南無煩悩大菩薩

今日是好日也

一葉落ちて天下の秋を知る

2019-10-31 | つれづれの風景。
(gif/source)

木の葉をいくつか。落ち葉をいくつか。ひとつづつ。みくらべてみる。葉脈、虫掛、乾湿、発色・・。

それぞれ違いながらそれぞれ美しい。

一生というもののなにものかをそこに思ったりする。

秋である。といってももう季節は冬まじかの秋である。

We are all the leaves of one tree. We are all the waves of one sea.We are all the stars of one sky. -Thich Nhat Hanh

Melancholy, Pt. 2

凡事徹底

2019-10-30 | 古今北東西南の切抜
(Quote/Cicero)

先生、礼をされてから、いつものように丁寧に黒板を拭われる。すると突然拭う事を止めて、じっとして考えていられる。

さらにご自身の指を黒板に当てて撫でられて、さて我々の方を向かれて「諸君にはわからんでしょうが、ここに小さな短いクギがささっているのです。そしてそのために、この拭いが引っかかって破れる恐れがあります。たぶんこのクギは、止めピンの首がとれて、クギだけが残ったのでしょう。誰か鉄の文鎮を持っている人はありませんか」と言われた。

するとS君が「はい持っています」と答えて取り出すのを受け取られて、すぐにコツコツとそのクギを打ち込まれた。

そして「すべて物事というものは、こうしてすぐに処置しておかないと、お互いに忘れやすいものですから」とおっしゃった。

-森信三「修身教授録」より

詩情喩え雲

2019-10-26 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(gif/source)

丘の上で
としよりと
こどもと
うっとりと雲を
ながめている

おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきそうぢゃないか
どこまでゆくんだ
ずっと磐城平の方までゆくんか

雲もまた自分のようだ
自分のように
すっかり途方にくれているのだ
あまりにあまりにひろすぎる
はてのない蒼空なので
おう老子よ
こんなときだ
にこにことして
ひょっこりとでてきませんか

-山村暮鳥

とても綺麗な空の青さにぐっときたり、ふと見上げた行雲にすくっと心があらわれたり。

喩えようもない感慨に遊べるということも愉快や愉快なことのひとつである。

ありがたい。すぐれた詩を少し知っているだけで、凡夫でもより豊かに風情を楽しめることだけは確かである。

山村暮鳥さんはかってこんなことを言っている、「詩が書けなくなればなるほど、いよいよ、詩人は詩人になる」。

まあ、座れ。

2019-10-24 | 世界の写窓から
(photo/original unknown)

ええか。お前の好きな蜂蜜を取ろうとすれば、得る蜜の快感よりも蜂に刺されるもっとひどい痛感がある。蜜を望む前にお前はそのことを知らなければならない。

ただ、刺されるよりも蜜を望むなら、お前は本物の熊だ。

Sit Down Beside Me


日々是好日

2019-10-21 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(gif/source)

決してどうすれば日々是好日となるというのでもなければ、何でもない。

元々われわれには何にもなかった。

それをいかにも何かあるように錯覚で右往左往していたのである。

つまり要るように思えていたものが、なあに要らぬものであったことさえハッキリすればいつでも日々是好日、年々是好年である。


凡夫というものは自分を本当に自分と思っておって、自分が喜び自分が悲しんでいると思って、一生終わってしまうものである。

しかし幸福の、不幸のというものはただ思うだけであって、本当の処は何でもないじゃないか。

-澤木興道禅師

Dave Brubeck Quartet - Koto Song

Ancient Forces

2019-10-20 | 古今北東西南の切抜
(photo/original unknown)

「ハロウィン=万聖節」のルーツはヨーロッパの古層「ケルト文化」の民間伝統「サウィン=万霊節」にある。厳かな「供養の夜」にして、全てが生まれ変わる新年への「おおみそか」でもある。

ではなぜこの季節になのか。北ヨーロッパの冬は厳しい。10月末へ向かう頃いよいよ木枯らしが吹き家畜や作物が育たない「冬=死」の季節が始まる。来年5月の太陽の復帰まで無事に生き延びられるのか保証がない古代中世だった。

この夜、時空が反転する。日常は「生と死を隔てる壁」が大嵐と共に取り払われ「この世とあの世」「古い時間と新しい時間」がエネルギッシュに交流し交代する。

ゆえに祖先や亡くなった人々の霊が戻ってくると信じられた。人々は身も心も清め、死者を思い、供養のため「魂のケーキ」を焼いて祈った。静かで厳かな夜だった。

年に一度の特別な生と死の親交が、浄化のカタストロフィ、大変動を起こし、大晦日は明ける。民間では今も11月1日はケルト歴の「元日」。死者を忘れぬ「供養」によって、生者も恵まれ、世界が「再生する夜明け」が訪れるのである。

生きている人間だけが、地球の主人公だと思い込んでいるのは、長い歴史の中でも、現代人だけではないだろうか。

-切抜/鶴岡真弓「あすへの話題」より

SÁMI FOLK MUSIC | "Ancient Forces"


ちなみに、茶道でも11月から4月までは「炉」を使うが、5月から10月までは「風炉」に変えるという。

*炉:畳の一部を正方形に切り取って、そこに火を蓄える小さな囲炉裏を茶道では「炉」と呼ぶ。
*風炉:5月からの夏場は、風が通るように一方を開けた「風炉」を畳の上に置き、上に乗せた窯で湯を沸かす。
*風炉から炉に変えるために、普通の畳から切り込みのある畳に変え、使う炭も風炉と炉では違い、その炭を茶室に運ぶための炭斗も、柄杓や釜の蓋、茶巾の置く場所まで、「炉」と「風炉」とでは違うのだという。

戒めに慣れず

2019-10-16 | 酔唄抄。
(quote/source)

私はこの歳になっても酒の呑みはじめはいつも初心である。

酒飲みに慣れてしまったらそれはウソの酒飲みになってしまう。

慣れた酒飲みの酒はクソの役にも立たんし体を壊すと思っている。

何時でも真新の酒の味をしらなければならぬ。

だから酒は初発心といった状態が一番よい。

慣れっこになったのを熟練したと思ってはならぬ。

酒の有難さ旨さに慣れてはいけない。

ゆえに、気を抜いてはならぬと今日も戒めている。つもりである。

カンバセーション

2019-10-14 | 世界の写窓から
(photo/source)

その伝聞によると、進化論の父は研究対象以上の愛情を「生き物」に注いでいた。今どきの愛護等とは比肩のない大局的かつ慈愛の目線を感じる。

それこそ父が子をおもうように。

いつの時代も子は問う。あなたは何を知っていたのですか?

同じように父も子に問う。君は何を知っておるのかね。

zarah leander adieu 1977

野の小麦、小川の水、岩にふくまれた塩。

2019-10-13 | 意匠芸術美術音楽
/仙厓禅師)

人生や社会の実態は、普通に思われているようなものではない。それは、ある者には明らかであり、ある者には知られていないパターンに従っている。

しかもそのパターンは一つではなく、複数のパターンが同時に働いているのだ。にもかかわらず人々は、あるパターンの一部から得た認識を他のパターンにも当てはめようとする。その結果、彼らは、本当の姿ではなく、自分たちの予期したものしか見出せないのである。

例として次の三つの事柄を取り上げよう。野の小麦、小川の水、岩にふくまれた塩。

自然のまま(生まれたまま)の人間は、このような状態にある。彼はある観点から見れば、その能力と有用性において欠けた点がある。

これらの三つの素材は、更に発展する可能性を秘めており、今の状態のままであり続けるかも知れないし、何らかの状況の変化によって、人間の場合は努力によって変化することもある。これが第一の領域の特徴であり、通常の人間が置かれている状態である。

しかし第二の領域においては、何かを更に為し得る可能性がある。努力や知識によって小麦を刈り集め、それを挽いて小麦粉にすることができる。小川から水を汲み、将来の為に蓄えておくことができる。岩塩を掘り起し、精製することができる。この領域には、単に変化するだけの最初の領域とは異なった可能性があり、蓄積した知識を用いることができるのである。

第三の領域は、これらの三つの素材が正しい量と割合で、しかるべき時に、しかるべき場所に集められて、始めて出現する。塩と水と小麦粉が混ぜられ、捏ね合わされて、練り粉が作られる。そこにイースト菌が加えられ、生命の要素が付加される。そして最後に、パンを焼くために窯に入れられる。この一連の作業の成否は、蓄積された知識と共に、それを取り扱う際の直感的な能力にかかっている。

万物の活動は、周囲の状況に、つまりそれが属している領域に対応している。パン作りが目的であれば、いつまでも塩作りの話をする必要はない。

--スーフィーの物語「三つの領域に関する例え話」より

Erroll Garner - Laura [Jazz 625]



粋か野暮かはたまたか

2019-10-12 | 古今北東西南の切抜
(photo/original unknown))

-四角いウンコの作り方
イグノーベル物理学賞
受賞理由:ウォンバットはなぜ、いかにして、立方体のウンコをするかの研究。
オーストラリアに生息するウォンバットは1辺約2cmの立方体の糞を排泄することで知られています。この製造機構を調べるため、ヤング氏らは交通事故で死んだウォンバットを獣医から入手して解剖しました。

ウォンバットの食べた物は液状になって消化管内を移動していき、腸の末端で固化します。腸の弾性は一様ではなく、方位角方向に変化していて、これが排泄物を立方体に成形することが分かりました。

なお、ヤング氏は2015年にもイグノーベル物理学賞を受賞しており、今回は2回目です。2015年の受賞理由は「ほとんど全ての哺乳綱において、おしっこに要する時間は21±13秒であるという生物学的原則の調査」でした。研究テーマに一貫性が感じられます。


-利きキンタマ
イグノーベル解剖学賞
受賞理由:裸と着衣のフランス人郵便配達夫の睾丸の温度非対称性の測定。

男性の左右の睾丸の温度を測定した研究です。裸の被験者、着衣の被験者、就業中の郵便配達夫、就業中のバス運転手について調べたところ、左の方が温度が高かったそうです。郵便配達夫を裸にして測定したわけではありません。(イグノーベル賞の受賞理由は正確に研究内容を引用していないことがあります。)

この研究は、精巣の精子を作る能力が右と左で差があるかどうかを調べる目的があり、これは男性の不妊治療につながる可能性があります。

(切抜/引用

ディスるという日本語があるらしい。そのディスは(disrespect)を略したものらしい。

翻って、イグノーベル賞のイグは否定を表す接頭辞的のIgであるという。

この二つは、「無礼、軽蔑、軽視」と「恥ずべき、不名誉な、不誠実な」ということであるが、奇妙にも共通点があるようにも思える。

つまり、使い方次第で粋にも野暮にもなるという点である。

ありがとう。でもそれじゃないんだ。

2019-10-11 | 世界の写窓から
(photo/source)

ある日のことです。玄関のドアを背負って歩いている婦人に出会いました。

それで聞いてみたんです。

「あなたは何故、そんなことをしているのですか」

その婦人いわく、

「朝、主人が仕事に出かけるとき、『うちには高価なものがたくさんあるので、このドアから中へは誰も通してはいけないよ』といったのです。
ですからわたしは、ここから誰も入っていけないように、外に出るときにこのドアを持ってきたのです」

えっ!と思ったので、

「そのドアを持ち運ばなくてもすむ方法を知ってますが、お教えしましょうか」

と言ったんです。そしたら、

「とんでもない。もしわたしを助けてくれるのでしたら、このドアを少しでも軽くする方法を教えてください」。

と言われました。

でも、わたしにその方法はわかりませんでした。

間違いではないが事実ではない。

2019-10-06 | 世界の写窓から
/英一蝶「衆瞽象を撫ず」)

盲人だけが住む町があった。

その町はずれに象を連れた旅人がやってきた。

やがて象のうわさを聞き、真相を知ろうとして、盲人たちの町から何人かの者が我先にと駆けつけてきた。

彼らは象と言うものを全く知らなかったので、各自が手探りで象の体に触れ、そして誰もが象の真実を知っていると思い込んだ。

彼らが街に帰ると、間違った道を歩んでいる者から真実を学ぼうとする誤った情熱に駆られた大勢の人が集まってきて、口々に象について尋ねはじめた。

耳に触った者はこう答えた。「大きな、ざらざらした、平べったい生き物で、まるで絨毯のようだった」

「いやそうではない」と鼻に触った者が反論した。「管のような体をした、獰猛で危険なやつだ」

足に触った者はこう言った。「丸くて、太くて、がっしりした、柱のような生き物だ」

全員が象の一部にしか触れていなかったので、その理解は不正確であり、すべてを知る者は一人もいなかった。すべての者がなにかを思い描いてはいたが、それは事実に反するものだった。

誤っている可能性がある相手なら、話は半分に聞いておいた方がよろしかろう。