海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

岩手県宮古市へ

2011-06-02 23:48:17 | 政治・経済




 5月末に岩手県に行き、宮古市、山田町、大槌町、釜石市を訪ねた。
 沖縄で暮らしていて、普段はテレビをほとんど見ないので、新聞や雑誌、インターネットで情報を得ているのだが、しだいに被災地の人々の置かれている状況から意識が遠ざかり、福島第一原発事故の問題に意識が偏っていくのを感じていた。加えてインターネットで東電や原子力保安院の記者会見などを見ていると、原発事故の技術的側面に関心が向かいがちになる。
 原発事故がもたらしている被害の大きさ、いつ収束するか予測もつかず、放射性物質が漏出し続けている状態の危うさ、事故が政治、経済、社会全般に与える問題の深刻さはいうまでもないが、原発事故を考えるにしても、実際に放射能汚染にさらされている福島の住民の状況をまず第一に考えなければ、という思いがあった。そのためにも福島に行って自分の目で確かめたいと思い続け、5月になってやっと行くことができた。
 たとえ限られた時間、範囲であっても、被災地が置かれている状況をもっと自分の目で確かめる必要を強く感じて沖縄に戻った。五月の中旬は日程の都合や色々とやるべきことがあり、5月26日に岩手県に向かった。翌27日に宿を取っている盛岡市から国道106号線を通って車で宮古市に行った。福島と同じように途中の山間部は新緑が萌え、田畑は植え付けの時期を迎えていた。











 盛岡市から100キロ余り、宮古市に入って国道106号線を港の方に向かう。閉伊川の河口部付近に近づくにつれて津波の被害が目立って大きくなり、被災した建物の取り壊しやがれきの撤去作業が行われていた。写真は築地2丁目から光岸地、鍬ヶ崎上町付近の様子。魚市場の西側はまだ多くのがれきが残っていて、道路脇にゴミ袋が積まれていた。









 魚市場の様子。津波で破壊された屋根の下は片づけられていたが、ひっそりとして人の姿はなかった。









 鍬ヶ崎下町付近の様子。港近くから内陸の方に津波の被害が広がり、パワーショベルを使ってがれきの片づけ作業が行われていた。
 コンクリートの家の土台があちこちに剥き出しになり、その一つに子供用の自転車が置かれていた。







 日立浜町の港の様子。冷凍工場近くの港のがれきからは魚介類の腐敗臭が漂っていた。工場や住宅地の被災の跡が生々しかったが、港では数名の漁師が小船の修理を行っていた。











 港の一角に「被災家屋等廃材仮置き場」が設けられていた。廃材だけでなく家具や生活用品などをふくめ山をなしていたが、これらを分別して焼却や埋め立て、再利用などの最終処分を進めなければならない。予算や最終処分施設建設、処分場の確保など、その困難さは想像するに難くない。
 歩道沿いに積み上げられた物、物、物を見て歩く。それらは使い古して出されたゴミではなく、3月11日に突然破壊され、人々から奪い去られた生活の痕跡である。その膨大な集積にカラスが群れていた。
 港内の歩道に立つ外灯は3メートルほどあったが、電球部分が破損していた。









 向町や大通町付近。壁が破壊された家はもとより、一見すると外形を保っているように見える家も、内部は滅茶苦茶になっていて、解体許可の文字がスプレーで記されていた。半壊した家屋の取り壊しも進められているのだが、重機や作業員の数は限られている。被災地のがれきの撤去はいまだ15パーセントしか進んでいないというが、被害の甚大さに比べ作業にあたる人と機械が余りにも少ないのを各所で感じた。





 高浜地区の民家の壁に書かれた文字と、浄土ヶ浜の売店の入口を閉ざしたベニヤ板に張られていた小学生の詩。







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