西風に吹かれて

日本の西端にある基地の街から、反戦や平和の事、日々の雑感を綴ります。

蔵開きへ

2014-03-30 20:57:09 | 日記
今日も霧雨が降っている。

しかし、今日は雨でも絶対に出かける。

前々から友人たちと約束していた、伊万里の酒造会社「古伊万里酒造」の蔵開きに行くのだ。

一昨年、佐世保市男女共同参画センター「スピカ」で行なわれた女性起業家の講演会でこの酒造会社の社長で、日本でも数少ない女性杜氏として活躍されているMさんのお話を聞いたのがきっかけで昨年から蔵開きに出かけているのだ。

佐世保から30分あまりで古伊万里酒造に到着。



やはり雨のせいか昨年よりは人手が少ないように感じられるけれど、私と友人はとにかく飲みたい…などと言うと、飲兵衛みたいに思われてしまうけど、ここのお酒は私好みなのだ。

受付で、お猪口を100円で購入し蔵の中に入ると、いろいろな種類のお酒を注いでもらい、何杯でもお代わりができるのだ。



蔵の中では、カス汁が無料で振舞われる。

外では、伊万里特産の天ぷらやかまぼこ、ごどうふに寿司、イカ焼きも売ってあって、縁日の雰囲気だ。

他に、手打ちそばも蔵の中で食べられるように販売してあった。



友人は全種類を飲み比べていたが、私は去年から気に入っている一種類だけを飲み続け帰る頃にはすっかりいい気持ちになっていた。



お気に入りの一升瓶と、これも美味しい粕漬けを買い込んで帰途に着いたが、久しぶりに友人たちとの楽しい一日だった。


「小さなダムの大きな闘い」出版記念集会

2014-03-29 19:30:16 | 石木ダム
朝から激しい雨。

この雨で、午後2時から予定している石木ダム問題ブックレット「小さなダムの大きな闘い」の出版記念集会に人が集まるのだろうか?



それに、石木ダム建設に反対し、議会で起業者である佐世保市を追及されていたH議員が急逝され、ちょうど同じ時間帯に告別式が行なわれるのだ。


最初にH議員に黙祷を捧げて、記念集会は始まった。

「石木ダム反対運動のこれからを考えたときに、ブックレットを出した方がいい」という話が弁護団から出されたときに、躊躇ししり込みをする地権者や支援者の私たちの背中を押し、いち早く「やりましょう!」と手を上げられたY市議のお話。

それから、地権者で編集長のIさんの苦労話(というより笑い話?)があり、本の挿絵と「こうばる」の紹介記事を書いたほーちゃんの話、(こちらも似顔絵描きの苦労話があったけれど、やっぱり笑い話)。





そして、このブックレットの中で一番メインの地権者の座談会に参加した地元の肝っ玉母さんたちのお話。
しかし、その中のお一人T子さんは強制測量当時のことを語りながら、言葉がふるえ、詰まり、とうとう涙声になってしまわれた。もう30年以上前のことなのに…。



県が機動隊を導入して強制的に行なった測量が、どれほど地元の方々に深い傷を与えたのかが理解できるような気がした。

最後に、ブックレット出版に力を貸していただいた熊本のTさんのお話で会は終了した。

マスコミ関係は、NBC長崎放送と地元のテレビ佐世保が取材にみえていたが、どちらもとてもいいニュースだった。特にテレビ佐世保は今までにない充実した内容のニュースだった。

会場もいっぱいになり、とてもいい出版記念集会だった。

購入を希望される方は、下記にご連絡下さい。




国策に協力させられる市民

2014-03-25 15:13:43 | 反戦・平和
地元紙である長崎新聞は、今朝の一面トップに「水陸両用車部隊配備」を載せた。



現在、佐世保に配備されている島廠防衛(テロ対策部隊)の専門部隊とされる西部方面普通科連隊を改組して、さらに大きな体勢とし、司令部と主力部隊を佐世保市崎辺町に置くのだという。





ここの東側には、一昨年まで米海軍のLCAC基地が置かれていた。LCAC基地は対岸の西海町横瀬に新基地が造られ移動している。

そのLCAC基地のあった崎辺は、私が中学生の頃までは長崎大学の水産学部があって、春の遠足といえば「水産大学」だった。

崎辺中学校横のだらだらとした長い下り坂を下りきると、三方を海に囲まれた平坦な広場が有り、建物が立っていた。そこが水産大学だった。

歩き疲れた汗ばんだ体に潮風が気持ちよく、海際まで行ってミナやヤドカリなどを捕まえて遊んだ。楽しい思い出だが、いつのころからか、そこはSSK(佐世保重工業)の百万トンドック予定地となった。

しかし、造船業は斜陽産業となり百万トンドックの話も立ち消えとなった。

一時期、米軍のゴルフ場もあったりしたが、米軍のドック型揚陸艦が佐世保に配備されるとそれらの艦船に積み込まれるLCACの駐機場となった。





そして、LCACの駐機場が移転するや今度は米軍から自衛隊にバトンタッチされる。



すべてお国のためだ。

いざ戦争となったときのために、国は準備万端整えておくというわけだ。

佐世保市長の目は市民へは向いていない。
考えているのは、部隊が配備されると減少している市の人口増につながり、経済効果があるというくらいのものだ。

軍備が整えば整うほど、佐世保の街が攻撃される可能性が増すということでもある。

私たちの街を、人を殺すための出撃基地にしてはいけない。

涙腺の緩む日

2014-03-22 19:56:40 | 日記
時々、なき濡れて過す日がある。

いつもは平静を装い心の奥底に隠している感情が刺激を受け、留まるところを知らないようにあふれ出すことがあるけれど、昨日がまさにそんな日だった。

Shoichiro IkenagaさんのFBにお邪魔したところ、目良誠二郎さんの記事がリンクしてあって、お作りになった短歌が載っていた。

それを読んでいるうちにいてもたってもいられなくなって、涙が出てきたのだ。添えられていた写真も感情を刺激するのに十分だった。


福島県双葉郡富岡町夜の森の桜並木(2012年4月)




『以下は、3.11前とその後にふるさと夜の森を歌った拙歌です。』とあり、沢山の短歌が連ねてあった。

核閉ざす吾がふるさとの夜の森(よのもり)に今年も咲かむ花の無残に

夜の森の花の下にて春死なむそのふるさとの望月のころ

大地揺れ海の襲ひて原発の危機に瀕せる吾がふるさとよ

ふるさとの桜花こそ悲しけれ今年は咲かむ観るひともなく 

桜花な咲きそ咲きそ住む民の核に追はれし吾がふるさとに

核をもて追はるる酷きかなしみをふるさと人の永久に強ひらる

フクシマの核にまみれしふるさとに今を盛りと花の咲くらむ

文字とほり小鮒釣りしふるさとのひと絶え果てぬ核に追はれて

花見なば思ひ起こせよフクシマの見る人もなく咲き散る花を

馬駆くる蹄の音のこだませし桜並木も核に閉ざさる

名にし負ふ浜通りとはなりにけり吾がふるさとの核にまみれて

セシウムに深く冒され曽祖父の開きし土地は闇に閉ざさる
 

夜の森とつぶやきみればとめどなく思ひの溢れ怒りのあふる

フクシマよ奥羽陸奥(みちのく)東北よ生ぎよ負げんな吾がふるさとよ
 

巨大なる凶刃と化しふるさとをなぎ払ひたり核の電炉は

いわきにてふるさと恋ひぬほど近き花の咲き満つ夜の森といふ
 

曽祖父の半谷清寿が植え初めし桜咲きけり核の荒野に



短歌を読み終えて、すぐ目良さんのFBに飛んだ。
面識はないけれど、前からお名前だけは存じ上げていて、たまにFBに立ち寄っていた。
しかし、今回はしっかり読ませていただこうと遡って読んでいくと、茨木のり子さんの「わたしがいちばんきれいだったとき」が載っているではないか。

この詩は、20代前半の生意気盛りだった私が衝撃を受けた詩だ。この詩を読んで詩集も買った…。
読んでいるうちに、この詩の英訳されたものに、先日亡くなったピート・シーガーが曲をつけて歌っていたことを知った。

You Tubeで探してみたけれどピート・シーガーの歌は分からずじまい。
でも、ワサブローという人が歌っている「わたしがいちばんきれいだったとき」もすごくいいので、UPしてみた。

そして聞きながら、やはり涙が出てきてしまったのだ。

ワサブロー 『私が一番きれいだったとき』



夜には福島県伊達市のTさんからの手紙を読んでまた涙。
Tさんはネットでお知り合いになった方だが、このブログに書き込みしてくださったりメールを下さったりもする。

Tさんにはお嬢さんがいらっしゃるのだが、お嬢さんを「移住させることにしました」とあって、その重い決断をされた心情を思ってまた涙が出てきたのだ。

もっともっと頑張れる力がほしい。
肉体は枯れつつあるけれど、気持ちは枯らさずに理不尽なことに立ち向って行きたい。