南無煩悩大菩薩

今日是好日也

エゴとナレッジ。

2014-04-30 | 世界の写窓から
(photo/Haragos Zoltán,b.1932)

じゃがいもを大事そうに抱えて威嚇している。

エゴ丸出しでナレッジがない、だから、無邪気で素朴なの、だから、「かわいい」のである。

「Ego」は、「自我、うぬぼれ、自尊心」など、「Knowledge」は、「知識、認識、見聞」などと訳される。

「かわいい」と、子供はなめられてもいいが、大人はそういうなめられかたをすると、恥かしさ100倍である。

アインシュタイン博士によると、エゴとナレッジは反比例する。



エゴを悪いと云っているのではなく、むしろ大事な持ち物であり、その取扱量に注意が要るのである。

エゴは抑え込もうとすると生物的摂理に反するので良くない。ナレッジによって拡大を止め空気を抜く作業が大事だということだ。

膨張させた自我は脆弱性を増し、ちょっとしたことで自分を窮地に陥れる。


(photo/unknown)
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さつきのすすき。

2014-04-28 | つれづれの風景。

わたしは休めるところ、息を整えるところを探していました。

菜の花のひかり群れる土手や、青々颯々とした見晴らしのいいところや、さつき野の赤く白く萌ゆるところ、いずれもがそここそが休むべきところのように思われました。

そのうちわたしは久方に酷した身体の慰撫と喉の渇実なる欲求に応えるために、休息の場所を選びました。

それは、先秋の枯れ尾花が薫風に翻弄され乾ききった音をあたりにさざめかせている、葦の原の中でした。

青い空に枯れ葦原その下には若葦がシュッとシュシュッとのびつつある、そんな所です。

この季節の代表作のある場所は人であふれていましたが、そこには誰も居なかったし来ることもありませんでした。

そこで休んだことでわたしは今年もやる気になりました。そして枯れゆくものの良さが少しずつ解かってきたように感じるのです。

いや、わたしは枯れたものとともにあることが好きなのです。
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誰かが、

2014-04-26 | 世界の写窓から
(photo/The Devil and Daniel Webster)

「今我々が生きているのは、賢い電話と馬鹿な人間の時代だ」

と誰かが云っている。

「進化され過ぎて死にかかった」

文学を蘇生させたと、先日他界したガブリエル・ガルシア・マルケスの功績を誰かが讃えていた。


「あの人のことは忘れたけれど、あの人とのことは忘れない」と誰かが言うように、

自分を突いてくれるのは、しっくりとくる表現であったり指摘にあるのであって、誰ではなく誰かがでいいのかもしれない。
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擬態の難しさ。

2014-04-25 | 古今北東西南の切抜
(photo/Caligo by Bill Brandt)

「擬態は生物学において長年にわたる謎の1つです」
と、ウィスコンシン大学マディソン校(米国)の進化発生生物学者Sean Carrollは語る。

「系統的に近縁でない2つの生物種が互いによく似るというのは、自然界で最も驚くべき現象の1つです」。

20世紀初頭になって、擬態のような複雑な形質が、徐々に出現したのか、それとも1回の飛躍的な革新によって突然現れたのかという議論が交わされるようになり、その際に注目されたのがチョウの擬態だったという。

Nature ダイジェスト Vol. 11 No. 5によると、擬態の進化に関する論争に一石を投じそうな新たな知見が報告されたようだ。(参照

遺伝子レベルでの新たな知見らしいが、捕食者とのイタチごっこのような進化というものの「なぜ」に結び付けば面白いと思う。

科学的な知見はさておいて、この写真は梟に似ている「梟蝶」だ。この目玉おやじの擬態が捕食者を威嚇するのに一定の効力はありそうだが、この角度から見るとガチャピンに見えなくもない。

獰猛で精悍な梟のつもりが、のんびりと内気なガチャピンにどうしても見えてしまう。

つまりそう見えてしまうものにとっては、威嚇は正反対の親しみという意図せぬものに変わってしまうところが世の中の面白さだ。


(おまけ)
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開明派。

2014-04-24 | 世界の写窓から
(photo/Ralph Crane)

なせばなるなさねばならぬなにごとも

勇気ある挑戦か無謀な試みかはやってみなけりゃわからない。

・・スプリング・ハズ・カム・・。
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魚が目的ではない釣り。

2014-04-23 | 世界の写窓から
(photo/unknown)

作家の開高健さんは、「釣りとは絶対矛盾的、自己統一である」と語っていたようである。

「マキャヴェリの夢」として伝わっている話がある。
ある夜、彼は夢を見、家族に話した。それは歩行中、間の抜けた、貧しげな連中とゆき違い、次に厳粛な顔つきをした一団とゆき逢ったが、あれは誰かと人に訊くと、前者は天国へゆく人々で、後者は神の怒りにふれて地獄へ行くギリシャやローマの哲人たちだ、ということであった。そしてお前はどちらへ行きたいかと尋ねられ、私はあの馬鹿どもと天国へ行くより、後の人々と共に地獄へゆきたい、と答えたという夢であった。

マキャヴェリは天国ではなく地獄を釣りあげようと夢みたのかもしれない。

古来より「釣り」は、ある種哲学的な意味合いとの相性がよいようだ。

他人に馬鹿ではなかろうかと思われようとも、その行為に絶対的価値を置く者にとっては、神聖な哲学的行為となっていることがある。

釣ることを二の次にした「釣り人」はなかなかあなどれないのである。

(おまけ)

(unknown)
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私と自分のありざま。

2014-04-21 | 有屋無屋の遍路。
(photo by Paul Goldman)

私は頭に血が上っていた。

その時の「私」にとっては許しがたい無礼と無遠慮かつ不躾さに思わず「目にもの見せてやる」と私が挑みかかろうとした矢先、

「私」は「自分」を取り戻した。

いや、正確には「逆立ち」によって「自分」が「私」を制御したのかもしれない。

私と自分が、昔の在り様とだいぶ変わってきていることは確かだ。

それが、何かを得たことになるのか、何かを失ったことになるのか、それはわからない。

(おまけ)

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ナイス・デイの作成法。

2014-04-19 | 日日是好日。
(source)

一日を無駄にしないための方法は、とにかく一回は笑える日にすることだと、かのチャーリーも申しております。

これだけで、だれでも一日を有意義に過ごせるのですから、すばらしく簡単な方法です。

では、よい一日を。

(おまけ)

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言葉の収穫(ハーベスト)。

2014-04-18 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(photo/harvests mustard plants,National Geographic)

日経ビジネス2014,04,14号のインタビュー記事で、企業の社長を務めた方が企画課長のころ、当時の社長に言われた言葉が紹介されていた。

「君はアホやから、何が正しいか見極めるのは難しいだろう。だから美しいものを求め続けなさい」。

すごくいいサゼスチョンではないかと思いました。

勉強になったというよりもっと、収穫の喜びであります。
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人のために手伝う。

2014-04-17 | 世界の写窓から
(photo/BRENT STIRTON)

彼女は4歳、毎日2回4キロの道を歩いて家族のために水汲みをしている。

手の届く限りの、お手伝いだ。

自分以上の事はできないし、自分以下のこともしない。

精いっぱいのことをする。

彼女は問いかける、「人を助けるのに理由なんていらないでしょ?」
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新聞の読み方。

2014-04-16 | 古今北東西南の切抜
(photo/Gérard Castello-Lopes)

”ゴールドマンなどの投資銀行では、世の中の動きを見極める「マーケット感覚」が重視される。バンカーに限らず、ビジネスマンであれば、世界の動きに対して自分なりの意見を構築する力も必要だ。たとえば新聞でのニュースの取扱いは各社異なるのが一般的。これは、新聞ごとの重要度の判断によって、記事の大小がつけられるためだ。あるニュースがどの程度の大きさで取り上げられたかを把握するのは、重要なポイント。なぜなら、記事の大小は世の中の反応を測る指針にもなるからだ。ただし、オンライン版のニュースでは扱いが並列になりがち。トピックスの扱いの大小を把握するためにも、新聞は「紙で最低2紙」読もう。紙面を比較し、扱いに大小がある場合には、その理由を考える。この習慣が、自分の意見をより骨太にするのに役立つ” -プレジデント2014.5.5、エリートたちの「小さな習慣」より-

なるほど、頭を傾げたり斜めに眺めたりするとエリートになれる、かもよ、なのだ。
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幸運なこと。

2014-04-15 | つれづれの風景。

四葉のクローバーには、まとまって出会うことが多いということを聞いたことがある。

それも、よく踏みつけられる場所で多く出会うということを聞いたことがある。
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テスティング。

2014-04-14 | 世界の写窓から
(Yale Joel - Lipstick testing 1950’s -published in LIFE magazine)

私がなぜ、化学の道をこころざし、日夜研究・開発にいそしんでいるかといえば、

自分の力で創りだしたものを実感したいからなのです。

そしてできれば子供たちに「努力は嘘をつかない、試験を楽しめ」というメッセージを伝えたいのです。
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我慢は学びだ。

2014-04-12 | 古今北東西南の切抜
(photo/Ken DOMON)

心理学者ウォルター・ミシェル氏が考案したマシュマロ実験というものがある。

幼年期の子供たちにマシュマロ1個をもらってすぐに食べるのと、15分間我慢した後に2個食べるのと、どちらかを選ばせるという実験で、①マシュマロ1個を即座に頬張る、②少しの間我慢する、③15分間我慢するという三つの行動パターンでは、おおよそ均等に人数が分散するという結果が出た。
何年もの後、30代になった被験者のほぼ全員を再び調べた。すると子供のころに15分間ずっと我慢して高い認知制御(意志の力や自制心)力を示したグループの方が、すぐに食べてしまったグループよりもはるかに健康状態がよく、収入が高く、法律を守る傾向が強かったそうだ。

事実統計分析からも、子供が後に経済的に成功するかどうかを予測する指標としては、IQ(知能指数)、社会階層、家庭環境よりも自制心の強さの方が有用だと判明していると、EQ(心の知能指数)を提唱した心理学者ダニエル・ゴールマン氏はものの本に書いている。

つまりは、こういうことだろう、高い認知制御である意志の力や自制心に劣ると、何かに注意を向け、相手の立場に立って共感するといった、社会的な感受性に欠ける。

ダニエル先生はこうも書いている。
「社会的な感受性に欠ける人物は、すくなくとも他人の目からは容易にそうと見分けがつく。彼らは愚か者である。専門能力の高い人物が、他人に対して威嚇、締め出し、えこひいきなどを行う一方、それを指摘されると責任逃れ、激高、逆恨みといった態度を示す。あえて嫌な奴として振る舞っているのではない。自分の欠点に少しも気づいてないのである」

・・・。

親は子になるべく人並みのことはしてやりたいと思う。ただどうしてもそれができない場合もあろう。それでも、我慢する子はとても大事なことを学んでいるのだ。
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せっぱつまって。

2014-04-11 | 世界の写窓から
(photo/Sagi Kortler)

或る日急に道が開けたりすることはある。

だが突然、耳が聞こえるようになったり、幹細胞が現われたり消えたりすることもあると伺っている。

そうである事が本当で、そうでないことが嘘、

そうである事が嘘で、そうでない事が本当、

そういう事は本人が決めることで、どちらがしんどいかも本人に帰ってくることである。

あるかないか、そうだったかそうでなかったかということで、それまでの掌を返したような反応はいかがなものか。

どちらにしても、すくなくとも、厳密な意味で対峙する自他が共有できる「本質」というようなものは無に等しい。

心ある人は、どちらにしても、憶測の域は捨て、病人には優しく接するべきを知っているのである。

せっぱつまると人は思いもよらないことをするものなのだ。
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