「へンくつ日記」

日常や社会全般の時事。
そして個人的思考のアレコレを
笑える話に…なるべく

日蓮、最大の難 龍ノ口の法難を振り返る

2017年07月07日 17時15分10秒 | Weblog
   ↑松葉ヶ谷草庵への道



それは、文永八年(1271)九月十二日の午後
(これは旧暦。現在の太陽暦で言うと10月
24日)、数百人の武装した侍たち(一説には
一千人とも…)が、鎌倉の中心地・若宮小路
(現在の若宮大路)から東に徒歩で20分程の
地・名越にある小さな草庵に向かっていた
大規模な兵士の移動にしては、実に静かだ。敵
に察知されないよう、訓練されている証拠だ
彼らは、時の若き執権・北条時宗(当時21歳)
の配下たちである。その部隊を指揮し、先頭の
馬上にいるのが、時宗の側近(今で言うと官房
副長官クラスか)の平左衛門尉頼綱。彼は、松
葉ヶ谷の草庵と呼ばれる日蓮の住居がある小山
の下まで来ると、手を挙げ兵を制止した。そして
前列の精鋭数人を偵察に行かせた。精鋭たちは
深い木々の中に消えていく。偵察が戻る数分の間
彼は二日前の評定衆会議(裁判)を振り返っていた

一段高い板の間に座る彼の前には、白砂の上に
敷かれたムシロに座す18歳年上の日蓮がいる
日蓮は、この数年のうちに次々と亡くなった時宗
の父親である第五代執権・北条時頼(通称・最明
寺殿)や、六代執権・長時や、更に北条家の重鎮
北条重時(通称・極楽寺殿)が、法華経を否定し
なおかつ念仏を唱えていた為に「無間地獄に墜ち
た」と吹聴。更に「極楽寺や建長寺を焼き払い良
観などの頸を刎ねよ」等と言ったという。その悪
口の罪に問われていたのだ
「真であるか!」頼綱は激高して問い詰めた
すると日蓮は、顔色一つ変えず「念仏無限とは
かねてより言っていたこと。更に邪教の坊主共
の頸を刎ねよとも、確かに一言も違わず申した」
そして「ただ…。極楽寺殿や最明寺殿が地獄に
墜ちたとは申し上げてはいない。誰かの…そう
良観坊に誑かされた後家尼御前あたりが言った
讒言と思われる」
「ええい、黙れ! 言い逃れは聞かぬ!」
頼綱の尋常ではない怒りは、正に怒髪天を突く
のようであった。彼が怒るのは当然だった
彼自身も熱心な念仏信仰者で、極楽寺の住職
良観坊は、彼にとっては「生き仏様」だったの
だ。その崇拝する人間の首を刎ねよとは、到底
許されざる暴言だった
しかし、その怒れる権力側の実力者を前に、
日蓮は平然と諭し始めた
「貴辺は政を与る大事な役についておられる
からこそ申し上げる。拙僧が文応元年に上奏
した立正安国論をお読みか。そこにも書いて
ある通り、国を思い民を慈しみ、世を安穏に
導く政を行うためには、邪法邪義を排し、法
華経を信奉するしか道はないのだ。それなのに
真に国を思う日蓮を罪科に問わんとするとは
物に狂い道理に迷う者のすること。速やかに…」
最後まで言わせず、頼綱の怒号が響いた
「この儂を狂っておると申すか!」
と、脇差しに手をかけた時、頼綱の隣に鎮座
していた数人の侍が前に出た
「お止めくだされ! 皆の評定が出る前に罰を
下すのは御法度。それに、僧侶を殺すと七代祟
られ、過去七代も成仏出来ぬと申す。頼綱殿の
為にも、ここは堪えるのが最善」
寸前のところで抜刀は止められたが、頼綱の
怒りは収まるどころか燃え上がっていた
そんな頼綱に対し、日蓮は更に厳しい言葉を
投げつける。
「日蓮を用いず、理不尽に罪におとすようなら
ば、国に後悔する事件が起こるであろう。日蓮
が幕府の御勘気を蒙るならば仏の御使いを用い
ないことになる。その結果、梵天・帝釈・日天
月天・四大天王のお咎めがあって、日蓮を遠流
か死罪にしたのち、百日・一年・三年・七年の
内に、自界叛逆難といって北条幕府の御一門に
同士打ちがはじまるであろう。そののちは他国
侵逼難といって四方から、そのうち殊に西から
攻められるであろう。そのとき、日蓮を罪に落
としたことを後悔するに違いない」とまで言っ
ている。これには侍たちも驚いたようだ
(実際、歴史にも残っている有名な幕府の内紛
「二月騒動」は、日蓮を流罪にした約百日後に
起こっている)
侍たちは怒る頼綱をなだめ、評定は後日下すこと
を伝え、全員が席を外した。その後、日蓮と弟子
たちは、何事もなかったかのように屋敷を出た

この後、日蓮が大人しくしていれば状況は
変わったかもしれないが、なんと翌日に
「一昨日御書」を頼綱に書き送っている
その内容は、昨日の評定の様子を振り返り
立正安国論の趣旨を盛り込みながら、再び
頼綱を諫めたものになっている。火に大量
の油を注いだ格好だ
この「一昨日御書」を読んだ頼綱に、もは
や迷いはなかった。彼は若き時宗を強引に
説き伏せ、日蓮を佐渡へ島流しにする決定
を手にした

時宗としては、日蓮に関わりたくなかった
何故なら、日蓮が立正安国論を自分の父・
最明寺時頼や、極楽寺重時らに送ってきた
後に、そこに書かれた他国から敵が攻めて
くることや、日本で疫病が蔓延し、天変地
異が起こり、更には内紛が起こる等の事柄
が、ことごとく事実となったこと。自らの
信仰である念仏宗や禅宗を邪教と決めつけ
たことへの怒りから、日蓮の襲撃を指示し
傷を負わせ、後に伊豆への島流しを決めた
父や重時らが、その後、次々と変死したこ
とが脳裏から離れないのだ
かといって、日蓮の主張を呑むわけにもい
かない。ここは、いくら騒ごうが無視を決
め込むのが最適と思っていたのだ。しかし
若き自分を補佐し、頼みとも思う頼綱の強引
な願いも無視できない。死罪ではなく遠流
という条件で、時宗は決定を下した
時宗から「日蓮は佐渡流罪」と命じられた
頼綱だが、思惑は他にあった。日蓮の殺害
である
「七代祟るものなら、祟ってみよ…」
偵察が戻る間、頼綱は小さく呟いた




偵察が戻ってきた。日蓮と弟子たちは、熱心
に読経しているという
「よしっ、参るぞ!」
それを合図に、兵士たちが雪崩を打って松葉ヶ
谷の草庵に攻め込んだ
激しい音を立てて開き戸が壊される。驚いた日
蓮の弟子たちが「おお」と声を上げたが、次の
瞬間、日蓮の前に立ちふさがるように立った
十年以上前、日蓮が「立正安国論」を上奏した
際に、念仏の信者たちが怒り狂い、松葉ヶ谷草
庵を襲ってきたことがあった。その時は、遠く
から怒号が響き、襲撃の迫ってくることが分か
ったので、危機回避のために掘ってあった裏手
の洞窟に逃げて難を逃れたのだが、今回は全く
の突然で、逃げる余裕もない。弟子たちは唇を
嚙んだ
狭い入り口から押されるように草庵に入った十
人ばかりの兵が、正面に端座し振り返った日蓮
と目が合った。その迫力に一瞬たじろぐ。ほん
の少しの間があった。そこへ、頼綱が兵を割っ
て入ってきた。彼は芝居じみた口調で宣言する
「日蓮、評定は下された!」
と、そこへヒョコヒョコと小柄な兵が前に出て
日蓮に向かって金切り声で叫ぶ
「この、くそ坊主がぁ!」
つい最近まで日蓮を信奉し「聖人様に死ぬまで
ついていきます」と宣誓した信者の少輔坊とい
う兵士だ。少輔坊は日蓮の懐にあった巻物を取
り上げ、その巻物で「食らえ!」と日蓮の顔を
叩き、更に二度も殴りつけた。日蓮は哀れを見
る目で少輔坊を見つめたが、彼は日蓮を見ること
なく叫び続ける。それを合図に、他の兵士たちも
家具を倒し、並べられていた経典を破りまき散ら
し、狼藉の限りを尽くす。頼綱も「もっとやれ!」
と怒鳴り散らす。日蓮は、少輔坊が自分を殴るの
に使った巻物を拾い、再び懐に仕舞う。その巻物
とは法華経第五。末法に法華経を弘通する者は
さまざまな大難に遭うと書かれた経典だった

頼綱たちの狂乱は続いていた。それを見ていた日蓮
は、やがて大音声を発する
あら面白や 平左衛門尉が物に狂うを見よ!
殿原、ただいま日本国の柱を倒す!」
その声に、兵士らは「ヒッ」と悲鳴に似た息を漏ら
し動きを止めた。実は、彼らは日蓮という僧侶に
内心恐怖を抱いていたのだ。強大な権力にも怯まず
位の高い有名な僧たちを批判し、次々と預言を的中
させ、そして、彼を迫害した権力者たちが、突然に
この世を去ったことも知っていたのだ。この怪僧に
関わると、自分の身に何か起こるかもしれないと思
う者も多かった。最近は、兵士仲間と呑む際の話題
は、この怪僧の話ばかりになっていた
だから、日蓮の大音声には腹の底から恐怖を感じた
動きが止まったのは頼綱も同じだったが、凍り付いた
ように動かない自軍の兵士たちを見て、彼は我に返る
「も、者ども、日蓮を縛につけよ!」
兵士たちは日蓮を縛り上げた。弟子たちがそれを阻
もうとするが、日蓮はそれを制した。やがて、日蓮
は馬に乗せられ、侍所に連行される。日興はじめ弟
子たちは、極度の緊張で奥歯を噛みしめながら、馬
上の日蓮の後に続いた




侍所では、頼綱は死罪をちらつかせながら
日蓮に命乞いをさせようと策略を繰り返し
ていたが、それに反し日蓮の破折は一向に
止まない。「されば事の理非を説いて示そう
心して聞かれよ」と、燃え上がる炎のよう
に邪教を攻め、頼綱に改宗を勧めていた
頼綱の目論見は失敗した。彼は佐渡流罪を
日蓮に伝えた
その後、日蓮は北条宣時邸に移送され、弟子
たちもそれに続いた。記録によると、宣時邸
で日蓮は弟子たちに法華経勘持品の講義をし
ている。後に回想しているが、佐渡流罪は表
向きで、実際は死罪にするつもりだと彼には
分かっていた。凡人では計り知れない境涯だ

一方、殺害するつもりの頼綱だったが、やはり
時宗に黙って実行する訳にはいかない。なんと
か死罪の了解を得ようと、必死に食い下がった
だが、時宗は死罪を許さなかった。酒を呑む度
日蓮を罵倒し乱れた父・時頼の姿と、目をカッ
と見開き、虚空を掴むように手を伸ばしたまま
死んだ恐ろしい死に顔が重なり、なんとも言え
ぬ恐怖が沸き上がる。父の死と日蓮は、全く関
係のないことと知りつつも、釈然としない感情
が支配していたのだ。時宗は、念を押すように
頼綱に言い含めた
「日蓮は流罪。それも時期は未定とする」
頼綱は平伏し、時宗の屋敷を辞した
時は午後十時過ぎ

午後十一時。就寝の準備をしていた日興ら弟子
たちは、物々しい音に騒然とする。侍頭を筆頭
とする十数人の武士たちが、日蓮の部屋の戸を
開いた。「上意により、場所を移動いたしまする」
日興は師の日蓮を見た。日蓮も日興を見て頷く

それから間もなく、用意を調えた一行が宣時邸
を出た。数頭の馬と十数人の兵士が門の外で待
っていた。松葉ヶ谷で日蓮を連行した際には
数百の兵が後に従ったが、「移動」名目のこの夜
は、たった十数人の兵のみ。そこに頼綱の姿も
ない。後に判明したことだが、なんとしても日
蓮を亡き者にしたい頼綱は、配下の中でも特に
口の堅い家来を選び、日蓮の殺害を命じた
隠密に事を運ぶため、見だたぬよう少人数で
それも深夜に行うことも言い含めていた
日蓮の殺害後、「屋敷の移動の際、数百人に上
る日蓮の信者たちが襲ってきたため、やむを得
ず切り捨てた」という言い訳は出来ていた

馬に乗った侍頭を筆頭に、馬上の日蓮、それを
囲むように日興らの弟子たちが続く。更にそれ
を囲む侍たち。一行は東方面の龍ノ口に向かう




少し進むと若宮小路にあたり、そこを横切る間
際に、日蓮が馬から降りようとした。慌てた兵
士たちが「何をするかっ!」と声を荒げる
すると日蓮は「騒ぎなさるな、ほかのことはない
八幡大菩薩に最後にいうべきことがある」
そして、小路が続く北の端にある八幡大菩薩の
社に向かい「八幡大菩薩はまことの神か。和気
清磨呂が道鏡の策謀によって首を斬られようと
したときは、たけ一丈の月と顕われて守護し、伝
教大師が宇佐八幡宮の神宮寺で法華経を講じられ
たときは紫の袈裟をお布施としておさずけになった
今日蓮は日本第一の法華経の行者である。その上
身に一分の過失もない。いま法のために首を斬ら
れようとしているが、これは日本の国の一切の衆
生が法華経を誹謗して無間大城に堕ちるべき者を
助けようとして申している法門である。また大蒙
古国からこの国を攻めるならば天照太神・正八幡
であっても安穏ではおられようか。その上、釈迦
仏が法華経を説いたときには多宝仏・十方の諸仏
菩薩が集まって、そのありさまが日と日と月と月
と星と星と鏡と鏡とを並べたようになったとき、
無量の諸天並びに天竺・漢土・日本国等の善神・
聖人が集まったとき、仏に『おのおの法華経の行者
に対して疎略な守護をいたしませんという誓状を差
し出しなさい』と責められて一人一人の誓状を立て
たではないか。である以上は日蓮が申すまでもない
大いそぎで誓状の宿願を果たすべきであるのに
どうして此の大難の場所には来合わせないのか!」
そして最後には「日蓮が今夜首を切られて霊山浄土
へ参ったときには、まず、天照太神・正八幡こそ
起請を用いない神であったと名をさしきって教主
釈尊に申し上げよう。それを痛いと自覚されるならば
大至急お計らいなされ」と言い放ち、また馬に乗った

一部始終を見ていた兵士たちは、唖然としていた
日蓮は、神に向かって怒鳴っていたのだ。彼らは
恐怖にかられた。この御坊は「本物かもしれない」
そして「その本物を我々が殺そうとしている」
「それはどれほどの罪業となるのか」
日蓮が予言した他国からの侵略は、蒙古からの
通告状で現実となっている
「僧侶を殺すと七代祟る」との言い伝えも蘇った
兵士らの顔面は蒼白となっていた



一行が由比ヶ浜に着こうとしたとき、日蓮が
また口を開いた。「しばらく待て殿方。ここに
知らせるべき人がいる」
そして、共に付いていた熊王という所化(僧侶
見習いの童子)を、近隣(現在の江ノ電・長谷
駅の近く)に住んでいる在家の信者・中務三郎
左衛門尉(四条金吾)邸に遣わせた




間もなくして、金吾と弟二人が全力で駆けつけて
きた。(金吾は次男。長男は禅宗の信奉者
で、日蓮や金吾らを目の敵にしていた)
皆、着の身着のままという態であるが
侍らしく脇差しだけは刺している。鬼の形相で
走り寄る侍三人に、兵士たちに緊張が走る。
柄に手をかける者もいる。そんな緊張を知ってか
四条金吾は兵士らに「お勤め、ご苦労様にござ
いまする」と、深々と頭を下げた
そして、日蓮を見上げ、肩で息をしながら金吾
が決意を込めたように、低く言葉を発した
「聖人様!」
日蓮は頷くと「今夜、日蓮は首を斬られに行く
この数年の間、願ってきたことはこれである。この
娑婆世界において雉となったときは鷹につかまれ
鼠となったときは猫に食われた。あるときは妻子の
敵のために身を失ったことは大地微塵の数よりも多い
だが法華経のためにはただの一度も失うことがなかった
そのために日蓮は貧しい僧侶の身と生まれて、父母
への孝養も心にまかせず、国の恩を報ずべき力もない
今度こそ、首を法華経に奉ってその功徳を父母に回向
しよう。その余りは、弟子檀那に分けようと申してき
たのはこれである」

現代語で表すと、やや迫力に欠ける。これを日蓮が弟
子に送った手紙「種種御振舞御書」によると…
今夜頚切られへ・まかるなり、この数年が間
願いつる事これなり、此の娑婆世界にして・雉
となりし時は・たかにつかまれ・ねずみとなり
し時は・ねこにくらわれき、或はめこのかたき
に身を失いし事・大地微塵より多し、法華経の
御ためには一度だも失うことなし、されば日蓮
貧道の身と生れて父母の孝養・心にたらず国の
恩を報ずべき力なし、今度頚を法華経に奉りて
其の功徳を父母に回向せん 其のあまりは弟子
檀那等にはぶくべしと申せし


ともかく、その言葉を聞いた金吾は「お供いた
します」と言い、手綱を持っていた侍に「我ら
に先導させて頂きたい」と頭を下げた。
侍頭の了承を得て金吾ら兄弟は先導役を務めた

当時の日蓮教団の特徴の一つに、構成員の身分
の多様性がある。幕府内で事務方として働く侍
から、金吾のような要職に仕える家臣、ただの
町民や商人、職人、そして農民と多種多様だ
それらが宗教上の会合では一同に集まる。身分
で集まりを分けなかったのだ。武家だけが会す
禅宗や、女だけの会を作った念仏宗とは根本的
に異なった。だから集まりでは、誰もが平等に
話し祈り、説法を聞いた。身分の垣根は全くな
かった。第一、宗祖の日蓮が「せんだらが子」
漁師の子である。世間の身分は、この教団には
関係のないことだった。なにせ、この教団の根
本の教えが「全ての人間の心の底には、究極の
善性・仏の生命が脈打っている」というもの
法華経を唱えることで、その仏の生命が沸現し
それが身を飾っていく。極論を言えば、自らが
釈迦のような仏になるのが目的の教団なのだ
仏を目指す者にとって、世間の身分は全く役に
立たない。そんなものに執着すること自体、仏
とは反対の世界に他ならない。信者はそう信じ
ているから、世間の身分で計りはしない。農民
の信仰体験を侍が真剣に聞き、侍の悩みを町民
が同苦することは、この教団にとっての常識だ
った。その常識が軍事政権とも言える幕府の常
識と衝突するのはある意味当然だったかも知れ
ないが、それはまた別の話

日蓮の教団の信者が集まると、自然と信仰の話
になる。由比ヶ浜から龍ノ口刑場へは、徒歩で
約1時間半程。その間、一行も自然と信仰の話
になる。特に日蓮がいれば尚更のこと。質問や
他の信者の頑張りの報告など時を忘れて語り
合った。ただ、いつもと違うのは笑いが起きな
かったことだ。この教団の特徴なのだが、真剣
な信仰体験の時なども、時折、温かな笑いが起
きる。「もう何時間も題目唱えていると、足が
痺れて」と誰かが言うとドッと笑い声が起こる
笑いは会合では当たり前のことだったが、龍ノ
口への道では、日蓮の〝最後〟の言葉を聞き漏
らすまいという真剣な決意が皆の心にあった
張り詰めた緊張があった



やがて腰越近辺に着いた。刑場までは間もなくである
沈黙が一行を包んだ。そして、浜辺近くの龍ノ口に着く
侍頭が馬を下り、斬首の用意を促した。日蓮
以外の弟子や金吾たちは青ざめている
「御坊、ここへ座られよ」
侍頭は、そういって刑場中のムシロを指す
日蓮がゆっくりとムシロの上で正座をする
その横に立つ侍が、鉢巻きをし、たすきを
掛ける。金吾がたまらず嗚咽を漏らし
膝から墜ちた
「只今なり…」
それを見た日蓮が、金吾に向かい音声を放った
「不覚の殿方である。これほどの悦びを笑いな
さい。どうして約束を違えられるのか」
「はっ」金吾は拳で涙をぬぐい居住まいを正し
て砂の上に正座をし、脇差しを鞘ごと抜いて膝
の前に置いた。彼は、日蓮が刑を受けた瞬間に
後を追う決意だったのだ
日興ら弟子たちも砂に上に正座し、静かに題目
を唱えだした。日蓮、そして金吾ら兄弟もそれ
に和す
「南無妙法蓮華経…南無妙法蓮華経…」
執行人が抜刀する。たいまつの火がギラリと反
射する。執行人は侍頭を見る。侍頭と視線が合
った。二人とも顔面は蒼白である。共にある言
葉を思い出していたのだ
「僧侶を殺すと七代祟る」
「南無妙法蓮華経…南無妙法蓮華経…」
日蓮たちの題目の声は次第に高くなっていく
武者震いのような震えが執行人を襲う
侍頭は目配せで執行を促した
執行人は太刀を振りかざす
時刻は午前二時過ぎ
正に釈尊が悟りを開いたという丑寅の時だ
(ここからは日蓮がその時の
様子を描写した現代語訳)

江の島の方向から月のように光った物が
鞠のように東南の方から西北の方角へ光
り渡った。十二日の夜明け前の暗がりで
人の顔も見えなかったが、これが光って月
夜のようになり人々の顔も皆見えた。太刀
取りは目がくらんで倒れ臥してしまい
兵士共はひるみ怖れ首を斬る気を失って
一町ばかり走り逃げる者もあり、ある者は
馬から下りてかしこまり、また馬の上で
うずくまっている者もある
日蓮が「どうして殿方、これほど大罪ある
召捕人から遠のくのか、近くへ寄って来い
寄って来い」と声高高に呼びかけたが急ぎ
寄る者もない。「こうして夜が明けてしまった
ならばどうするのか、首を斬るなら早く斬れ
夜が明けてしまえば見苦しかろうぞ」とすす
めたけれどもなんの返事もなかった


日蓮の死罪は、実行されなかった
その後日蓮は、相模の依智の本間六郎
左衛門の邸の預かりとなる
龍ノ口刑場から本間邸まで付き添った
頼綱の家来の中から、数人が「二度と
念仏は唱えません」と日蓮に帰依して
いる。頼綱が知ったら発狂せんばかり
に怒ったであろう
また、頼綱の暴走を予知してか、時宗
が本間邸に以下の文を書き送っている
「此の人は罪の無い人である。今しばらく
してから赦されるであろう。あやまちをした
ならば後悔するであろう」

江ノ島から飛んできた鞠のような光り物
については、色々な見解があるだろうが
それが流れ星であれ、以前、白昼のロシ
ア上空を横切った巨大な火球であれ、絶
妙なタイミングで飛んだことで刑の執行
が止まったことは事実だ
それをどう捉えるかは、自由だ

さて、本間邸に一ヶ月ほど滞在した後
日蓮は、結局、佐渡に流されている
不思議なことだが、この一ヶ月の間に
鎌倉中で放火事件や殺人事件が多発
する。放火は「日蓮の弟子がやった」
という噂が飛び交った
それから間もなく、日蓮の流罪が
決行されたのだ。後日、日蓮は
「放火や殺人は、極楽寺や頼綱の仕業」
と言い切っている

日蓮は佐渡に渡った。先述したように
その約百日後、「二月騒動」が起きる
流罪は二年余で終わる。鎌倉に戻った
日蓮は、再び頼綱と対峙する
だが、今回の頼綱は別人のように日蓮
に接した。まるで大切な客人のように
「蒙古軍は、いつ攻めてきますか」
「今年中には必ず」と日蓮は断言する
事実、文永の役は、その半年後に起こる
その席で頼綱は、寺の寄進を申し出るが
極楽寺他の宗派はそのままと知ると、日
蓮はこれを拒否。そして「邪法邪義を用い
れば国に大きな災いが起きるとかねてから
言ってきた。事が起こったその時になって
から、決して決して『御房はそうはいわな
かった』と仰せなさるな」と強弁し席を立つ

その後日蓮は鎌倉を離れ、山梨の身延山に
草案を建て、布教の指導と弟子育成に励
んだ。そして61歳の時に東京・池上で入寂する


余談
日蓮が亡くなって二年後、時宗は32歳の
短い生涯を閉じる。時宗の子・貞時は
まだ幼かったが時宗の後を継ぐ
頼綱は、その貞時に取り入り幕府内外で
絶大な権勢を振るうが、頼綱の恐怖政治に
危惧した貞時の命令で、一族共に誅殺された
52歳だった
少輔坊のその後の記録は全く残されていない

四条金吾は佐渡に流された日蓮を訪ね
身延に移った際も数度訪ねている
老齢になり息子に家督を譲り、領地である
信州に移り住み90歳まで生きた
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