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日本人の強さと弱さ(2)

2012年07月04日 | coolJapan関連本のレビュー
◆『日本人の心はなぜ強かったのか (PHP新書)

齋藤は、さきの敗戦こそ日本人が心と精神と身体のバランスを崩したターニングポイントだという。戦後、日本人は精神という言葉に強いアレルギーを持つようになった。それは、軍国主義に少しでも結びつくものは排除しようとするGHQの政策とも深く結びついていた。たとえば武道が日本人の強い精神の柱になっていると考えたアメリカは、武道とその精神を徹底的に潰しにかかった。そうしたアメリカの意向を日本人自身が喜んで受け入れた面もある。

また、戦前の日本人の精神性を圧倒的に担っていたのは儒教だっという。戦前の教育の柱とされた「教育勅語」にも「父母に孝に、兄弟に優に、夫婦相和し、朋友相信じ‥‥」など、儒教的道徳観が盛り込まれていた。過度に神聖視され国家主義体制のために利用されたが、内容的には道徳心を説いた部分が多い。ところが戦後になると、過去の「忌わしい記憶」として全面的に排除され、これに限らず日本古来の「精神」はおしなべて国家主義と批判された。

しかし、言うまでもなく儒教的精神そのものが好戦的でナショナリズムに結びつくわけではない。儒教的道徳心が浸透していた江戸時代が軍国主義だったわけでもない。江戸時代の子どもたちは寺小屋で『論語』を素読し、その精神を感じ取っていた。が戦後は、素読自体が頭ごなしの非民主的な教育とされた。『論語』を中心とする儒教教育全体を捨てたことは、精神の半分以上を捨てたことになり、儒教教育の喪失は日本人にとってマイナス面の方が大きかったと齋藤はいう。

儒教や武術のように古来から精神の形成に一定の役割を果たしてきたものを禁じられると、その結果、個人の感情や気分が一気に肥大化する。共有できる精神を持たない民族は弱い。それが露わになったのが、経済成長が一段落した1970年以降だという。戦前の教育を知らない世代は、精神や身体といった土台が緩んでしまい、その分、心が膨らんでしまった。日本人は概しておとなしく、不安定な心を抱えるようになったというのである。

ここまで読んで読者はどのように感じられるだろうか。私は、日本人が共有できる古来の精神を復活させることが肝要だという齋藤の主張に共感する。しかし同時に「ではなぜあのようなことがありえたのか?」という疑問が生じた。前回このブログでも触れたように、東北大震災の際に日本人が見せた忍耐強さや落ち着きやいたわり合いの精神は、戦前から、いやもっと古い時代から日本人に受け継がれてきたものではないのか。確かに戦後失われた、共有の精神もあるだろうが、連綿と受け継がれ、少しも損なわれていない日本人の精神もあるのではないか。私は、失われずに受け継がれている日本人の精神の方に、より強く関心が向かう。このブログでもそのような面を強調してきた。

では、失われたものと受け継がれたものとの違いとは何なのか。これはかなり重要な問いだと思う。齋藤の本に刺激されて私の中で生まれたのはこの問いであった。その違いは日本文化の中の母性原理の部分と父性原理の部分に深く関係していると思う。

GHQの政策によってかんたんに失われてしまう精神とは何だったのか。戦後日本人が失ったという武道精神にしても、儒教精神にしても、日本の長い歴史の中では、比較的新しい時期に成立したものである。たとえば剣道は、15世紀後半の室町後期に成立した「神道流(新当流)」「陰流」「中条流」の三源流が、江戸時代には200余流まで分かれ、また、禅仏教や儒教の影響を受けて武士の精神修養の道ともなったものだ。また、『論語』を中心とする儒教の精神が庶民にも学ばれるようになったのは、寺子屋が爆発的に増加した江戸時代の後半だろう。それらは、日本文化の層でいえば、比較的新しい層、上層に属するものである。だからこそ、GHQの政策によって忘れてしまうこともできたのである。

しかし、日本人がはるか縄文時代から受け継いできた古い層は、GHQの政策ぐらいで潰されるものではない。その古い層とは何か。もちろんこのブログでこれまでずっと考察してきた「日本文化のユニークさ」7項目にかかわるものである。日本人はそれをほとんど無自覚のうちに生きているので、武道精神や儒教精神のように「これがその精神だ」とは自覚しにくい。自覚的にその「精神」を生きるといことはしにくい。しかし、日本人の心の中には確実にそれが生きており、危機的な状況下では日本人の強さとして表面ににあらわれるのである。

「日本文化のユニークさ」7項目は、縄文時代以来の豊かな自然に育まれた母性原理的な「精神」である。それは、精神というにはあまりに自覚しにくく、だからこそ逆にそうかんたんには消えない。日本人が日本人であることの底流を形づくってきたし、今の日本人の心にも底流として流れている。

これに対して武士道精神や儒教精神は、日本文化の底流を土台としながらも、大陸文化の強い影響下で出現した。そしてどちらかといえば父性原理的な「精神」であり、江戸幕藩体制の中で日本人の心に定着していった比較的新しい「精神」である。だから外圧によってその伝統を断ち切ろうとすれば、ある程度可能だったのである。

もちろん、自覚的にそれを生きることができるような江戸時代以来の「精神」を復活させることは、心が肥大化してしまった現代日本人にとって充分に意味のあることだろう。母性原理と父性原理とのバランスをとるという意味でも、それは必要なことかもしれない。しかし同時に、私たちの心の中には、縄文時代以来、断絶せずに底流としてながれている「精神」もあるのだというこを自覚化する努力も欠かすことはできない。無自覚にそれを生きるのではなく、日本人に共有される「精神」として自覚的に生きるならば、それは日本人にとって本当の強さとなるであろう。

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4 コメント

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Unknown (名無し)
2012-07-05 07:55:22
無自覚に身に付いている縄文以来の精神を「自覚」することにより、どのような効用を見込んでいるのでしょうか?
Unknown (pk)
2012-07-05 14:11:17
日本は儒教ではなく儒学だと思うね。
儒教は韓国とか中国。
中国は共産主義でいくらか薄まってるけどね。
儒教は価値観だけではなく社会構造にまで関わってる。
絶対的男系血族共同体とかね。
日本は男女双系非血族共同体だし、婿養子、いとこ婚も普通だが、中韓ではまず有り得ない。
次回のブログで (cooljapan)
2012-07-05 15:08:15
名無しさんへ

次回のブログでご質問に関係のあることに少し触れることになると思いますので、そちらをお読みください。
儒教と儒学 (cooljapan)
2012-07-05 15:15:51
pkさんへ

齋藤孝が儒教という言葉を使っているのでそのまま使いましたが、pkさんのような区別をするなら、儒学ということで儒教と区別するのもよいと思います。中国、韓国の「宗族」社会の基礎となった儒教は日本に入ってこなかったのは確かでしょうから。

齋藤自身は、それを自覚しつつあえて儒教という言葉を使っているのだとは思いますが。

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