最近ちょっとた変わった表題の本を見つけた。 この本は人類学者デヴィッド・グレーバーの「ブルシット・ジョブ - クソどうでもいい仕事の理論」の紹介本だという。 著者が櫻井隆史、表題は「ブルシット・ジョブの謎」副題が「クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか」である。 「ブル・シット」は直訳すれば「牡牛の糞」だが、「えーい、くそったれ!」といった感じの俗語である。ちょっと汚い言葉でふざけているような感じだが 実はコロナ禍で有名になったエッセンシャルワーク(必要不可欠の仕事)の対義語として使うこともある言葉だという。 帯封には「仕事とは何か?」「資本主義の効率化が進めば進むほど無意味な仕事が生まれる」などと、働く者なら誰でも気になる惹き句がある。 ▼ ブルシット・ジョブ(BSJ)の定義 グレーバーの原著に書かれているブルシット・ジョブの「最終的作業定義」は、「Bullshit Jobs(BSJ)とは被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、有害でさえある有償の雇用の形態である」 となっている。 少し乱暴だが櫻井隆史の説明を参考にして更に圧縮すれば「無意味で不必要で有害ですらある仕事、しかも当人もそう感じている仕事」となろうか。 ▼ブルシット・ジョブ(BSJ)の例 グレーバーは5種類のブルシット・ジョブ(無意味な仕事)例を提示している。 ① 取り巻き 受付係、管理アシスタント、ドアアテンダント ② 脅し屋 ロビイスト、顧問弁護士、テレマーケティング業者、 広報スペシャリスト など ③ 尻ぬぐい プログラマー、航空会社のデスクスタッフなど ④ 書類穴埋め人 調査管理者、社内の雑誌ジャーナリスト、企業コンプライ アンス担当者など。 ⑤ タスクマスター 中間管理職など。 詳細は割愛するが、よく考えてみると意外に無意味な内容の仕事はあるものだと思い当たる。 なおイギリスのある調査によれば、37%の人が「自分の仕事は、世の中に意味のある貢献ををしていない」と回答している。オランダでは同じ調査の結果が40%だという。自分の仕事の三分の一以上が無意味だという認識にはやはり考えさせられる。 ▼思い当たる身近な「BSJ」例 *自分の経験、初めて火発建設要員になったとき 1954年、S火力発電所建設要員となったとき自分の役割、立ち位置がよく理解できなかった。大げさに言えば自らの「存在理由」とそもそも「仕事とは何か」に悩んだ。結局所長に質問した。所長は「君らの仕事の肩書きは監督となっているが、実際はメーカーや工事会社との連絡係だ」という。一応納得したが、以来約20年に亘る建設工事従事中、漠然とした不安感が合った。いつも忙しくて、第一線にいる自己満足感と自己肯定感がある一方、本当に役に立つ仕事をしているのだろうかといった疑問を感じていた。 *官公庁や大企業に勤めている人はBSJを見聞きすることが多いはずである。お役所仕事といわれる能率の悪さもブルシットジョブ(無意味な、あるいは不要不急な仕事)が一因といわれている。 気を付けてみると、何をやっているのか分からない、なんとか機構の役員さんなど、身の回りには意外とBSJの実例が多い。 更に要注意なのはBSJを自覚できない人がいることだ。自分では役立つ仕事をしているつもりなのだ。
* 蛇足になるが大きな事故が起きたとき、直接関係者ではない人達で現場が溢れることがある。いわゆる立ちんぼである。立ちんぼはブルシットの典型ではないだろうか、私はそんな現場を何度も経験した。 ある事故現場の修復作業で一人の溶接作業員のまわりに十人近い立ち会い者がいたケースもある。孫請け、下請け、元請け、発注会社それぞれの安全担当者、工事責任者などである。実質的な仕事のない見かけ要員である。このようなBSJの光景はよく見る。 ある医療事故では再発防止のため確認者の増員、監督徹底など管理強化を図った。しかし効果は限定的であった。ところが同じような医療事故がアメリカでも起こった。アメリカの病院ではコンピューターによる監視管理システムを構築して人間の仕事量を減らした。この結果劇的に改善されたという。似たような話はよくあるがマン・マシーンステムの理解度に加えて精神主義と論理主義の違いである。 グレーバーによれば 「自動化」が進展しても仕事がなくならないのはBSJが増えているからだ」という。鋭い指摘だ。 この伝でいけば「働き方改革などの合理化を進めても生産性が上がらないのは、BSJが増えているのも一因だ」といえるのではないだろうか。 ▼働く形の大転換期 AI(人工知能)革命で「働く形」の大転換期になるといわれている。第一波はAIの普及で大量の失業が予想され、対策としてベーシックインカム論(BI)が浮上している。 AI(人工知能)、BSJ(無意味な仕事)、BI(ベーシックインカム)、これらのシステム要因が複雑に絡み合う近未来の職場風景はどんなものだろう。 1990年代のコンピュートピア(コンピューター+ユートピア)論を思い出す。この楽観論はあえなく潰えたが AI革命もこの二の舞にならないだろうかと疑っている。 超高齢者の私には想像困難な科学技術のカオスだが若い人達には迫り来る現実だ。無責任で申し訳ないが、大変だろうなと思う。 (20022/05/17)