「天地創造の神」ではない。


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「江湖の野子」

2011-02-27 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 2月27日(日)00時44分0秒

>筆綾丸さん
>『鎌倉幕府の滅亡』
私も昨日入手したので読んでみました。
納得できた点もあり、若干の疑問を抱いた点もあるのですが、当面は宗教ないし宗教美術関係に集中したいので、感想等は控えます。
今日は彌永信美氏の「キリシタンをめぐる三つの『背景』」(『アジア遊学 127 キリシタン文化と日欧交流』勉誠出版、2009年11月)に紹介されていた釈徹宗氏の『不干斎ハビアン 神も仏も棄てた宗教者』(新潮選書、2009年)を読んでみたのですが、浄土真宗のお坊さんでもある釈氏の見解には微妙な違和感を感じる部分が多いですね。
最後の方に「江湖」が出てきましたので、少し引用しておきます。(p237以下)

---------
 ハビアンは「絶対・普遍」の概念をもったキリシタンさえも相対化した。並みの力量ではないと思う。さらに、仏教・儒教・道教・神道と、その当時、身の回りにあったすべての制度宗教を相対化してしまったのである。しかしハビアンは、宗教を排除した「世俗主義」にも同調を示したわけではない。
 そこに開けてきたのは第三の道である(その第三の道は現代スピリチュアリティの領域とも重なるところがある。)
 ハビアンはその領域での立脚点を「江湖(ごうこ)の野子(やす)」と表現した。『破提宇子』の序文にはハビアンが自ら「江湖の野子好菴」と署名している。「俗界の野人ハビアン」といったところだ。「江湖」は禅僧の世界を表す言葉でもあるが、この場合は「野子」という言葉が続くところから、「俗世界」を指すと思われる。「野子」という言葉には、すでにどのような宗教教団にもコミュニティにも属していない、属するつもりはない、というハビアンの立脚点が表現されている。結局、ハビアンが最後に着地したポジションは「俗界の野人」だったのである。
 ハビアンは自らの宗教性だけを拠り所として、ただひとり、裸で死んでいく覚悟を引き受けたに違いない。
---------

不干斎ハビアン
http://www.shinchosha.co.jp/sensho/editor/2009/603628.html



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天阿上人

2011-02-25 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 2月25日(金)07時41分27秒

大森恵子氏の「荼枳尼天と稲荷信仰」は次のような趣旨の論文です。(p375)。

-----------
 神仏分離以前の創立とか勧請と伝えられる稲荷小祠は、全国津々浦々に鎮座する。この種の稲荷社は、章末に掲載した表5の「荼枳尼天像を御神体とする稲荷社一覧表」や表6の「荼枳尼天像を御神体とする寺鎮守稲荷一覧表」に示したように、現在でも仏教的稲荷神である荼枳尼天像を御神体とするものが多い。明治維新後は、山城国の伏見稲荷本願所愛染寺が廃されたために、荼枳尼天像も神道の正一位稲荷大明神とされ、伏見稲荷大社から神道的稲荷神の宇迦之御魂をむかえて、一緒に奉斎されている稲荷社が数多く存在するのも現状である。一方では、神仏分離で荼枳尼天を安置するかぎり、稲荷神社と称することができなかったので、もと別当や縁りの寺に荼枳尼天像を遷座するなどして、祀り継いだものもある。このほかに三河地方の豊川稲荷(曹洞宗・妙厳寺)や、吉備地方の最上稲荷(日蓮宗・妙教寺)などから勧請された※枳尼真天や※枳尼尊天を御神体とする稲荷祠もある。
(中略)
 ところがこれまで、稲荷信仰に関する様々な研究がなされてきたが、荼枳尼天を中心に論じた研究は、五来重氏が「稲荷信仰と仏教」を執筆するまでは、ほとんど進行していないのが現状であった。五来氏は同稿で日蓮宗や禅宗・浄土宗・天台宗・真言諸宗で祭祀されている荼枳尼天を主にとりあげて、その宗教現象を詳細に分析するとともに、仏教経典や仏教的稲荷信仰に関する伝書をとおして、稲荷信仰の仏教的側面を論証している。また、栖川隆道氏は「禅宗寺院と稲荷信仰」の論中で、妙厳寺豊川稲荷が明治以後急速に人々の信仰を集めた理由を考察している。
 しかし、各地に鎮座する稲荷社の別当寺に着眼して、荼枳尼天を祀る仏教的稲荷信仰が民間に伝播していった過程を解明する研究はいまだなされていない。本章では特にこの点に焦点を当てて、近世における稲荷社の別当寺と修験、あるいは伏見稲荷本願所愛染寺と勧進聖、愛染寺の初代住持天阿上人と荼枳尼天信仰の関わりについて究明していくことにする。
-----------

この天阿上人は非常に興味深い人物ですね。
後で少し紹介するつもりです。
また、天阿上人ゆかりの、愛染寺伝来の品々を多数保管しているという滋賀県長浜市の日出山神照寺にも行ってみたいと思っています。

神照寺
http://www.h2.dion.ne.jp/~jinsyoji/index.htm
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烏森神社の「多喜尼天」

2011-02-24 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 2月24日(木)07時21分1秒

JR新橋駅には「烏森口」改札があり、近くに烏森神社が鎮座していますが、出張先に向かう途中だったのでこちらも参詣してみました。
同社の公式ブログには、

-----------
平安時代の天慶三年(940年)に、東国で平将門が乱を起こした時、むかで退治の説話で有名な鎮守将軍藤原秀郷(俵藤太)が、武州のある稲荷に戦勝を祈願したところ、白狐がやってきて白矢の矢を与えた。その矢をもって、すみやかに東夷を鎮めることができたので、秀郷はお礼に一社を勧請しようとしたところ、夢に白狐が現われて、神烏の群がる所が霊地だと告げた。そこで桜田村の森まできたところ、夢想の如く烏が森に群がっていたので、そこに社頭を造営した。
それが烏森稲荷の起こりである。
http://plaza.rakuten.co.jp/karasumorijinja/

とありますが、実際に訪問してみると、稲荷社であることを感じさせる要素は全くないですね。
立派な狛犬はありますが、狐は一匹も存在しておらず、境内のポスターに「初午祭」とはあっても、それが稲荷の祭礼である旨の説明はありません。
大森恵子氏の大著『稲荷信仰と宗教民俗』(岩田書院、1994)第二章「荼枳尼天と稲荷信仰」p380によると、「烏森稲荷社」の神体は「多喜尼天」、別当寺は「快長院 聖護院宮末京六角住心院霞下」(『御府内寺社備考』)とのことなので、同社が隆盛を極めた江戸時代には本山派修験の支配下にあった訳ですね。
そして神仏分離の時期に仏教的要素を排し、ついでに稲荷としての側面も極力排してしまったということでしょうか。
参拝時、私はお狐様へのバンダナ奉納を狐視眈々と狙っていたのですが、肝心のお狐様がいないのでは仕方ないので空しく引き返しました。

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お狐様とバンダナ

2011-02-22 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 2月22日(火)22時53分45秒

東京出張のついでに赤坂の豊川稲荷東京別院に行ってみました。
本院の豊川閣妙厳寺と同様、お寺の中に鳥居がいっぱいあるので、参拝時に柏手を打っていいのかどうか一瞬迷いますね。
境内の一画にはこれも本院同様の霊狐塚があって、凶悪系の割合が多いものの、伏見稲荷などよりは遥かに多様な表情の大小様々なお狐様が並んでいました。
大きめの狐には概ね赤い涎掛けが奉納されていましたが、中に一匹だけ、ピンクのバンダナを巻いているお洒落な狐がいました。

(設問)
いったい誰がバンダナを巻いたのでしょうか。

(答え)
ま、私なんですけど。
狐の敏捷さ、スピード感には涎掛けよりバンダナの方がずっと似合いますね。
ただ、巻き方が良く分からない上に、不審者と思われないように素早く巻こうとしたので、何だか手拭の固結びのようになってしまいました。
人気のない寂れた稲荷神社で少し練習してから、再度挑戦してみたいと思っています。


豊川稲荷東京別院
http://www.246.ne.jp/~ziggy/

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5731


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宝珠とリボン

2011-02-17 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 2月17日(木)22時12分38秒

スカーフの細部のデザインは順調に進んでいて、出来上がるのが楽しみです。
私が制作をお願いしている会社はもちろん豊富な図案のストックを持っていて、普通のオリジナルスカーフ制作依頼の場合は相当部分を既存の図案の組み合わせとするので時間もさほどかからないのですが、私の依頼したデザインは非常に特殊なため、時間もかかるし費用もそれなりにかかりますね。

さて、青蛇様・白蛇様・赤蛇様・黒蛇様を毎日眺めている私は、注目するポイントも相当マニアックになっています。
青蛇様(能満院)の場合、首まわりに水平方向に金で縁取られた赤いリボンをつけておられていて、ずいぶんお洒落なのですが、これは宝珠との位置関係から見て宝珠を首に結びつける機能を有しているようです。
白蛇様(能満院)の場合、垂直方向に黄色(?)のリボンをつけておられていて、上端に火炎宝珠がメラメラと燃えていますが、きっと耐熱素材のリボンなんでしょうね。
赤蛇様(高野山親王院)の場合も垂直方向に白いリボンで、やはり上端に火炎宝珠が燃えています。
ところが、黒蛇様(石山寺)の場合、水平方向に赤いリボンを巻いているのですが、火炎宝珠はリボンとは離れて、左右の蛇の頭の上で燃えています。
とすると、リボンは何のために存在しているのか。
機能面では何の期待もされず、純粋にお洒落のために存在しているのですかね。

宝珠とリボンの位置関係からすると、やはり機能を有する方が自然な感じがします。
とすると、谷口耕生氏は黒蛇様は「室町時代も早い時期の作」と言われていますが、仮にその時代設定が正しいとしても、黒蛇様は決して最初に登場したのではなく、先行する作品があって、それを見た作者が自分の方がもっとデザイン的に優れたものを作れるんだ、と変に力んで作ったものじゃないですかね。
その場合、先行作品は何かというと、全体的な印象から見て、私は青蛇様の可能性が高いのではないかと思います。

参考までに青蛇様の首の部分を再掲しておきます。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5730
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ご詠歌行列

2011-02-15 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 2月15日(火)00時40分41秒

>職人太郎さん
>お湯
気合が入っているのに調子が狂ってしまうのですかね。

弘法大師堂の写真、100枚ほど撮ってきましたので、もう少しアップしておきます。
行列の一番後ろ、私もちゃっかり関係者の一員であるかのように歩いていました。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5729
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梱包された日蓮

2011-02-13 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 2月13日(日)22時37分20秒

柏崎市に行ったついでに、久しぶりに日蓮ゆかりの番神堂(ばんじんどう)に寄ってみました。
お堂はすっかり雪囲いされていて、この時期は無人なのかなと思ったら、内部にはお守りなどを売っているお爺さんが一人いました。
お堂の裏手には日蓮の銅像があるのですが、クリストの梱包芸術風に半透明のビニールでグルグル巻きにされていました。

番神堂
http://ikss.web.infoseek.co.jp/kenbunki/fukuurasansaku/banjindou.htm

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5727
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弘法大師堂、霊塩水祭礼

2011-02-13 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 2月13日(日)22時13分14秒

今日は新潟県内各地で様々な冬の行事があったのですが、私は柏崎市の西長鳥岩之入という山間部の集落で行われた「弘法大師堂霊塩水祭礼」に行ってきました。

--------------
今から約1,200年前、弘法大師(空海)が諸国を布教して柏崎の岩ノ入に訪れた折、一軒の貧しい家に一晩泊めてもらい、そのお礼に錫杖で大地から塩水を噴出させました。
この祭りはその恵みに感謝する伝統行事で、前夜祭では弘法大師堂の周りに108本の蝋燭を雪洞に灯し雪夜を彩ります。
祭り当日はご詠歌行列、塩汲み行列、和尚の読経などがあり、会場では霊塩水で作った甘酒のサービス、塩水豆腐、お饅頭、おせんべいの販売があります。

http://www.niigata-kankou.or.jp/kashiwazaki/kanko/event/2789.html

というもので、弘法大師伝説の典型例ですね。
ご詠歌行列はお坊さん1人に参列者20人程度であり、本当に小さな集落の素朴な行事ですが、なかなか良いものでした。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5726
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浦佐毘沙門堂

2011-02-13 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 2月13日(日)10時10分37秒

次は上越新幹線浦佐駅のすぐ近くにある浦佐毘沙門堂です。
彌永信美氏の『大黒天変相』を読んで以来、毘沙門天がとても気になっているので何となく訪問してみたのですが、本尊は秘仏とのことで拝見できませんでした。
リンク先の雪がない時期の境内、特に鐘撞堂周辺と比べると、どれだけ雪が積もっているのかが分かります。


※写真
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越後のミケランジェロ

2011-02-13 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 2月13日(日)09時21分19秒

三連休は愛知県瀬戸市を再訪する予定だったのですが、太平洋側も大雪だというので中止しました。
結果的にはたいした雪ではなかったようですが、スタッドレスタイヤを履かず、雪道に慣れていないドライバーがウヨウヨしている世界に入り込むのは、狼の群れに向かって突撃する羊の覚悟が必要であり、とてもじゃないけど怖くて行けないですね。
ということで、地味に新潟県内を廻ってみました。
地元の人に石川雲蝶はすごい、と聞いていたので、最初に魚沼市の永林寺という曹洞宗の寺に行ってみたのですが、正直、それほどでもないように感じました。お寺自体も、民衆に媚びへつらう曹洞宗の悪しき側面を遺憾なく発揮した品のない寺でした。
ついで、さほど期待せずに同じく魚沼市の西福寺というお寺に行ったのですが、ミケランジェロに比すべきかはともかくとして、こちらは異様な迫力があって、ちょっと凄かったですね。
彫刻自体は良いサイトがあるのでそれに譲り、西福寺開山堂とその周辺の写真を載せておきます。
最近、鉄骨の雪除けの覆屋をつけたので、独特の外観になっていますが、いかにも雪国らしいがっしりした建造物ですね。
相当雪が積もっているように見えますが、土産物店のおじさんに聞いたところ、これでもかなり雪が減った状態だそうです。
確かに西福寺ブログで1月末の様子を見ると、無茶苦茶な積雪量ですね。
こういうところで暮らすのは本当に大変だなあと思います。

石川雲蝶
http://www.niigata-kankou.or.jp/feature/09_uncho_01.html

西福寺
http://ww5.et.tiki.ne.jp/~hirasawa/

西福寺ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/akeko121/23075833.html

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5724


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初凍み渡り

2011-02-09 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 2月 9日(水)23時01分11秒

このところ朝6時25分からテレビ体操をして、その後近所を散歩するという妙に健康的な生活を送っているのですが、おかげで昨日は「凍(し)み渡り」なるものを経験できました。
これは早朝の放射冷却で雪面が凍り、足がもぐることなく雪面を歩ける現象ですが、非常に不思議な感覚ですね。
1月後半はずっと雪が降り続いて、さすがに気が滅入りましたが、雪国ならではの良いことも沢山ありますね。

「ある日のラチコ」
http://www5e.biglobe.ne.jp/~lachiko/oneday41.htm
「JーFam.越後便り」
http://j-fam-3.blog.so-net.ne.jp/2009-01-30


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聖公会

2011-02-09 | 新潟生活
聖公会 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 2月 9日(水)22時35分13秒

>筆綾丸さん
彌永昌吉氏自身は聖公会の信徒だったそうですね。(『若き日の思い出 数学者への道』p196以下)

----------------
 最後に宗教のことを書いておこう。あまりはっきりと書かなかったかもしれないが、私は一九五〇年代から日本聖公会の信徒になっている。どういう気持ちでクリスチャンになったか、今も宗教についてどう考えているのか、といったことである。
 私とキリスト教とのかかわりについては、すでに何回か述べたが、その主な点をもう一度、覚書として書いておこう。
 私の家族環境は、当時としてはかなり異例のことだったと思うが、いろいろな形で少年時代からキリスト教とかかわりを持っていた。たとえば、母方の叔母のひとりである志立タキは福澤諭吉の三女で、日本聖公会、特にその経営する香蘭女学校の創立に関与した。母は若いとき叔母タキの指導を受けたので、その影響でキリスト教、なかでも日本聖公会に親しくした。そのためもあってか、一九一四年から四年間松本にいたときは、妹トキ子と一緒に毎日曜聖公会の日曜学校に通っていた。私は松本から離れてからは教会へ行くこともなくなってしまったが、トキ子は香蘭女学校を卒業し、クリスチャンとして知られる安井てつ先生が学長をされていた東京女子大へ入り、そこで学ぶうち、たしかミス・マンダース(Miss Manders)というカナダ出身の先生と親しくなり、洗礼を受けた。母はそれをあまり喜ばなかったようであるが、私は妹の方に同情的であった。その後、石田祐二さんと結婚したトキ子は関西に住み、日曜日は御影の聖公会に通い、そこで後に私の妻となった菊池澄子と識り合ったのである。
 澄子は大阪回生病院長であった菊池米太郎氏の三女である。米太郎氏は九州佐賀の出身で、もともと藩医の家に生まれた。東大卒業後ドイツに学び、帰国後家業を継いで大阪府池田の回生病院長となった。米太郎氏はドイツに学ばれたとき、もちろんキリスト教に接し、影響も受けられたはずであるが、クリスチャンにはならず、宗教について語るときは、イエス・キリストは認めながら、キリスト教のどの宗派にも属さず、内村鑑三氏の無教会主義とも異なる、いわば「菊池教」ともいうべきものを唱えられた。無教会主義ほどの体系は持っておられなかったが実践的にはそれに近い立場で病院を経営しておられたようである。米太郎夫人達子さんは、前にも書いた松本丞治夫人・松本千(小泉信三氏の妹)との関係もあって、もっとはっきりした聖公会の信者で、澄子は子どものときから日曜毎に教会へ行き、御影の教会で日曜学校の先生もしていた。
 長女恵美子が一九三八年に亡くなったとき、当時、澄子が信徒であった聖アンデレ教会の野瀬先生から改宗をすすめられ、心を動かされながら見送った。戦時中は軽井沢や諏訪に転々として、教会のことなど考える余裕がなかった。終戦後、田園調布に住んだが、そのころ香蘭女学校が「疎開」していた先と近かった。そこに行くと偶然、私と四中で同期だった松阪勝雄氏がチャプレンであった。(中略)とにかく再会を喜んでいるとあるとき、松阪君が私に「君もそろそろクリスチャンにならなくては・・・」という。私もそれでは、と思い、洗礼を受けたのである。そのとき深く考えたわけではなかったが、やはり澄子と同じ宗教がよいと思ったのだ。(後略)
----------------

文中、「一九一四年から四年間松本にいたとき」とありますが、これは父親の彌永克巳氏が日銀松本支店長として赴任していた時期で、三男の彌永貞三氏(元史料編纂所長)は松本で生まれたそうですね。

彌永貞三氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%8C%E6%B0%B8%E8%B2%9E%E4%B8%89

>町井台水
私も全く知りませんでしたが、リンク先に晩年の写真が出ていますね。

https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/5221/1/kyouyoronshu_390_(17).pdf

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時をかける鎌足

2011-02-08 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 2月 8日(火)08時02分11秒

>筆綾丸さん
1月30日にアマゾンに注文した『藤原鎌足、時空をかける―変身と再生の日本史』が何故かなかなか届かず、昨日やっと入手して読んでみました。
内容は概ね『中世肖像の文化史』をより一般的に読みやすくしたものですね。
珍しい事実の指摘の部分は参考になるのですが、フワフワしたイメージの連鎖にはついて行けないところも多く、『中世肖像の文化史』に感じたのと同様の不満を感じてしまいます。
筆綾丸さんご紹介の部分の直後に東九条荘・宇賀塚への言及がありますが、これは参考文献に載っている藤原重雄氏の「「本槐門・新槐門図序文」について-九条殿・宇賀塚・深草祭をめぐる説話と歴史-」(『朱』49、伏見稲荷大社、2006年)に基づくものですね。
『朱』には水準の高い論文がけっこう載っていますが、これも良い論文ですね。

宇賀塚
http://kamnavi.jp/yamasiro/ugauga.htm

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