「へンくつ日記」

日常や社会全般の時事。
そして個人的思考のアレコレを
笑える話に…なるべく

日本人が「政治と宗教を語らない」理由

2012年05月29日 01時37分08秒 | Weblog
 
仕事の後、とある酒場で食事をしていた時、若い男性
客たちの談笑が耳に入った

「俺は結婚したら朝晩の勤行(祈り)は女房に任せる」
「そりゃいい! 俺もそうしよう」
「だったら皆、早く結婚しなければな!」

青年たちは何処かの宗教団体の信者仲間なのであろう
信者が行う朝晩の読経が面倒なので、自分の代わりに
伴侶にやらせようという話で盛り上がっていた

それを聞いて僕は、いかにも日本人らしいと思ったの
だ。殆どの日本人の信仰といえば、お経を読むなどの
実践は行なわず、僧侶や神主などの“プロ”の代理人に
布施や賽銭を払い、神や仏に祈って貰うのが通常だ
そして信者は、それによるご利益を「頂戴する」とい
うのが「信仰」と思い込み、それがDNAに染み付い
ている。だから、祈りなどの実践が他人任せでも、全
く疑問を持たないのだ。そんな下地が日本にあるため
か、宗教団体の信者である先の青年たちでも、(冗談半
分だろうが)宗教の最も根幹である“祈り”を「女房」
に任せることに、さほど抵抗が無いようなのだが、それ
は宗教人としては堕落に他ならない

キリスト教やイスラム教などのユダヤ系宗教の信者か
らすると考えられない、この「祈りの他人任せ」は
何故に日本人に定着してしまったのか…


社会主義国を除く多くの国では、それほど親しくない
人間同士でも宗教の話をするのは失礼にならず、批判
ではない建設的な話は歓迎される。宗教の話をわざと
避ける人間に対しては、「人には言えない良からぬ邪
教を信じているのか」と、逆に警戒心を持たれるくら
いだ。因みに、ユダヤ系宗教の信者に「自分は無宗教」
と告げると心底驚かれる。彼らにとって「宗教」は精
神の支柱。その支柱が無いのは、人間としての裏打ち
が無い、精神の不完全な軟体動物に思えるらしい

「アナタは、何故に信仰するのか?」

ある欧米人のキリスト教徒に、問いかけたことがある
すると「魂の安堵のためだ」と彼は答えた。そのため
に、毎夜、神に感謝を述べ、懺悔するのだという
彼の言う「神」とは、人間や動物、大自然を作った唯
一絶対神(キリスト教=父なる神・三位一体の第一位格
ユダヤ教=ヤーウェ。イスラム教=アッラー。皆、同
じ神のことを言っている)のこと。本当に神がいるか
どうかの議論は別として、その自分を創った創造主に
感謝し、父なる神に自分の犯した日々の罪を懺悔する
懺悔したことで赦しを得る。赦しは天国のキップを約
束されたに等しい。それで心の安堵が得られるという
のだ。理屈は通っているし、理解できる

同じ質問を台湾人にしたことがある

答えは「ご利益があるからサ」

どんなご利益があり、誰がそれを立証したのかは別と
して、ラッキーな奇跡を期待しての信仰姿勢。日本人
の多くも、彼と同じ答えをするのではないだろうか
こういった損得が先の信仰姿勢を西洋人は邪で不純と
感じるらしい。清らかな信仰姿勢ではない、と
最も、仏教の教えの本義は一般に「煩悩を消す」こと
とされているから、煩悩の最たる「ご利益を期待する
姿勢」は大いに矛盾しているとは思うが…。ともかく
東洋人はご利益を期待して信仰に励む人が多い

西洋人の信仰姿勢の「しょく罪=赦してくだせぇ~」を
ネガティブと捉え、東洋人の「ご利益頂戴よ~」を
ポジティブと捉えることも出来るが、「おすがり・お
ねだり・物乞い」は他力本願なので、後者も同じくネ
ガティブとも言える。何れにしても、興味深い


ただ、前述したように、東洋人、とりわけ日本人の場
合、その信仰活動とは、多くは布施=献金行為のこと
だ。ユダヤ系宗教の信者のように、朝に夜に神に向か
って祈っているのではない
日々の宗教的な祈りや先祖への供養は、神社の神主や
寺の僧侶などの“プロ”に代行してやって貰うのだ
そして神社や寺に行くのは、特に日本人の場合、お盆
や新年の初詣だけという例も多い
キリスト教における牧師やイスラム教の法学者、ユダ
ヤ教のラビは、神と信者の「仲介役」だが、日本の僧
侶などの場合、“仲介兼拝み代行業者”といえる

そう、布施と“拝み代行”では面白いエピソードがあ
る。数年前、所属する山登りの会で、ある山に登った
山の途中に寺があり、そこの玄関に『祈願代 小祈願
1万円 中祈願 5万円 大祈願 10万円から』とい
う看板があった。「まさに金次第」と、思わず苦笑した
のだが、たまたま近くに境内を掃く寺男がいて、彼と
目が合った瞬間に、僕の悪戯心に火がついた
僕は寺男に近づき、神妙な顔で、こう訊いたのだ

「あのー、1億円の宝くじを当てたいのですが、どの
くらいお布施を払えばいいでしょうか」

すると寺男は、値踏みするように上から下まで僕を見
て「まあ、最低でも10万円はお布施しないとダメでし
ょうな。この前、6億円のtotoがあたる願掛けをした人
が、100万円のお布施しておりましたよ」とシラッと
言ったので、僕は「それで当たりましたかね?」と訊
いてみた。すると寺男は「もちろんですよ。当たりま
したよ、6億円」。僕は無言のまま、寺男の顔をマジ
マジと見てやった。すると彼は気まずそうに視線を外
し、再び境内を掃き始め、僕から離れていったのだ
100万円の投資で6億円が入るなら、こんな美味い話
は無い。逆に言うと、そんなことはあり得ない。霊感
商法ならぬ宝くじ商法だ。見方によっては、ヒドイ詐
欺に思えるが、良いのか悪いのか、日本の法廷でこの
手のことで寺を訴えた人間を、僕は知らない


話がそれた。つまり、ユダヤ系宗教の信者は、個人的
祈りの量と深さが、信仰心の強さと考えるのに対して
日本人はもっぱら、代行業者への布施が信仰心と考え
ている。「地獄の沙汰も金次第」とはよく言ったものだ


さて、東洋人と西洋人では、その祈りの実践も大きく
異なる。東洋人の具体的な祈りの行動は、ユダヤ系宗
教信者が、聖書の一節やコーランの一節を唱えるのと
は異なり、何か願い事をしてムニャムニャと二~三回
どこかで聞いた題目や念仏など唱えてみるだけだ
先の青年たちのように宗教団体に入っている人たちは
例外だが、大抵の場合は、本格的にお経を唱えるのは
プロの仕事で、殆どの信者は読経をしようにも難解で
唱えられないし奨励もされない。神社詣でにいたって
は神主が唱える呪文のような祝詞も信者には許されて
いないので、出来るのは神殿の前の賽銭箱に銭を投げ
入れ、何度か手を叩いて頭を二度下げるだけだ
そうそう、信者の中には「賽銭をあげると神様が願い
を叶えてくれる」と勘違いしている人も多いが、それ
は大きな間違いだ。賽銭は神主などへの浄財。神主は
それを糧に、信者の代わりに神に祈るのだ。これは神
主に聞いたのだから間違いない。金と引き換えに願い
を叶える神など、幾らなんでも、それは酷すぎる
しかし、そんなことに疑問を持たないほど、世界の常
識から見て、日本人の信仰姿勢はズレているのだ


こういった信仰姿勢は何時から始まったのか

話は平安時代に遡る。当時、土地の所有権は、皇室や
摂関家・大きな寺や神社などの権力者が持ち、その土
地を借りて農民が米などを作り、その米の一部を年貢
(税金)として、土地の持ち主に上納していた。いわゆ
る荘園制度である。それは戦国初期まで続いたが、豊
臣秀吉の時代に廃止される



さて、今までは何もしなくとも年貢が入ってきた寺や
神社は、荘園制度が廃止されると途端に生活に困った
荘園制度は信者組織の檀家制度も兼ねており、盆暮れ
の布施集めや、葬式の際の“拝み代徴収”もやっていた
のだが、年貢がなくなると肥満した坊主たちには到底
足りない金額。そこで、思いついたのが、それまでの
仏教界には存在しなかった“永代供養”“塔婆供養”“戒
名”など、少しでも信者から金を巻き上げ、自らの腹
を満たそうという“布施増額計画”だ

商売人と化した寺社の信者への教育はそれは熾烈だった
「塔婆を立てないと先祖が成仏しない」「戒名がないと
極楽にいけない」「葬式で僧侶が拝まないと成仏しない」
「先祖が地獄で苦しんでいいのか」等など、釈尊の説法
の中には存在しなかった“アイデア”を次々と発案して
寺院の経済を潤していったのだ

こうして、狡猾な策略は成功し、その“賜物”は何百年
経った現代でも生きているのだが、その策の中心となっ
たのが「信者の神仏への直接的祈りの無効性」の啓蒙だ
つまり、信者が自分でお経を唱え死者の成仏を祈ってし
まっては、自分たちの出る幕が無くなる=布施が入らな
いから、「僧侶以外が拝んでも効果は無い」と信じ込ませ
たのだ。さすがに祈りの禁止は出来なかったが「僧侶が
拝んでこそ成仏が叶う」との説得は功を奏し、宗教に無
知な多くの民は「先祖の成仏のため」「自らの死後のため」
せっせと布施を収め「プロに拝んで」貰い、自らの信仰
実践は次第に萎んでいったのだ

これに異を唱える者もいた。「仏教の本道は自らが祈ること」
「自らがひたむきに信仰するから成仏が適うのだ。他人に
拝んでもらって適うものではない」「ましてや金銭を払えば
成仏するなど、邪説なり」「僧は俗より出て俗よりも俗なり
そんな奴らに仏教を説く資格は無い」
この正論に、仏教界は猛烈に反発した。寺の経済の根底を
揺るがす一大事だからだ。正論者に対し坊主たちは「罰当
たり」「死んでも成仏は適わない」「先祖が地獄で苦しんで
いる」等の脅しをかけ、それでも怯まないと檀家を総動員
して、反抗する者を村八分にした。更に正論を言い続ける
者には、「政を批判している」などと嘘をつき役人を動かし
投獄などの弾圧を加えた。中には獄死した者もいたという

そんな過酷な弾圧を見て、多くの信者は寺社には逆らわな
くなった。少しばかりの金銭の無理の我慢と、「仏教の本
義」などの難しいことに触れず寺社に従順でいれば、波風
は起きず村は平和が保てるからだ。そう、宗教の権威に口
を閉ざしてしまったのだ

こういう歴史が「祈りの他人任せ」と「宗教批判はタブー」
との意識が定着してしまったのだ。批判すれば「地獄へ堕
ちる」と言われれば黙ってしまうのは人情。仕方が無い面
もあるが、西洋では宗教の権威とこう然と戦った歴史があ
る。周知のように、教会が“免罪符”を発行し、例え罪人
でも寄付をすれば罪が許されるという邪説を立て資金集め
をした。これに反発した者たちの“宗教改革”は有名だ
「自らの祈りが、唯一の神との対話」思想は、その戦いの
勝利があって定着した

逆に日本では、民衆が政治や宗教の権威と戦い勝った歴史
が無い。どれも潰され、歴史から抹殺されている。大事な
戦いの敗けは、その後の歴史に深く影響する
民衆の勝利を逃した結果は、飼い慣らされた犬同様、権威
に媚を売り尻尾を振り、民衆のために権威と戦う者を、自
分たちも民衆であるはずなのに、体制側に立ち反権威を攻
撃するという、実に屈折した態度をとる国民性だ


「祈りの他人任せ」同様、日本人は、不思議なことに政治に
関しても具体的活動を嫌う。西洋では当たり前の「○○候補
は素晴らしいので宜しく」と一般の選挙民が行う選挙活動も
日本では無意識に「胡散臭い」「やってはいけない越権行為」
と感じる人が多いようだ。これも前述の「権威への迎合」体
質がDNAに染み込んでいる結果だろう
こういった経緯が、日本人に「政治と宗教を語るな」という
世界では通用しない変なポリシーを生んでしまった。僕も社
会に出始めた頃、先輩から上記の「~語るな」を教訓として
聞かされた。当時は何も疑問も持たず「世の中はそういうも
のなのか」と思ったのだ。実際、ある人気司会者がテレビで
特定の政党を応援していると発言しただけで、彼は番組を降
され、それ以後テレビで観ることは無くなった。司会者とし
て完全に抹殺されたのだ。最近でも、あるタレントが某政党
を支持する発言をした翌週に、番組を降板している。つまり
この迷信めいた教訓は日本では、まだ生きているのだ

しかし、世界に出ていろいろな人と話をしてみると、この
“教訓”は明らかに間違っていると感じる。何故ならば
「政治と宗教を語らない」事は、“政治権力・宗教権威に
逆らわない”のと同義だからだ。それは共産主義国ではあ
り得るだろうが、民主主義国ではあってはならないことだ


東大大学院教授の姜尚中(カン サンジュン)氏は「日本に
真の意味でのリーダーが生まれないのは、政治と宗教を語ら
ない風土があるためだ(趣旨)」と、ある番組で語った。そ
の意味を僕なりに解釈すると、痩せた土地では桃は育たない
ように、権威に逆らわない精神土壌からは、小市民や役人は
輩出しても、ダイナミックに時代を変えるリーダーは出ない
ということだ

代理人任せでは無く「自らが祈り」、積極的に政治に参画し
そして堂々と「政治と宗教を語る」ことが、豊穣な精神土
壌を作るのだ。その土壌からやがて、偉大な人間たちが輩
出されるだろう


酒場で青年たちの宗教談義を聞いていて、そんなことを
思ったのだった…
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