南無煩悩大菩薩

今日是好日也

バーの帰りに文化を語る。

2022-02-19 | 酔唄抄。

(picture/source)

そんな、夢を見た。今の年老いた脳みそでありし日の若者の身体を持っているような。その時の誰やらも知れない夢の相方との会話を思い切り脚色してみるとこんな感じであったような気もするものの定かではない・・・なにしろ夢でも確かに酔っぱらいであった。

ーある種の人間関係の理想はバーで気付いたりする。なんていうか傍若無人と敬意とが両立する場所とでも言えるようなところや。

なるほど、たとえば人間関係を先験的に友・敵に分けるという意識は、好きなものと怖いものという二通りの反応しか知らない幼児の段階に後退しているようなものやからね。

せや、その結果、他人との関係が貧しくならざるを得んのですわ。他人を他人として認める能力、実り豊かな対立の才能、反対者を包み込むことによって自分自身を超える可能性といった面が退化することになるおもいます。

つまり、黒白いずれかを選び取るのではなく、所定の選択の圏外に出るのが酔いの良さであり、自由な関係の理想とするところもそこらへんあるんやろね。

その観点からすれば、最善の人間でも比較的ましな災厄のようなもの、逆に極悪人でも最大の悪ではないというようなところに落ち着いてしまいますわな。

ん、自然体の人間関係ほど愉快なものはおまへん。なぜなら、人間そのものの方が人間観で作った文化より上等やさかい。ー

おい、おい、じいさん、壊れかかってるんちゃうんかい、と思ったりしとる次第です。

Sinéad O'Connor - Downpressor Man (reggae)

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才能

2022-02-13 | 意匠芸術美術音楽

(picture/Kazuo Shiraga -Bakumatsu power-)

才能というのは、ひょっとすると憤怒の首尾よく昇華された姿に他ならないかもしれない。

言い換えるなら、手に負えない対象物を破壊する目的のために無際限に増大していたエネルギーを精神を集中した辛抱強い省察に振り向ける能力、ちょうど幼少のむかし金切り声を出すまで玩具を痛めつけなければ気がすまなかったように、しつこく対象の秘密に食いついて離れぬ能力の別名であるかもしれない。

誰しも、外界の事物を没却して物思いに耽る人の面上に、ふだんなら経験の場で発揮される攻撃性があらわれているのを見た覚えがあるのではあるまいか。

何かの制作に従事する人なども、熱中するほどにけだものじみた凶暴性に取りつかれ、「憤ろしく制作に打ち込んでいる」わが身に心付くことがないであろうか。

もっと言えば、囚われの状態から自由になり、囚われていることへの憤怒から脱却するためにも、こうした憤怒が必要なのではあるまいか。

宥和的な要素にしても、破壊的要素の抵抗を経てはじめて獲ち取られるものではあるまいか?

ー切抜/Th.W.アドルノ「ミニマ・モラリア」より

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それは、喰っていいのか。

2022-02-07 | 古今北東西南の切抜

(picture/source)

問:2030年の人工知能(AI)の役割は。兵器に搭載したり、人事の評価を決めたりする可能性もありますね。

「心配なのが、子供たちの思考の過程がアルゴリズム(計算手段)によって支配されつつあることだ。

私が子供のころは「自然」対「育成」、つまり遺伝的に(子供が自然に)しつけられるのか、親が(育成の一環で)しつけられるのかという問題だった。それが今や「自然」対「育成」対「技術」の構図になった。

これから10年たてば、アルゴリズムで思考過程が形作られたヤングアダルトの時代が来る。これは世界をもっと深刻な分断に導く。

アルゴリズムは模範的な市民を作ろうとしないからだ。

あなたは子供にいい人間になってほしいと思うだろうし、幸せにする方法を理解したいだろう。

だがアルゴリズムはそうしたことはお構いなしだ。彼らは人間をお金の面で意味のあることに仕向けていく。AIが市民にもたらす影響を私は非常に心配している。

バイオテクノロジー(生物工学)もAIに関連してくる。文字通り違った種類の人間が作られていく。違った能力や耐病性を持ち、住む国や資金力に運命が左右される。

短期間にそうした技術力を手にしても、我々はどう利用するのかという責任ある答えを見出せない。そんな時代が極めて近くに来ると思っている。

ー切抜/イアン・ブレマー「日経新聞」インタビューより

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「経験」その主体と客体について。

2022-02-03 | 古今北東西南の切抜

(gif/source)

例えば機械化の時代に、こんなエッセーがある。

「機械化は身振りを、ひいては人間そのものを、いつしか精密かつ粗暴にする働きをもっている。

それは物腰や態度から、ためらい、慎重、たしなみ、といった要素を一掃してしまう。

機械化によって、人間の挙動は事物の非妥協的で一種没歴史的な要求に従わせられるのである。その結果たとえば、そっと静かに、しかもぴったりドアを閉めるというような習慣が忘れられていく。

自動車や電気冷蔵庫のドアはぱたんと締めなければならないし、その他のドアは、外から入ってくる場合念のためにあとを振り返ったり、自分が入っていく屋内を外部から守る、といった心遣いをしないでもすむように出来ている。

新しいタイプの人間を正当に評価するするためには、彼らが彼らを取り巻く周囲の事物からもっとも隠微な神経の内奥にいたるまで常住不断に蒙っている刺激を十分念頭に入れておく必要があるだろう。

いまでは押し開くように出来ている開き窓というものがなくなり、ぐいと力を入れて引き開けなければならぬガラス窓しかないこと、しずかにきしる取っ手が回転式のつまみに代わったこと、住んでいる家に玄関の間も通りに面した門口もなく、庭に張り巡らせた塀もないこと、そういったことは、そうした環境に住む人間に対してどんな意味を持っているのであろうか?

また自分の運転する車の馬力にそそのかされ、街頭の虫けらのように見える通行人や児童や自転車乗りを思うさまひき殺してみたいという衝動に駆られた経験は、自分で車を運転する人なら誰しも身に覚えがあるのではあるまいか?

機械がそれを操作する人間に要求する動作の中には、打ちつけたり、続けざまに衝撃を加える強暴さにおいて、ファシストたちの行う虐待行為との類似点がほの見えているのだ。

今日経験というものが消滅したことには、いろいろな物が純然たる合目的性の要請の下に作られ、それとの交わりをたんなる操作に限定するような形態をとるに至ったことが少なからず影響している。

操作する者には態度の自由とか物の独立性とかいった余分の要素を認めようとしない性急さがつきものだが、実はそうした余分の要素こそ活動の瞬間に消耗しないであとあとまで残り、経験の核となるものなのである」。

ー切抜/Th.W.アドルノ「ミニマ・モラリア」より

情報化といわれる今。機械化の時代とはまたちがう「消滅した経験」というものが増えていそうでもある。

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