「少年の名はカール・チェルニー、当時10歳になるかならないか。ピアニストとしてサロンを荒らし回っていたベートーヴェンの噂を聞きつけ、すっかり大ファンになってしまった少年は、父親に連れられて彼のもとを訪ねます。若者の指導にはあまり興味のないベートーヴェンでしたが、少年の才能を認めて入門を許可。レガート奏法をはじめとする最新技術を教え込みました。
当時のベートーヴェンはすでに耳の病に悩まされていました。そんな時期に弟子を取ったのは、自らのピアニストとしての将来について思うところがあったからでしょうか。彼の予感は当たります。『ピアノ協奏曲第4番』までは自力で演奏をやり遂げましたが、『第5番「皇帝」』をウィーンで初お披露目する際には、ついに演奏を自分以外のピアニストに譲る決断をします。そのとき白羽の矢が立ったのが、20歳の青年になっていたチェルニーでした。」
当時のベートーヴェンはすでに耳の病に悩まされていました。そんな時期に弟子を取ったのは、自らのピアニストとしての将来について思うところがあったからでしょうか。彼の予感は当たります。『ピアノ協奏曲第4番』までは自力で演奏をやり遂げましたが、『第5番「皇帝」』をウィーンで初お披露目する際には、ついに演奏を自分以外のピアニストに譲る決断をします。そのとき白羽の矢が立ったのが、20歳の青年になっていたチェルニーでした。」
ベートーヴェンは本来弟子を取らないタイプの音楽家で、一番弟子とも言うべきチェルニーの弟子入りを許したのには、「ピアニストとしての後継者」を確保したいという思いがあったからのようだ。
「皇帝」は「もう自分では弾けない」という理由から、演奏者のために予めカデンツァを作曲していたわけである。
ベートーヴェンの(ピアニストとしての)「弟子」はチェルニーとフェルディナント・リースくらいしかいないのに対して、「後継者」を自称する音楽家は結構多く、その中でブラームスは筆頭に挙げられる。
彼が生まれた1833年、ベートーヴェンは既に亡くなっており(1827年)、二人が会ったことはない。
だが、彼は12歳のときベートーヴェンのバイオリン協奏曲に感銘を受けて作曲を始めたと言われており、その後ベートーヴェンに傾倒していったらしい。
ブラームスが43歳のとき「誰のまねでもない自分の音楽だ」と胸を張って完成させた交響曲第1番を初めて聴く人は、必ずや随所にベートーヴェンのエコーを感じるはずである(パクリ上等で、ベートーヴェンの絶対音楽の継承者に)。
他方、リストは、チェルニーの弟子なので、ピアニストとしてはベートーベンの孫弟子にあたる上、幼い頃ベートーヴェンに会い、その未来を嘱望されたという”伝説”があるらしい。
当然のことながら、リストはベートーヴェンの熱烈な崇拝者だった。
リスト:《ボンのベートーヴェンカンタータ》によるピアノ小品
ベートーヴェン(リスト編):交響曲 第9番 op.125 より 第4楽章
リストは、ベートーヴェンの故郷ボンに記念像が建立されるにあたり、資金集めに奔走した上、「ボンのベートーヴェン・カンタータ」を作曲した。
それだけでなく、彼は、ベートーヴェンの全交響曲をピアノ独奏用に編曲し、さらに「第九」については、独奏用(1865年)に先立って2台ピアノ用(1851年)を編曲している。
昨年12月の清水さん✖高木さんによる連弾(4000万円の響き)から約3か月後、今度は、秋元孝介さん✖實川風さんによる「第9」の連弾が上演された。
もちろん、今回も終演後はスタンディング・オベーションの嵐となった。