南無煩悩大菩薩

今日是好日也

Stop Thinking About Who You Are. You Are Just You.

2019-04-30 | 古今北東西南の切抜
(bodhisattva/11th–12th century; wood, gesso, and pigment with gilding; Saint Louis Art Museum)

たとえば、「わたし」への関心は、自分らしさや個性を強調し、それを価値とする方向にも向かいます。資本主義のシステムは、そのような価値を探り出しては消費していくことで成長しますので、両者は実に親和的です。自分の個性や価値が商品化されていくのです。自分の事を伝えるセルフ・プレゼンテーションを考えてみましょう。自分の事を他人に上手に伝えるのは大事な能力ではありますが、それは多くの場合、何かの商品と同様に、自分の個性や価値を売っているように思われます。時には無理をしてでも、「自分はこんなにユニークな人である」と言わなければなりません。ただし、それは差異をつくり出し、差異を消費する資本主義の論理を人間に適用したものです。はたして、それはどこまで許容できるのでしょうか。

可能性の次元というのは、計算可能な次元ということです。モノにせよコトにせよ偶発性に乏しく、計算可能な次元で展開していきます。ここでは、人間も計算可能な「価値」として測られます。それに対して、私たちには可欲性という次元もあります。可欲性とは耳慣れない言葉でしょうが、何を欲するのか、何を望むのかが問われる次元です。資本主義は人間の欲望をかき立てます。私たちはしばしば、他人の欲望を欲することでモノやコトを消費しますが、本当は何を欲しているのでしょうか。何を望んでいるのでしょうか。

所有からも差異からも離れたところで、何を欲するのか。それは計算可能なものではありません。計算を超えたもの、可能性とは異なるものであり、何か根底的に偶然な出来事の到来を歓待することではないでしょうか。それはおそらく「わたし」というより「わたしたち」が出会う複数性の次元であるはずです。「わたし」がコントロールできるようなパッケージ化されたものではありません。ここでは、「わたし」は根底的に無力であることでしょうが、同時に極めて豊かな経験にさらされるのです。

こうした方向に資本主義がどう寄与するのか。それは、みずからの原理である計算可能性の次元に、別の次元を受け入れるようなスペース開けることによってだろうと思います。スペースをモノやコトによって埋め尽くすのではなく、出来事が生じるのを待つのです。

現在は貨幣が富の象徴だと考えられているのかもしれませんが、貨幣は単なる記号です。アダム・スミスが「国富論」で論じたのは、貨幣は富ではなく、労働が生み出すものが富だということでした。労働という新しい概念で富を理解し直そうとしたのですね。いまや労働に代えて富を再定義しなければなりませんが、いずれにしても富は貨幣ではないわけです。貨幣をどれだけ蓄えようが、或いは資本として回転させようが、それ自体が富だというわけには、ただちにはなりません。そうではなく、貨幣や労働を通じて可能になる社会的な条件の先に、人間にとっての豊かな富があるはずです。

ハンナ・アーレントは、人間に必要なのは労働ではなく活動だと言っています。アーレントの言う活動とは言葉を交換すること、より詳細には、ある種の公共的な空間で言葉を交換することです。自分が伝えたいことを持つためには、パッケージ化されたコトを追いかけても仕方ありません。また、言葉にするための技術は意味を持つでしょうが、プレゼンの能力を高めるだけではこれまた仕方ありません。伝えたいことがないのに、伝えるスキルばかりを磨けと言われても困りますよね。大事なことは何を伝えたいか、です。まさに何を欲するのかをギリギリと考えて、それを言葉にすることが重要なのです。

そのためには、「わたし」の内面に訴えるアプローチよりも、他人とのつながりの中でともに生きつつ、共同の経験を豊かにするアプローチのほうが有効だと思います。何も自分らしさや個性といった形で、無理やり差異をつくり出す必要などありません。それよりも「わたし」などというものを突き放して、可能性の次元を超えて、想像力を思い切り羽ばたかせたほうがずっとよいとおもいます。豊かさとは、こうした想像力が開くのですから。

近年広く共有されてきたマインドフルネスやセルフ・コンパッションという概念は、要するに自分をそこまで厳しく審問する必要はないのではないかという提案です。そして、その背景には、西洋近代哲学が問うてきた「わたし」という問いへの違和感があると思います。そもそも、真面目に「自分とは何か」などと問うことがおかしいのではないのか。どうしても問うのであれば「そんなものはわかりません」と答えておけばよいのではないか。そんな提案ではないでしょうか。

-切抜/中島隆博‘あなたを苦しめる「わたし」の正体’より
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漂泊のおもい止まず

2019-04-28 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(gif/source)

知らない海をながめてみたい、ではなく。

知らない海をながめていたい、のである。

『遠くへ行きたい』渥美清
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優も劣も無く

2019-04-27 | 酔唄抄。
(picture/source)

酒飲に優劣の感覚は無い。だから隣人のそれも闇の中。

そもそも優と劣とを分けるにはその分岐線が必要なのだがそれが定まらない。。その線を決めない限り優劣なんて言うものは存在しない。

したがって優劣なんていうものがよくわからないのである。。

Tom Waits - Just the right bullets


And God said “Love your enemy!”, and I obeyed him…

… and loved myself.

-Khalil Gibran
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Deep Dream

2019-04-24 | 古今北東西南の切抜
(gif-black hole/source)

大福や羊羹、みたらし団子など、甘味といったら和菓子しか知らない人を想像してみましょう。和菓子しか知らないとはいっても、テレビなどのようなメディアを通じて、アンコ以外にも、クリームを用いた甘味が存在すること、和菓子もひっくるめてそういった甘味をスイーツというらしいことは、彼も知っています。
その彼の目の前にチーズケーキが置かれています。周囲の人たちの様子から、彼はこれがスイーツであることはわかっているのですが、どのようなスイーツであるのかはまるでわからない。
ここに、スイーツとしては既に知っている(既知)、しかしスイーツの細目に関しては知らない(未知)、という状況が成立しています。

彼が一人称的知性を有するとしましょう。この知性は、知覚できないものは存在しない、と考える知性です。それは知覚したものから構成される、記憶の世界でも同じことです。記憶の中から、自分が今思い出している領域とそうでない領域が分離しない場合には、全部の記憶が押し寄せて来ます。分離した場合には、思い出さない部分は存在しないものとされ、思い出した部分だけが的確に想起されます。この知性は「分離」の知性なのです。

一人称的知性は、的確な分離を実現できない分離の知性です。従って、知覚された世界の外部は、存在しないものと見なされますが、目の前のチーズケーキの解釈に対して、記憶の全てが動員されることになります。それはスイーツである。しかし何であるか同定できない。つまり自分のスイーツのリストに存在しない。すると、もしかして、スイーツではないのではないか。スイーツであることと、スイーツでないことは、こうして同時に俎上にあげられ、スイーツであるか否かさえ決定できないことになります。

極端な一人称的知性を考えてみましょう。それはスイーツかスイーツでないか、の決定に留まりません。それはスイーツでないとしたら、何なのだろう。猫かも知れない。しかし猫のリストにもない。では猫ではないのかもしれない。いや猫でありスイーツであるという可能性はないのか。二つの性格の重ね合わせで、わかりにくいだけではないか。いやそうではない・・・・・こういったイメージの暴走が延々と続くことになります。自分と関係のあるものを、過剰に摂取し溜め込んでしまい、意味のない可能なデータの組み合わせが、野放図に実現される。

これこそが、悪夢です。人工知能が実現する、記憶の組み合わせの暴走をアートとして見せる試みが、ディープ・ドリームですが、それは一人称的知性のなせる業なのです。

(切抜/郡司ペギオ幸夫「天然知能」より)


Journey on the Deep Dream



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人は来んような。

2019-04-22 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(図/仙厓和尚)

仙厓禅師は脱糞の図にこの賛をつけた。

思うのは、うんこのようなものは人の来んようなところでなさねばならないもののひとつである。

それから、うんこやおしっこをしたくてたまらないようなときに、ものごとを決めたりするようなことは慎むべきである。

というような教訓である。
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Lupin the Third

2019-04-20 | 世界の写窓から
(gif/source)

【MV】 Yuji Ohno & Lupintic Five - THEME FROM LUPIN THE THIRD’89 (Lupintic Five Version) -Short Ver.-


自由ってのも、結構面倒なもんでよ。いつも自由でいるためには、やんなきゃなんねぇしんどいことだってあんだよ.

-Lupin3
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Something like this but not this.

2019-04-17 | 世界の写窓から
(picture/source)

そのように思いたい状況にある時ほど、そうでないことが多い。


(cartoon/original unknown)
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緑竹の青さよ

2019-04-16 | 有屋無屋の遍路。
(photo/source)

幸という人は、

生い盛る萌竹の葉緑極まりて群青、のようにはつらつ。でありました。

Folia - Baroque Violin, Viola da Gamba & Harpsichord


身罷りてまたそのさやけさを忍ぶもまた幸

Handel - Sarabande
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いつも何度でも

2019-04-14 | つれづれの風景。
(photo/original unknown)

万物発して清浄明潔の候、青の空のごとく有難きは蓬莱に似たり。ゆめゆめ忘れまじ。

【The Breeze Adventures】inori・hanami Always With Me
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思考の整理

2019-04-14 | 古今北東西南の切抜
quote/Jean Piaget)

身につけた知識は、もちろんさまざまな点で参考にはなります。だからといっていつまでも覚えておく必要はありません。

むしろどんどん忘れていいと私は考えています。忘れることが心配ならば、記録して必要に応じて見直せばいいのです。

もっと言えば、知識はどんどん忘れてしまって構いません。いくら忘れようとしても、その人の深部の興味や関心とつながっていることは忘れません。

忘れてもよいと思いながら忘れられなかった知見によって、一人ひとりの個性は形成され、そこから新しい思考やひらめきが生まれます。

こうして考えるのでなければ、真に創造的なことはできません。

その意味で思考の整理とは「いかにうまく忘れるか」だといえます。

-外山滋比古
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まわるまわるよ。

2019-04-13 | 世界の写窓から
(gif/original unknown)

私が新人類と呼ばれたあのころから幾年にもなりましょうか。そういえばくるくる回っていたような実感しかないような気もします。

今の人たちのほうが私よりもずぅっっと進化してるように今日も思い至った次第。

無分別のまま前例踏襲の世の中に嫌気がさしておったあのころ、よりずいぶんと愉快な世の中になってきたと喜びつつも、新人類は不滅的に上書きされ続けられるのだとだんだんにわかってきたような今日この頃です。

Yellow Magic Orchestra - Rydeen (1979)



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有機体の進化

2019-04-12 | 意匠芸術美術音楽
(picture/source)

‘子供は親がつくったのではなく、子供が親を刺激して自分がこの地上へ生まれ出るように盲目的に働きかけたと見るべきだ。'

-武者小路実篤/source

Mari Samuelsen - Timelapse
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直腸の耳痛

2019-04-11 | 古今北東西南の切抜
(gif/original unknown)

ある医師が感染症で痛みを訴えている患者の右耳に、耳の薬を指すように指示しました。

その医師は処方箋に完全に「Right ear(右耳)」と書かずに、Rightを略して「place in R ear」と書きました。

この処方箋を受け取った担当の看護師は正しく指定された滴数の耳の薬を患者の肛門にさしたのです。

*(担当医師は、「右耳に投与」というつもりでこう書いたが、略記された‘R'と‘ear'をつなげて「お尻(Rear)に投与」と読むこともできる。)

耳痛のために直腸を治療することに意味がないのは明らかです。しかし、患者も看護師もそれを疑問に思わなかった。

この話からは学ぶべき重要な点があります。

問題の多くは患者を担当している「ボス」つまり担当医師に対する盲目的な服従に原因があるということです。

「いかなるケースでも、患者や看護師、薬剤師、その他の医師たちは、担当医師の書いた処方箋に疑問を持つことはない」

-出典/マイケル・コーエン、ニール・デイヴィス「医療ミス-その原因と対策」より
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ロマンス、である。

2019-04-10 | 意匠芸術美術音楽
(photo/source)

Dmitri Shostakovich - Romance (from The Gadfly)


いのちを活き活きと彩るのは、予定調和や管理された可能性ではない。

予断のないそのときにどうするのか、その時の反応、どこからくるのかもしれないいみじくも湧き上がるとまどい。

そういったものを、私はロマンスと呼びたいのである。
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たしなみ

2019-04-08 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(photographer/Maurizio Buscarino)

たしなみは、平常ふだんの用意であります。かかることもあろうかと、用意し、作り、植えたのであります。それですから、万一の時の役に立つのであります。

用意をしながら、その時がとうとう来ずにしまっても落胆ということばとは縁のないこと。その用意こそ、いわゆるたしなみであります。

たしなみということは、効果如何を考えず、責任として尽すところに価値があります。誰への責任でしょうか。誰への責任でもありません。自分の職分としての責任であります。

維新時分の達識の人が、天を相手にすると言った意味です。人に知られず、効果を考えず、深く自分の職分を考えて、その準備を深めて行く。そのことに楽しみを持って行く。

これが本当のたしなみであります。故にたしなみという言葉には奥床しさという感じが伴います。
 
人に知られず、効果に現れずとも、たしなみの深い人には、奥床しさがほのぼのと立ち上がるものであります。気配というものは正直なものであります。

ある一事についての深いたしなみは、もうそのことの上のたしなみだけでなく、人間上のものになって来ます。

-岡本かの子「仏教人生読本」より

「平常心」と「不動心」ということについておもってみたりすることがある。

物事に際して、こころ常に平らで、こころ動ずることなく、接することが出来ればそれは大人(たいじん)とうものだろうし、そこにいたるも、たしなみ如何の成果であるのかもしれない。
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