去年の春頃、新聞で、瀬川氏のアイヌ研究が「日本史」の優秀研究賞を受賞したという記事を目にしました。
その後、昨秋、新聞に署名記事を見つけましたので、読んでみました。
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「アイヌ交易 北東アジアにも」 瀬川拓郎
読売新聞 2016・10・19
狩猟採集の暮らしに閉じこもり、時代の変化に取り残された人々・・多くの日本人が漠然と持つ、このアイヌのイメージは、考古学によって大きく変わりつつある。
生息する動物の種類が大きく変わる境界が「プラキストン線」として知られるように、北海道にはヒグマやエゾシカなど大型獣が豊富で、良質な毛皮をもつ中小型獣も多い。
トドやアザラシなど海獣類の回遊も、北海道近海がほぼ南限にあたる。
さらに今の季節、大量のサケが川面を黒く染めて遡上する。
北海道は、南に張り出した北の生態系、日本列島における北東アジア的世界だ。
古人骨のコラーゲンによる食生態の分析では、北海道縄文人は肉食主体、本州縄文人は植物食主体とされる。
北海道では縄文時代以降も、肉食と毛皮利用のいわば「旧石器的生産体系」が展開してきた。
その基盤となったのが、北海道の北東アジア的生態系なのだ。
狩猟採集に踏みとどまったにもかかわらず、北海道の遺跡からは異文化の産物が多く出土する。
弥生時代の南島産貝製品、古墳・奈良時代の刀、平安時代の銅椀や鏡、鎌倉時代以降の漆器、サハリンの琥珀玉、大陸のガラス玉などだ。
平安時代の集落跡である厚真町ニイタップナイ遺跡では、アムール川下流域バクロフカ文化の鉄属が出土し、注目を集めた。
おそらく大陸の弓・矢・矢筒のセットが、珍奇な宝として流通していたのだろう。
本州の庶民など到底手にできないこれらの産物を、北海道の人々は陸海獣の毛皮などによって入手した。
彼らが農耕を受け入れなかったのは、旧石器的生業体系という「後進性」を優位性に転換する、交易狩猟民の道を「選択」したからではないか?
ロシアの考古学研究者は、アイヌが11世紀以降、サハリン南部、千島、カムチャツカへ進出していった事実を明らかにしてきた。
中国の史料によれば、サハリンに進出したアイヌは、13世紀には大陸の先住民の村々を襲って略奪を働き、北東アジアに政治的影響力を及ぼす大モンゴルと戦争を繰り広げた。
北東アジアに進出し、交易を拡大していったアイヌは、バイキングともいえる存在だったのだ。
ただし北海道は、基本的に本州の流通圏の中にあった。
それは日本の強い求心性だけでは説明できない。
というのも、その事実は、
●北東アジア的世界の北海道が、なぜ日本列島の縄文文化圏に含まれたのか?
●生態系で北海道と共通する一衣帯水のサハリンが、なぜ縄文文化圏に含まれなかったのか?
という、日本国成立以前の問題とも関わっているからだ。
北海道は、道東太平洋沿岸を除いて、東シナ海から日本海を北上する対馬海流に取り囲まれている。
海流と海上交通から見た北海道は、南の生態系に組み込まれた世界だ。
北海道が縄文文化圏に含まれ、その後も日本の流通圏となっていた理由はそこにある。
日本と北東アジアの間で、アイヌはどちらにも帰属しない「あわい」の存在として生きてきた。
彼らを理解する手がかりは、北と南の生態系が重なり合う、北海道という「あわい」の世界にある。
南に目を転じれば、亜熱帯の生態系を持ちながら、海流によって日本列島に組み込まれた沖縄もまた「あわい」の世界だ。
沖縄の人々も交易を生業とし、近代になるまで日本と中国いずれにも属さない「あわい」の存在として生きてきた。
アイヌと沖縄人は、縄文人の遺伝子的特徴を強くもつという。
彼らの独自の歩みは、日本列島の「あわい」に生きた縄文人の「選択」だった、と言えるのではないか。
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(引用ここまで)
静的なイメージがつよいアイヌ民族ですが、最近は、このような研究が多く見られるように思います。
次回は、瀬川氏の文章をもう少し読み込んでいきたいと思います。
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