こんな風に、人の言動が殆ど正反対に近いくらいまで変わり得ること、つまり、人の言動が必ずしも論理的に一貫しておらず時には矛盾して見えることは、誰もが経験していることだろう。
これに対し、一般的に言えば、法曹は職業柄「論理的一貫性」を重視する人種なので、矛盾した言動は見せないと考えられているかもしれない。
だが、おそらくこれは正しくない。
よく引き合いに出されるのは、もともと「共謀共同正犯」否定論者の筆頭と目されていた團藤重光先生が行なった、肯定説への”転向”である。
「わたくしは、もともと共謀共同正犯の判例に対して強い否定的態度をとつていた (団藤・刑法綱要総論・初版・三〇二頁以下)。しかし、社会事象の実態に即してみるときは、実務が共謀共同正犯の考え方に固執していることにも、すくなくとも一定の限度において、それなりの理由がある。(中略)
むしろ、共謀共同正犯を正当な限度において是認するとともに、その適用が行きすぎにならないように引き締めて行くことこそが、われわれのとるべき途ではないかと考える。」
團藤先生に限らず、こういう風に「説を変える」(転向する)ことは、裁判官にとっては日常のことらしい。
ロースクール時代、民事裁判の教官(前高裁長官)がこんなことをおっしゃっていた。
「合議は『乗り降り自由』。かつ、『さっきあなたはこう言ってたじゃないか!』などと言って責めるのは禁止」
合議を行う裁判官の間においては、「説を変える」ことは自由であり(そうしないと合議の意味が乏しくなる)、しかも変える理由は深く問われない。
こんな場面で論理的一貫性を問うていたら、仕事にならないのである。
結局のところ、人の言動が変わることは当たり前の現象であり、それをいちいち正当化する必要もないということのようである。
もっとも、この考えを突き進めていくと、「私」の同一性をその言動の一貫性ないし傾向によって基礎づけることは無理であり、さらには「私」という「主体」の存在すら怪しくなってくるかもしれない。
そういう時は、(いったんは私も否定した)小倉紀蔵先生の「人間」に関するテーゼ:「人間とは(一つの「主体」ではなく)知覚像の束である」(道具概念vs.道具概念(6))に”乗って”みたくなるのである。
だって、おそらく哲学の世界でも、(お叱りを受けるかもしれないが、)説については”乗り降り自由”なのだろうから。