南無煩悩大菩薩

今日是好日也

黒い光、白い闇

2017-02-25 | 意匠芸術美術音楽
(photo/Victor Hugo On his deathbed, 1885 by Félix Nadar)

ストイックな超人ジャン・ヴァルジャンを生み出したヴィクトル・ユゴーは、超人的な好色の牧神でもあった。

恋するアデールを妻とした初夜に九回交合したと彼自身が述べている。その絶倫の精力は老いても毫も衰えず、最後の年の八十三歳の一月一日から四月五日までに八回、女と交わったという記録がある。

死ぬ数日前にも、文学者協会の委員と料亭で会食した際、彼は居眠りしているように見えたが、やがて彼のために乾杯が行われると、立ち上がって熱弁をふるい、さっきまで居眠りしていなかったことを証明した。

五月十六日に彼は付き添いに言った。

「私は死んだ」

「何をいうのです。ぴんぴんしていらっしゃるじゃあありませんか」

「君がそう思うだけなのさ」

彼は何か異常を感じていたのであろう。十八日に彼は倒れた。ベッドに寝かされたときにユゴーはいった。

「君、死ぬのはつらいね」

「でも、死んだりなさるものですか」

「いや死ぬね」

しばらくして、スペイン語でいった。

「だが、死を大歓迎するよ」

死の床にある間に、彼は、

「ここで夜と昼とが戦っている」

と、つぶやいた。

三十二日朝から臨終の苦しみがはじまった。彼は、砂利に打ち寄せる海の音のようなあえぎをつづけ、午後一時三十七分に息をひきとった。「黒い光が見える」というのが最後の言葉であった。

ロマン・ロランは「老いた神が断末魔の苦しみに喘いでいたとき、凄まじい嵐がパリを襲い、大旋風が巻き起こり、雷が鳴り、雹が降った」と記している。

五月三十一日、偉人廟(パンテオン)に葬られたが、パリ全市をあげて、フランスに新しい神が誕生したことに有頂天になって、さながらバッカスの祭りのようであった。

-山田風太郎「人間臨終図巻」より-