海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

忘れずにいたいこと

2010-07-29 18:50:00 | 米軍・自衛隊・基地問題
 10年前に行われた九州・沖縄サミット当時に書いた文章を資料として7本載せた。最初の〈「沖縄サミット」に思う〉はサミット主会場が沖縄に決定した1ヶ月後に書いたものだ。当時、サミット誘致に成功したと沖縄中が沸き立っていた。その背景に普天間基地の辺野古「移設」を進めるという狙いがあり、前年11月に誕生したばかりの稲嶺保守県政を支援するために政府が行った「格段の配慮」であることは、辺野古「移設」に反対している人たちだけでなく、稲嶺知事をはじめとした保守の側や、県内メディアも分かっていたはずだ。しかし、意識的にそのことには触れずに、「先進国の首脳」が沖縄にやってくるだの、世界に向けて沖縄をPRできるだのと浮かれ騒いでいた。
 1998年11月に行われた沖縄県知事選挙では、内閣官房機密費から3億円が保守の稲嶺恵一氏の陣営に渡されたと鈴木宗男議員が証言している。政府にたてつく現職の大田昌秀氏を追い落とした日本政府は、誕生したばかりの稲嶺知事への支援策を次々に繰り出す。サミット主会場の決定をはじめ、守礼門を絵柄にした2000円札の発行、10年で1000億円という北部振興策など、今に至る「アメとムチ」政策である。
 そういう政府の厚遇に答えるように、稲嶺知事が行ったのが新平和祈念資料館の展示内容改竄であった。それに対しては県内で激しい批判が起こり、稲嶺県政は大きな打撃を受けることになった。その稲嶺県政を支えるために高良倉吉、大城常夫、真栄城守定という三名の琉大教授(当時)が「沖縄イニシアティブ」を主張し、御用学者ぶりを発揮する。〈サミット沖縄開催の意味〉で1999年4月から2000年7月にかけて起こったことを簡単に箇条書きにして並べたが、その頃、沖縄でどれだけ激しい動きがあったかが分かるはずだ。
 日本政府、稲嶺県政、岸本名護市政が一体となって普天間基地の辺野古「移設」=県内たらい回しを進めようとする中で、反対運動はこの時期とても厳しい状況におかれていた。ヘリ基地反対協を中心に岸本市長のリコール運動を展開したが実現にはいたらず、大々的に繰りひろげられる九州・沖縄サミットの宣伝(沖縄のメディアの翼賛報道ぶりも酷かった)と関連行事、ばらまかれる振興策によって保守勢力が活気づき、名護市民投票で勝利した勢いも失われていた。
 しかし、そういう中でも辺野古や名護、沖縄の各地域で反対運動が続けられていた。たとえ一時的にたたかいの火は小さくなっても、それを消さないかぎり再び大きく燃え上がる時が来る。そのような思いを胸に反対運動を地道に続けてきた人たちがいたからこそ、その後の海上基地建設阻止のたたかいの高揚を生み出し、辺野古の海をつぶして新基地を建設するという策動を、今に至るまでくい止めることができたのである。
 10年前、サミット狂想曲に踊らされることなく、各地域で粘り強く取り組まれていた運動の意義を忘れないでいたい。

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1 コメント

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継続 (りゅう)
2010-07-31 15:15:38
 サミットの頃には西原の不幸の多い箱の中で右往左往し、サミットのために沖縄に来る世界の偉い人のための万が一の準備の様子を見ていた。大騒動だった。サミット開催は新聞でも読んでいたがどちらかといえば無関心だったと思う。
 沖縄もヤマトも食べ物と遊びの中で、目隠され、考えないように飼いならされて今現在もあの戦争が底流で続いているように思えてならない。
 だまされ、金に追われて、一番大事なもの(こと)を捨ててきたように思う。
 忘れないように原点を見つめなおすことが継続できるようにいつも足元を固めたいと思う。
 自分の出来る事を続けること、と思う。
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