エッセー

技術屋のエッセーもどきです。よろしくお願いいたします。

庭の雑草と幻想

2017-12-09 11:17:44 | 読書

  我が家のささやかな庭にも雑草だけはよく生える。何の見栄えもしない庭だが今年は少し変わって見える。      
 主なわけは「植物はすごい、」「雑草のはなし」や「昆虫はすごい」など生物学の新書を10冊ほど読んで、にわか生物ファンになってしまったからだ。庭は変わらないが見る目が変わった。       

▼ 雑草の名前
 雨上がりに一斉に伸びてくる雑草をみると憎たらしいが、よく見ると小さいながらかわいい花をつけている。以前から庭の草取りをしながら生命力の強さに感心すると同時にその名前を知りたかった。一番多い雑草の名前をその道に詳しそうな何人かの人にきいたが「あ、それイネ科の草だね」といわれるだけだった。今年、田中修の「雑草のはなし」を読んで、私の知りたかった草の名前はノシバ、コウライシバ、ヒシバなどらしいことがようやく分かった。            

 昭和天皇は侍従に「雑草という植物名はない。それぞれちゃんとした名前があると」言われたそうだが、お人柄が偲ばれる良い話だ。
  そういえば2014年4月19日の「天声人語」に、夏目漱石は田んぼの稲をみて、その実が米なのだとは知らなかったという話と、ハキダメギクという雑草をかばう短歌の話が載っていた。考えてみれば雑草という呼び方は確かに人間の自分勝手であり、傲慢なことだ。

▼ タンポポの生命力
 雑草の中ではやはりタンポポが目立つ。一つの花に約200個のタネがつき約3か月毎に再生するので、庭に数個のタンポポが咲いているのを放っておくと数ヶ月もたてば数万個に増える勘定になる。 タネの数の多さもさることながらタンポポは周りの草や花の状況に合わせて、ときに地面に平たくロゼット状に、ときにはまとわりつく様に直立して育つ。タンポポはむしってもトカゲのしっぽ切りと同じく根っこは残る。実にしたたかに、自由自在に環境に適応している。脳のない植物がなぜこんな「知恵」を持っているのかと不思議に思う。 ふだん何気なく見ている 雑草にも考えてみると生命力のすごさや神秘性を感じる。

 少し飛躍するが先に述べた「生物」関係の新書でもっともインパクトが強かったのは生命の連続性と多様性に関する次の二点だった。                

▼ 「生死」は進化のためのリセット                                       稲垣英洋氏は著書「植物はなぜ動かないのか」の中で「生命は老いていき、死ぬようにプログラムされている」という。「死は細胞分裂のリセットであり、生物は死と再生を繰り返し命をリレーしていく仕組みを進化の過程で自ら創り出した」と説明している。                                人間を含め生物は永遠に存在するために「死」と「再生」という仕組みを作り出したのであって、死は進化のためのリセットである、という。確かに不老不死だと進化の機会もないことになる。分かりきったことのようにも思えるが識者からはっきり言われないと認めたくない真実でもある。
  新聞の読書案内からの孫引きになるが、小林武彦氏の著書「寿命はなぜ決まっているのか」でも同じように表現している。「生物は若返りという『技』を獲得して38億年も継続しています。ここで言う『若返り』とは個人が若返るのではなく、リセットによって生命の連続性を維持することです」といっている。
                                                          「ゾウの時間ネズミの時間」の名著で知られる本川達雄氏は別の著書「生物学的文明論」の中で、聖書の言葉、「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」を引用して、「長生きばかりがいいわけじゃない」という。キリストの言葉も現代の科学者が言うと、また違った意味で説得力があると思った。
             
▼ 進化のための「雌雄」                
   田中修氏は著書「植物はすごい(七不思議篇)」で、生物の雌雄は、DNA組み合わせによって性質の多様性を確保し、環境変化に適応して進化する仕組みなのだという。                                     いわれてみればクローン生物は進化しないだろうし、環境変化でいっぺんに絶滅する可能性がある。生物、つまり人間もだが、雌雄の仕組みで生き延び、進化するという説明は納得できる。
                                       
▼ 人間は進化をやめた生物という妄想          
  一連の生物関係新書を読んだり、庭の草取りをしなから、ふと思ったのは人間は生物的進化をやめた生物なのか?ということだ。
  人間は体毛の代わりに住居を造って寒暖を防ぎ、食は狩猟採集から牧畜と農業に変わり、火と道具と言葉を使うことを覚えて文明を創造した。
   植物も動物も環境に適応して進化しているのに、人間は自然環境を変え、コントロールし、時には征服しようとしている。人間は工業化、機械化、自動化で肉体労働から解放されつつあり、人工知能(AI)の急速な進歩で知的労働からも解放されようとしている。見方を変えれば人間は生物的進化を必要としない方向へ進んでいるのではないかという思いがする。

  私は信仰心が無くて,ときどき宗教について不遜な空想をすることがある。あえて言えば「あの世(天国・極楽・地獄)」は、地球が丸いことを知らず、太陽は地球を廻っていると思い込んでいた昔の人が作り出したバーチャル(虚構)想念なのだと思うことがある。
  おまけに、疑い深くて無知なためか、生物の歴史的変化を「進化論」だけで説明できるものなのだろうかといつも疑問に思っている。          
 言い換えれば古い世界観や神概念を超絶する何かがあるのではないかという、漠然とした空想というか妄想というべきかもしれない思いがするのである。       
                      
▼ 夢    
 去年はプランターに雑草を集めてみたが、家人の反対にあってあっけなく撤去させられた。来年こそ 雑草とは言わず「名知らず草花」のプランターを復活させるか、庭の片隅に「名知らず花草」占有エリアを作ろうと考えている。
 実現性は低いが良質のファンタジー(夢)だと思う。                    
                                                  (2017/12/09)


コメントを投稿