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『日本辺境論』をこえて(5)「師」を超えてしまったら

2012年03月02日 | coolJapan関連本のレビュー
◆内田樹『日本辺境論 (新潮新書)

上山春平も指摘している(『論集・日本文化〈1〉日本文化の構造 (1972年) (講談社現代新書)』)が、数百年のサイクルではなくもっと短い波を読み取ることもできる。たとえば開国から明治20年ごろまではひたすら西欧文化を取り入れる時期だったが、その後明治40年頃までは、内面化の傾向と伝統文化の再評価が見られる。寺子屋は明治の初めにはすっかりさびれたが、20年頃には復活し漢籍が教えられたという。この頃、硯友社は西鶴など江戸文学をモデルにした。

日露戦争後、明治40年頃からは再び外へ向かうようになり、ゾラやフローベールに学んだ自然主義文学運動、後期印象派の絵画の人気など、西欧文化がもてはやされた。昭和初期頃からは再びナショナルな方向に向かい、それは「大東亜戦争」で極点に至る。そして戦後は、再び、今度はアメリカを中心とした欧米文明を取り入れ始める。

戦後も同じような20年毎の波が繰り返されているとは必ずしも言えないだろうが、はっきりしているのは外向きだった戦後の大きな流れが、近年、内向きに変化し始めているということだ。戦後の日本は、敗戦にいたるまでの日本の過去を否定し、アメリカを中心とした欧米の強い影響下で新しい日本を築こうとした。そうした外向きの流れが、今再び内向きに転じつつある。それが、若者の伝統志向や日本回帰という現象にもはっきりと現れている。

一方で、このような戦後のサイクルは、より大きなサイクルと重なりながら同じ方向に動いている。それが、明治以来の西洋文明志向からの転換というサイクルなのだ。このサイクルは、かつての日本が中国文明の取り入れから脱して、平安の国風文化から鎌倉仏教へと独自の文化を開花させていったサイクルと対比することができる。

なぜ今がそのような時代の大きな曲がり角だと言えるのか。いくつかの根拠を挙げてみよう。

1)明治維新前後から百数十年、日本はひたすら西欧の文明に学び、それによって近代の日本を建設しようとした。そうした日本の姿勢は、時々内向きになる小さな波はあったにせよ、大きな流れとしては変わらなかった。日本に比べて欧米は、あらゆる分野で圧倒的に優位に立っていて、そこから学ぶことなくして日本の生き残りと発展はないと思われたからである。

そのような状況で外部から学ぶとき日本人は、自らの過去全体を激しく否定する性向がある。自分たちの伝統を末梢してしまうことで、新しいものを受け入れ易くするのだともいえる。良し悪しは別として、それが日本の近代化のエネルギーになったのは確かだろう。

ところが現在、科学技術力、経済力、社会制度、文化などどれにおいても、欧米と日本で圧倒的に差のある分野はなく、個々の分野では日本が優位にたつ場合も多い。「師」の域に少しでも近づきたいと必死に学んでいた「弟子」が、いつの間にか「師」と肩を並べ、一部では「師」を超えてしまった。にもかかわらず、相変わらず自分はまだだめだと思い込み、もはやどこにもいない「師」の幻影をもとめて「ふらふらきょろきょろ」している。それが、今も続く日本の姿なのだろう。

ところが、「もう外に師を求めても無駄なのだ。師はもう、どこを探したって見つからない。だとすれば、自分の内側に立ち返って、そこから新たなものを作り出していくほかないのだ」と気づいた人々がいる。それが、今の若者たちの世代だ。もちろん彼らは、そのような明確な意図を自覚していないかもしれない。しかし少なくとも彼らは、文明の「保証人」を外部にもとめ続ける「呪縛」から解放されている。

かつて何度も日本回帰の波は繰り返されたが、それは欧米文明の過度の崇拝に対する反動という側面があった。欧米崇拝も日本回帰も、圧倒的な欧米文明を前にしての、同じコンプレックスの両極端の表れであった。しかし今の若者たちはもう、欧米の文明へのコンプレックスにほとんど囚われていない。日本が、多くの分野で欧米と肩を並べ、一部欧米を超える時代に育った彼らは、団塊の世代のような欧米への劣等感から、すでに解放されている。

だから欧米崇拝や劣等感の裏返しとしての伝統回帰ではなく、もう外に「師」を求め続けることが無意味な状況になったから、自分たちの内側からあらたな価値を生み出していくほかないと、直感的に分かってしまう世代が出現したのである。こういう世代の出現は、おそらく明治以来初めてのことである。こういう変化に匹敵する変化を過去に求めるとすれば、あの圧倒的な唐文明の「呪縛」から徐々に開放されていった、9世紀から16世紀の時代しかないであろう。

《関連図書》
欲しがらない若者たち(日経プレミアシリーズ)
ニッポン若者論 よさこい、キャバクラ、地元志向 (ちくま文庫)
論集・日本文化〈1〉日本文化の構造 (1972年) (講談社現代新書)

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クールジャパンに関連する本02
  (『欲しがらない若者たち(日経プレミアシリーズ)』の短評を掲載している。)

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2 コメント

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Unknown (名無し)
2012-03-03 09:16:10
面白かったです。若者の意識変化は、バブルの崩壊以降、ずっと続く日本社会の閉塞感に対するものと認識しております。その閉塞感を打破するために、戦後は外国にその答えを求めたものでしたが、今日では外にその答えが見当たらないため、物置の中を漁り始めたってところでしょうか。
 ところで社会が閉塞状況に陥ると、偏狭なナショナリズムが蔓延ります。第一次大戦後のナチスや東西ドイツ統合後のネオナチが代表的ですよね。貴方の今回主張する「短いサイクル」とは「経済不況に伴うナショナリズムの蔓延」と同じサイクルを示しているのではないでしょうか。そして現在の日本の若者の意識変化もこれに対応したものだと思います。
これからグローバリゼーションを推し進めようとしている中、貴方の主張のように日本が文化を発信する側に立てればいいなあと思いますが、貴方のいうところの長周期の波も来ているという証拠(具体的な論拠となる材料)が欲しいところです。無茶苦茶書いてすいません。
充分な論拠となるか (cooljapan)
2012-03-03 11:23:20
名無しさん、

充分な論拠となるかどうか分かりませんが、次回「日本が文化を発信する側に立ち」始めている例を挙げながら、考えていく予定です。

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