西風に吹かれて

日本の西端にある基地の街から、反戦や平和の事、日々の雑感を綴ります。

「沈黙の春を生きて」

2015-03-31 19:15:31 | 反戦・平和
なんど観ても胸を締め付けられ、涙が溢れてくる。そんな映画がある。

坂田雅子監督の「沈黙の春を生きて」も、そんな映画の1本である。



13年間活動してきた「広報させぼを読む会」を終了することになり、最後の集まりでこの映画を上映した。

半世紀も前にあった「ベトナム戦争」。

その中で、べトコン(南ベトナム解放戦線の兵士)が潜んでいるとされたジャングルを消滅させるために、大量の枯葉剤が散布された。





その枯葉剤には、猛毒のダイオキシンが含まれ、その後遺症は子どもや孫にまで及んでいる。

日本でも多くの若者たちがベトナム戦争に反対し、小田実さん、吉川勇一さんたちが始めた「ベトナムに平和を。市民連合」(通称べ平連)は、政党や党派に所属しない一般の市民たちが参加できる市民運動の始まりとなった。

復帰前の沖縄からはファントムが飛び立ち、佐世保からも多くの米艦船がベトナムへと出港して行った。

若い私もベトナム反戦運動に関わったが、その中で初めて「日本も加害者である」との認識を実感したのだった。

私は、ベトナム戦争に反対したが、そこで使われた枯葉剤が何代にもわたってこれほどの被害をもたらすなど考えてもいなかった。アメリカは「人体に影響はない。土壌も1年で回復する。」と言っていた。

しかし、枯葉剤の後遺症はベトナムだけではなく、アメリカの帰還兵の家族にも及んでいた。

四肢欠損の障がいがあるベトナム帰還兵の娘へザー・バウザーは夫とともにベトナムを訪れ、自分と同じように障がいのある人たちと交流を持ち、アメリカとベトナムの被害者が繋がっていかなければならないと思うのだ。





レイチェル・カーソンはその著書「沈黙の春」の中で『化学物質は放射能と同じように不吉な物質で世界のあり方、そして生命そのものを変えてしまいます。いまのうちに化学薬品を規制しなければ大きな災害を引き起こすことになります。』と訴えている。

監督の坂田雅子さんは
『50年前の警告は聞かれなかったのだ。未来の世代に再び不の遺産を残さないように、いま私たちに何が出来るのだろう。この映画は、その一つの問いかけである。」
と言っている。


私たちに何が出来るのか?という問いは、「広報させぼを読む会」の仲間たちに伝わっただろうか。

この会は終わるけれど、英気を養ってまた再出発したいと考えている。






写真に残る戦争の記録

2015-03-26 20:32:49 | 日記
母が亡くなって今月31日で8年になる。父が亡くなってからはもう15年だ。

両親が残した品物はほとんど処分したが、茶箱に入った写真類は納戸の奥に置かれたままだった。夫も遠慮して自分が処分することはせず、私に「早く片付けて。」と言っていた。

めんどくさいな~と思いつつ、今日、茶箱を開けてみた。どうでもいい写真も多いのだが、私の祖父母の写真など古い変色したものが数多く出てきた。

中には「山東派遣軍・記録写真帖」などというものもある。これは祖父が持っていた物だろう。





祖父は佐賀県三養基郡の出身。その俊次郎と言う名前が現すように、零細農家の次男坊で継ぐべき家督もなく、当時、海軍鎮守府が置かれ賑わっていた佐世保にやって来た。そして、海軍に入り水兵からのたたき上げの軍人になったのだ。


出てきたセピア色の写真には、“国防婦人会”のたすきをかけた祖母や母の写真もある。
前列中央の女性は、女学校の校長先生だった方だ。教育関係者が率先して旗振り役をし「銃後の妻たち」を作り出していたのだ。


(前列左端 祖母  二列目右端 母)

祖母は明治16年、佐世保市三川内の皿山の生まれ、生家は窯元で父の従兄弟には県の無形文化財になった陶芸家もいる。

その祖母は帝国海軍軍人の祖父に従って朝鮮半島に渡り、羽ぶりよく暮らしてきたらしい。

統治下で日本人と言うだけで肩で風切る生活だったのだろう、何かと言うと「朝鮮人はだめだ」とこき下ろした。

祖父は私が生まれる前に、祖母は中学生のときに亡くなった。

私が焼物に興味を持ったのは、大人になり結婚もしてからだ。有田にも伊万里にも波佐見にも佐世保から30分もあれば行ける。三川内は佐賀との県境、有田の隣町だ。陶器市にも何度となく足を運んだ。



そして解ったのは、有田、三川内の陶祖は、秀吉の朝鮮出兵のときに朝鮮半島から連れてこられた陶工の末裔だということだった。

有田には有名な陶祖・李三平の墓もある。

三川内に多い姓、金氏・福本・中里は朝鮮陶工の末裔だと言われている。

祖母の生家は福本姓である。
祖母は自分の先祖のことなど何も知らずに一生を終えたが、分かったらどうだったのだろう?
どんな顔をしただろうか?


出てきた写真を見ながら、民族差別を煽り戦争へと繋がっていった過去と、ヘイトスピーチに明け暮れ、日本の優位性を謳う今とが重なって、そら恐ろしさを感じた一日だった。

オスプレイがやって来た

2015-03-23 21:55:15 | 反戦・平和
昨日は黄砂とPM2.5で街中どんよりとしていたのに、今日は晴れ渡って暖かな一日。

この穏やかな春の日に、オスプレイが飛んでくるという。

「午後から飛来するという情報が入っているので、12時30分から前畑岸壁で抗議集会をやります。」と佐世保地区労からの連絡で、前畑岸壁に出掛けた。



リムピースのSさんによると、今日、佐世保に飛んでくるオスプレイは、ホワイトビーチからでも岩国からでもなく、洋上にいる強襲揚陸艦ボノムリシャールからやって来るのだという。そして、その後は韓国へ行くのだとか。
「わざわざ簡易ヘリポートしかない佐世保に寄るのは、デモンストレーションに過ぎない。」と話された。



「あっ、来た!」午後1時10分、1機目がやって来た。
思っていたより小さく、海水を巻き上げながら赤崎貯油所に着陸した。



続いて2機目。
イージス護衛艦「金剛」とすれ違いながら、これも海水を巻き上げながら赤崎貯油所に着陸。





集会参加者は60人ほどだったが、みんなで抗議の声を上げた。

このあと、一緒に参加していたIさんご夫婦と、前畑岸壁の対岸にある赤崎貯油所の見える場所まで移動した。

一日に数えるほどしかバスの通らない赤崎の道路は、他県ナンバーの軍事マニアの車やマスコミの車で両脇が塞がっている。そして、貯油所が見える場所は望遠レンズをつけたカメラを持った人たちがずらりと並んでいた。

その人たちの間から、私もオスプレイを写した。
給油している音なのか、ずっと鈍い音が響いている。





オスプレイの向こうに、緑におおわれた前畑弾薬庫が見えていた。



オスプレイは1時間半ほど滞在して離陸したが、原潜にも原子力空母にも馴らさせられた佐世保市民は、いつものようにオスプレイにもすぐに馴れるのに違いない。

とんでもないことだ。

戦争の道具に馴らされてはいけない。戦争に繋がるもの全てに異議を唱え、拒否していかなければならない。

戦争に近い街だからこそ、私たちが声を上げなければ。







請願とデモと

2015-03-19 20:36:41 | 反戦・平和
今日は午後2時から佐世保市議会「石木ダム建設促進特別委員会」に、水需要予測の見直しの請願を行なった。





2年前の再評価委員会に提出された佐世保市水道局の水需要予測は、たった2年しかたっていないのに実績値と大きく乖離している。
その時の水需要予測を基に、石木ダム建設は国から事業認定を受けたのだ。

予測値と実績値はこれからますます乖離していくだろう。本体工事も付替え道路工事さえ工事に掛れずにいる今ならまだ間に合う。
過大な水需要予測を見直して再評価をやり直して欲しい、そういう思いで請願に望んだが、委員の全てが不採択だった。

「石木川まもり隊」の代表Mさんは、水需要の予測値と実績値の違いをグラフにして、その乖離が一目で分かるようにして趣旨説明を行なった。

「水問題を考える会」のSさんは、ダム建設に掛る費用がいかに巨額であるかを説明し、その全てが税金でまかなわれ、それが市民の損失になることを訴えられた。

私は長崎市の人口と長崎の平均給水量を基に、佐世保市が長崎市並に水を使用するならばどれくらい必要なのかを計算して、それを示した。
水道局が示した平成36年の水需要予測は84.685トン。実に22.000トンもの開きがあるのだ。



しかし、委員たちからの答えは

〇佐世保市の水源が不安定。厚労省が事業の認定をしている。水の安定確保が必要。
〇この委員会は石木ダムを作るための委員会である。佐世保市の水道事業には抜本的な対策が必 要、そのためにはダムがいる。
〇第三者委員会が承認したことを尊重する。
〇実績値に重きをおいた請願である。実績値に頼ると街の発展は望めない 等々。

いつものことながら、私たちの趣旨説明をどのように聞いていたのか?趣旨説明には一言の質問も出なかったのだ。

傍聴者からは、「質問も出ない、議論もない、こんな委員会でいいのか?議員がこんなことでいいのか?」と鋭い意見が出された。

結局、不採択にはなったけれど、ダム建設を止めるためには何でもやるつもりなので、また次の議会で請願することになるだろう。私たちはあきらめないのだから。


午後6時からは「19日佐世保市民の会」の566回目のデモ。



今日は先月に続き、東京新聞の取材を受けた。戦後70年の特集が予定されているのだという。どんどん右傾化していく中で、反戦・平和を掲げて47年間も運動を続けている市民団体は珍しいのだろう。
私たちの運動の出発点となった佐世保橋(旧海軍橋)の一部が移築されている浜田町公園で参加者全員で写真を写してもらった…というか、この写真はきっと特集記事の中で使われることになるのだろう。

いつもと違うことがあると、何だかみんなの意気が上る。「もうここからデモしよう!」とMさんが言い出して、そのまま歩き出した。





来週月曜日にはオスプレイが米軍赤崎貯油所のヘリポートに飛来するとのこと。

「19日」のメンバーも抗議に飛び回ることになるだろう。今日の元気を来週まで維持したいな~!




圧殺の海

2015-03-14 19:35:03 | 反戦・平和
学生時代に「圧殺の森」という映画を見たことがある。

裏口入学に端を発した、高崎経済大学の学園紛争を追ったドキュメンタリー映画だった。
映画の中で「お前の生き方はそれでいいのか?」と突きつけられる問いは、私自身にも突きつけられている問いで、その答えを出すのに躊躇した。



後の全共闘運動の萌芽とも言える学園紛争だった。学校側からの処分を恐れる学生が、目の部分だけ穴を開けた袋を被りデモをする姿は衝撃的だった。

監督は三里塚に住み着き、成田空港建設に反対する農民と支援の学生を描いた小川神介監督。
この映画は、その監督の初期の映画であり、エポックメイキング的なものではないかと思う。

そして、三里塚からは沢山の映画が生まれた…。


同じ圧殺のタイトルが付いた「圧殺の海」は沖縄・辺野古の新基地建設に反対する沖縄の人々の戦いを描いた映画だ。



監督は藤本幸久氏と影山あさ子氏。

藤本監督の映画は2年ほど前「ONE SHOT ONE KILL」という映画を見た。アメリカ海兵隊のブートキャンプを取材し、訓練の中で若者たちがいかに兵士に仕立て上げられていくかが描かれた映画だった。藤本監督自身が佐世保にこられて講演もされたが、お世辞にも饒舌とは言いがたい話しぶりで無骨な感じだった。

影山監督は、3.11震災後の福島原発事故について、京都大学原子炉研究所の小出裕章さんに長時間のインタビューをされていて、それが数枚のDVDになっている。

その2人が中心になって、反対運動をやっている人の中に入り撮影をされているのだ。





沖縄では新基地建設に反対して、凄まじい闘争が続いていた。
キャンプシュワブ前での座り込み、大浦湾でのカヌーによるボーリング調査の阻止行動。

やられてもやられても立ち向かっていく沖縄人の強さ。
85歳になる島袋文子さんは機動隊に向かって「戦争になったらみんな死ぬんだよ。あんたたちも死ぬんだよ。」だから新基地建設は止めるのだと訴える。

平良修牧師のお連れ合い悦美さんは基地に資材を搬入しようとするトラックの前に座り込む。
それも当たり前のことのように淡々と。

そして、沖縄平和運動センターの山城博治さん。
この人なくして沖縄の平和運動は語れないだろう。基地のゲート前で、辺野古の海上で、訴えかけ、抗議し、飛び回る。すごい人だ。

映画を見ながら、やはりヤマトは沖縄を差別していると思わざるを得なかった。
すぐに安保条約を破棄することが出来ないのなら、沖縄の基地をヤマトは引き受けるべきだ。

「沖縄にいらないものはどこにもいらない」などと言っていても、沖縄の基地は無くなりはしない。

基地が必要と言っている首相・防衛大臣・外務大臣をはじめとする各閣僚の出身地で基地を引き受けてもらうのがいい。
そうすれば、政治家も沖縄の苦しみを知ることになるだろう。