投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 6月30日(月)00時28分34秒
今日、細谷千博氏の「ジョージ・サンソムと敗戦日本 一《知日派》外交官の軌跡」(『中央公論』1975年9月号)という論文を読んでみたのですが、サンソムは連合国の対日占領政策の形成において、非常に重要な役割を果たした人だったのですね。
「知日派外交官」という言葉から私が当初予想したような内容では全くありませんでしたが、細谷氏の分析の深さに驚きました。
http://en.wikipedia.org/wiki/George_Sansom
英語のウィキペディアにはサンソムについて若干の紹介がありますが、日本語版には立項すらされていないので、細谷氏の論文から少し引用してみます。
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サー・ジョージ・サンソムは、一八八三年十一月二十八日にイギリスのケントに生れ、一九〇四年、二十歳の若さで公使館の日本語研修生として来日、それから一九四〇年の夏まで、時おり本国に帰るほかは、青壮年期のほとんどを外交官として日本で過した。一九二三年からは大使館の商務参事官として経済問題を担当、一九三三年のシムラ(インド)での日印綿業会談には、イギリス代表として参加している。
この三十五年に及ぶ滞在経験は、サンソムを駐日イギリス大使館きっての日本通とする。この間、その日本への関心は政治、経済的事象から、さらに歴史、文化の深奥へと向けられていった。この点で、日本仏教史に造詣の深い、サー・チャールス・エリオット大使に仕えたこともひとつの機縁であった。卓抜した日本語の読解力にものをいわせて、厖大な文献を渉猟し、日本の過去を探る一方、奈良や京都にたびたび足を運んでは日本の伝統の美に接し、また能や陶芸の世界に身をいれて、日本文化への深い愛情を育てていったのである。
『日本文化小史』を一九三一年に出版したサンソムは、もはや一大使館員というより、西欧におけるすぐれた日本研究者としての存在を築いていた。日本学士院は一九三四年、彼を名誉会員に推薦する。
この頃から彼は、『西欧世界と日本』の執筆準備にとりかかる。そこで展開しようとしたモティーフは、西洋世界の衝撃をうけて、自己変容をとげてゆく日本の《近代化》の過程を、西欧史家の目によって明らかにすることであり、そこには伝統的な文化を保持しつつ、西欧文化の摂取と、これへの適応を鮮やかになしとげてゆく日本人の能力への敬愛の念がひそんでいた。
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>筆綾丸さん
>「久安四年夏法勝寺の塔上にして天狗詠歌の事」
この話は最近どこかで読んだな、と思って調べてみたら、先に紹介した中根千絵氏の「法勝寺蔵書と三昧僧─法勝寺伝承文化圏の再現を目指して─」(愛知県立大学国文学会『説林』2003.3)に載っていました。
中根氏の見解に多少の疑問もあるのですが、参考までに関係する部分だけ引用してみます。
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『台記』康治元年(一一四二)五月十五日条には、鳥羽院が頼長に次のようなことを語っている。故白河院の時、故少僧都観重が、法勝寺九重塔が崩れ、その跡に松の樹が生えたという夢を見た。これは吉事がある予兆であると思っていると、程経ずして白河院が崩御したという。この場合の法勝寺九重塔は白河院自身を象徴しており、松の樹は新たな王権の誕生を物語っていると見ることができる。長年、確執のあった鳥羽院側からすれば吉兆の夢ということになったのであろう。(中略)『古今著聞集』巻第十七(五九七)には、次のような説話が記されている。
久安四年夏法勝寺の塔上にして天狗詠歌の事
久安四年の夏の比、法勝寺の塔のうへに、夜ながめける歌、
われいなばたれ又こゝにかはりゐむあなさだめなの夢の枕や
天狗などの詠侍けるにや。
『台記』久安四年五月二十日条に、「丁丑、京師訛言、法勝寺九重塔、夜々歌云、ワレイナバ、タレマタコヽニ、カハリヰン、アナサダメナノ、クサノマクラヤ、」とあることから、この説話は当時の人々の噂から出来上がったものと考えられる。鳥羽院と頼長の交わした話からすれば、法勝寺九重塔は故白河院その人を象徴するものであるから、『台記』にあるように塔そのものが歌ったのだとすれば、この歌は故白河院の詠じた歌ということになろう。
今日、細谷千博氏の「ジョージ・サンソムと敗戦日本 一《知日派》外交官の軌跡」(『中央公論』1975年9月号)という論文を読んでみたのですが、サンソムは連合国の対日占領政策の形成において、非常に重要な役割を果たした人だったのですね。
「知日派外交官」という言葉から私が当初予想したような内容では全くありませんでしたが、細谷氏の分析の深さに驚きました。
http://en.wikipedia.org/wiki/George_Sansom
英語のウィキペディアにはサンソムについて若干の紹介がありますが、日本語版には立項すらされていないので、細谷氏の論文から少し引用してみます。
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サー・ジョージ・サンソムは、一八八三年十一月二十八日にイギリスのケントに生れ、一九〇四年、二十歳の若さで公使館の日本語研修生として来日、それから一九四〇年の夏まで、時おり本国に帰るほかは、青壮年期のほとんどを外交官として日本で過した。一九二三年からは大使館の商務参事官として経済問題を担当、一九三三年のシムラ(インド)での日印綿業会談には、イギリス代表として参加している。
この三十五年に及ぶ滞在経験は、サンソムを駐日イギリス大使館きっての日本通とする。この間、その日本への関心は政治、経済的事象から、さらに歴史、文化の深奥へと向けられていった。この点で、日本仏教史に造詣の深い、サー・チャールス・エリオット大使に仕えたこともひとつの機縁であった。卓抜した日本語の読解力にものをいわせて、厖大な文献を渉猟し、日本の過去を探る一方、奈良や京都にたびたび足を運んでは日本の伝統の美に接し、また能や陶芸の世界に身をいれて、日本文化への深い愛情を育てていったのである。
『日本文化小史』を一九三一年に出版したサンソムは、もはや一大使館員というより、西欧におけるすぐれた日本研究者としての存在を築いていた。日本学士院は一九三四年、彼を名誉会員に推薦する。
この頃から彼は、『西欧世界と日本』の執筆準備にとりかかる。そこで展開しようとしたモティーフは、西洋世界の衝撃をうけて、自己変容をとげてゆく日本の《近代化》の過程を、西欧史家の目によって明らかにすることであり、そこには伝統的な文化を保持しつつ、西欧文化の摂取と、これへの適応を鮮やかになしとげてゆく日本人の能力への敬愛の念がひそんでいた。
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>筆綾丸さん
>「久安四年夏法勝寺の塔上にして天狗詠歌の事」
この話は最近どこかで読んだな、と思って調べてみたら、先に紹介した中根千絵氏の「法勝寺蔵書と三昧僧─法勝寺伝承文化圏の再現を目指して─」(愛知県立大学国文学会『説林』2003.3)に載っていました。
中根氏の見解に多少の疑問もあるのですが、参考までに関係する部分だけ引用してみます。
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『台記』康治元年(一一四二)五月十五日条には、鳥羽院が頼長に次のようなことを語っている。故白河院の時、故少僧都観重が、法勝寺九重塔が崩れ、その跡に松の樹が生えたという夢を見た。これは吉事がある予兆であると思っていると、程経ずして白河院が崩御したという。この場合の法勝寺九重塔は白河院自身を象徴しており、松の樹は新たな王権の誕生を物語っていると見ることができる。長年、確執のあった鳥羽院側からすれば吉兆の夢ということになったのであろう。(中略)『古今著聞集』巻第十七(五九七)には、次のような説話が記されている。
久安四年夏法勝寺の塔上にして天狗詠歌の事
久安四年の夏の比、法勝寺の塔のうへに、夜ながめける歌、
われいなばたれ又こゝにかはりゐむあなさだめなの夢の枕や
天狗などの詠侍けるにや。
『台記』久安四年五月二十日条に、「丁丑、京師訛言、法勝寺九重塔、夜々歌云、ワレイナバ、タレマタコヽニ、カハリヰン、アナサダメナノ、クサノマクラヤ、」とあることから、この説話は当時の人々の噂から出来上がったものと考えられる。鳥羽院と頼長の交わした話からすれば、法勝寺九重塔は故白河院その人を象徴するものであるから、『台記』にあるように塔そのものが歌ったのだとすれば、この歌は故白河院の詠じた歌ということになろう。