南無煩悩大菩薩

今日是好日也

一文惜しみの百知らず

2021-07-12 | 古今北東西南の切抜

(picture/source)

大阪大学社会経済研究所を中心としたグループは「日本人はいじわるがお好き?!プロジェクト」と呼ぶ研究を実施した。

研究の核となったのは二人一組で投資し合い公共財をつくるゲーム。二人で投資額を増やせば公共財はその分、充実する(自分も相手も得)。だが、自分だけが投資をすれば、投資額に見合うリターンを得られず、相手は労せずして恩恵に浴することになる(自分は損、相手は得)。逆に相手にだけ投資をさせれば、自分は大きく得をする(自分は得、相手は損)。

こんなゲームを各国で実施し、国ごとにプレー中の振る舞い分析したところ、日本人と他の国の人では行動に明らかな違いがあることが判明した。

米国人や中国人が「相手は相手、自分は自分」と自らの利益を最大化しようとするのに対し、日本人はたとえ自分が損をしても他人に損させようとする「嫌がらせ行動(スパイト行動)」を優先する傾向が有意で顕著だったのだ。

ここから一つの仮説を素直に導くならこうなる。日本人の中には他人の成功をねたみ、足を引っ張ろうと考える意地悪な人が他の国よりも多く存在する。ということだ。 ー日経ビジネスより

ところでこんな話を思い出した。その昔ある歯医者にケチな男が来て虫歯一本を抜く定価二文(にもん)というのを、一文に負けろとしばらく口論していたが、どうしても負からないとなると、それでは二文にもう一文加えて三文払うから三本の歯を抜いてくれと無理やり頼み、虫歯でもないもう二本までも抜かせ、「ここらが駆け引きの妙である。三本抜かせたから、やはり一本当たり一文ではないか」としたり顔の大喜びで帰って行ったという。

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もつれた糸

2021-07-06 | 意匠芸術美術音楽

(/林静一)

ある日曜日の朝でした。ご飯を食べてから間もなく外に遊びに出ようとした房子を呼び止めて、お母さまはお云いになりました。

「房ちゃん、ゆうべのことを忘れたのですか。あれをちゃんと立派にしてからでなくては、遊びに出ませんというお約束ではなかったの?」

お母さまのこのお言葉に房子はハッと一つの事に思い当たりました。それは自分の不注意から、お裁縫用の糸をひどくもつれさせてしまって、眠たい目をこすりこすりそれをほぐそうとしたが、どうしてもできなくて、とうとう泣き出してしまった、ゆうべの出来事でした。

そしてそのことを思い出すとともに、房子はその時たまらなくなって「お母さまよくして頂戴!」と泣き出すのを遮っていったお母さまの言葉がはっきりと浮かんできたのでした。

「あなたがもつれさせたのだから、あなたがほぐせないわけないでしょう。今晩はそのままにしてお休み!そして明日の朝、せいせいした静かな気持ちで。落ち着いてゆっくりとほぐしてごらんなさい」

房子はこれほど大切なことのあったのを忘れて、朝早くから遊びに出ようとした自分を、しみじみ悪いと思いました。そしてそう思うと同時に、あわてて手箱の中から昨夜のままになっている、もつれた糸を取り出してほぐしにかかりました。

糸のもつれはかなりひどくなっていました。おまけによく調べてみると、昨夜の眠たさとじれったさのあまりに、ほぐそうとしてかえって自分の手でこぐらかしたようなところもありました。

はじめのうちは外で唱歌をうたっているお友達のことなどが気になって、なんとなく心が落ち着きませんでしたが、「おちついて、ゆっくり」や「あなたがもつれさせたのだから、あなたがほぐせないわけないでしょう」とおっしゃったお母さまの言葉を思い出して、房子はじっと心を落ち着けてみますと、おいおいもつれた糸の糸口もわかり、もつれた順序もわかってきて、自分でも不思議なほど楽に、やすやすとほぐれてゆきました。

そしてとてもほぐれるものではないと思ったそのもつれ、「こんなめんどくさいことをしなくたって、チョキチョキと鋏で切ってしまったら、それでいいではないか」とまで思いつめたそのもつれが、いよいよ りっぱ に ちゃんと ほぐれた時の房子のうれしさは、とてもとても言って見ようのない嬉しさでした。

そればかりでなく、房子は急になんだか、たいそう大きな力が、自分に与えられたような気持ちさえするのでした。

房子の目に映ったその日の青空の広かったこと!美しかったこと!

ー相馬御風 「曇らぬ鏡」より

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あとがき

2021-07-04 | 古今北東西南の切抜

(picture/source)

パンデミックの日本での出現からはや一年が過ぎた。

我々はこの一年で多くのことを経験してきた。この病気とその流行の仕方に関しての科学的知識も蓄積されてきた。この経験と知識の集積はわれわれに学びをもたらすべきもの。確かに医療の面で確実に学びはあった。

だが一般生活でどうだったのか。わからないことがわかり、間違えていたことを確実な知識に基づき正しく変えていく。それが学びに期待されるとして、われわれは本当に学んでいたのか。

今も変わらず末端ではおかしなことが散見される。小学校の運動会、大いに盛り上がるリレー競争が中止でみながっかり。どうもバトンの受け渡しが感染リスクらしい。どこにいっても、目障りなアクリル板があり、駅のベンチは一つおき、多くの死者が出ているのに遺体の扱いも改まらない。多くの人がこんなのはおかしいと変だと感じているのに、一向に修正できない。いったいなぜ?この事態の打破のためにはどこを相手にどう変えていけばよいのか。

まず相手である。一義的には行政、専門家と言われる人たちとマスメディアである。先に著した「正しく恐れる」で私は、彼らの一般の人々へのミスリーディングを非難してきた。次に一般の人々である。本書ではさらに、社会でこの一年の学びが行動に現れない問題も取り上げた。たとえば子どもの保護者と学校の問題、市中でのアリバイづくり的対応の蔓延など。

たとえば、面倒なので自分からは始めないとか、とにかく自分関連から不都合は出さないという保身とか、あるいは世間に対する忖度とか・・。もはや一般の人々が常に一方的被害者であるとする漠然たる前提が、きわめて甘かったと言わざるを得ない。

多くの人が、ときに大本営発表かと思われるような大手メディアが内容の精査もなく流す誤りを含む情報をそのまま受け取り、あるいは「専門家」や素人批評家が「政府は手ぬるい」と激しく批判するのを見聞きさせられている。

メディアはまた、自分に何ら影響も無さそうな通りがかりの人の「なんで飲食店の時短をもっと厳しくやらないのか」という勝手で無責任な声を街の声として報道し、たまに探し出してくる苦しい人の声については悲惨さを強調するだけ。別にそこに手を差し伸べるわけではない。

隣組の監視よろしく自粛警察、マスク警察が跋扈。メディアは自分たちの報道の仕方にもその責任の一端があるのに、そのことの自覚もない。そして、当の本人たちは自分たちが非難されているとは思っていない・・という図式がある。

「私たちはパンデミックと戦っているのではない。この社会と戦っているのだ」これは友人の作家が拙訳書「ワクチン、いかに決断するか」の帯に寄せてくれた言葉である。この本は、「可能性」の話が大統領まで伝わるうちに「これから起きること」になってしまい国家的大騒動を引き起こしてしまった、米国で実際に起きたリスク・コミュニケーション(リスコミ)の失敗の典型例に関する報告書である。

もし今、去年から日本で起きていることの本質を一言で表せと言われたら。私はこの「リスコミのまずさ」を挙げたい。それは「専門家」の誤った解説のメディアによる垂れ流しだったり、行政の説明や発表の仕方であったりする。

たとえば、当初からの手指による感染の過剰な脅しと空気感染の無視であり、一方で最近は、世界的に空気感染が認められそうな気配を感じてか、一転して「変異株」の出現とペアにした空気感染の恐ろしさの植え付けである。新旧どちらもいたるところにウィルスがうようよいるような恐怖感を人々に与え、やり過ぎを招いている。

話を戻すと、私の向かう相手は、行政、「専門家」、マスメディアそして世間一般の新型コロナ対策の中にある誤りが延々と続けられる「理不尽」である。それは「社会」の理不尽である。

つぎは闘い方である。私はその手の理不尽と闘ってきた。だが、それは、何か大きな怪物に逆らっているだけで、結局は「蟷螂の斧」に過ぎない。時にそれを思い知らされる。私は、ひとは皆自分の持ち場でそのときどきに精一杯やればいいと思っている。結果がどうなろうと、自分の持ち場で自分の闘いをすればよい。そう考えねばやっていけない。

この「あとがき」を書いている最中に一つの悲しい報道があった。一人の小学生が体育の授業でマスクをつけたまま持久走をしていて亡くなったという。夏に向けて「外の体育の授業ではマスクを着けなくてもよい」との文科省通達があったにもかかわらずという。むろん着用が死因とは断定できない。たしかに医学的には直接的原因は別かもしれない。だが、着用による息苦しさが引き金となった可能性は高く、それを無視し続ければ、同様なことがまた起きかねない。

子供の健康のことを考えればマスクは外させるべきであり、子供の心理まで考えたら、指導は「着けなくてもよい」とか「心配なら着けてもよい」ではなく、「外しなさい」であるべきである。

私は怒っている。この怒りは、もしかしたら「蟷螂の斧」などと言っている自分自身に対してかもしれない。

-切抜抜粋/西村秀一「正しく恐れるⅡ」あとがきより

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