1971年1月13日に沖縄にあった毒ガスの第1次移送が行われている。それから40年ということで県内紙は特集を組んでいる。
1969年7月8日、米軍知花弾薬庫地域内で毒ガスが漏れ、要員24人が病院に収容される事故が発生した。米軍は事故をひた隠しにするが、7月18日に米国の『ウォール・ストリート・ジャーナル』の報道によって事故が明らかとなる。当時、沖縄にはGBガス(サリン)、VXガス、マスタードガスなどの毒ガスが貯蔵されていて、その事実は住民を恐怖に陥れた。
以後、沖縄では島ぐるみの毒ガス撤去闘争がたたかわれ、その結果、米軍は米国領内ジョンストン島への毒ガス移送を開始する。第1次移送は1971年1月13日に沿道の住民5000人を避難させて、150トンを天願桟橋から船積みした。さらに同年7月15日から9月9日にかけて毒ガス移送が行われた(以上、『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社刊を参考にした)。
毒ガス移送が行われたのは私が小学校4年から5年にかけてだ。去年の12月26日の本ブログで、毒ガス移送の現場を目にしたときのことを少し書いたが、沿道の住民は避難させても、市民生活を全て止めることはできない。毒ガスを積んだ米軍トレーラーが移動する先々で、車両規制された交差点などで車内から移送の様子を目にした人は大勢いたはずだ。そういう人たちはもちろんのこと、取材した報道陣や警備の警官たちにしても、どれだけの人が防毒マスクを持っていただろうか。
私が目にした移送が何月何日のことだったかははっきりしないが、おそらく夏場でも車の窓は閉め切られていただろう。目の前を米軍トレーラーが通り過ぎていくのを見ながら、荷台に積まれた毒ガスの容器が、農家が牛乳を搾って入れる容器に似ているな、と思ったことを憶えている。当時、身近に酪農農家はなく、搾乳の様子や牛乳を入れる容器はテレビで見ただけだが、大きさや形からそういう印象を持った。
あと、沿道の住民が避難しているということはニュースで知っていたので、こうやって目の前で見られることへの驚きや、大丈夫だろうかという不安と好奇心が入り交じった気持でいたことを憶えている。移送中に事故が起こらなかったのは幸いだったが、沖縄に秘密裏に持ち込まれた時はどういう状況だったのか、と想像するとゾッとする。
毒ガス移送は当時小学校高学年だった世代にとっても、天願桟橋、ジョンストン島という地名とともに、「日本復帰」前の忘れられない出来事としてある。同時に、その記憶は40年経っても変わらない沖縄の基地の現実を認識させずにおかない。
1969年7月8日、米軍知花弾薬庫地域内で毒ガスが漏れ、要員24人が病院に収容される事故が発生した。米軍は事故をひた隠しにするが、7月18日に米国の『ウォール・ストリート・ジャーナル』の報道によって事故が明らかとなる。当時、沖縄にはGBガス(サリン)、VXガス、マスタードガスなどの毒ガスが貯蔵されていて、その事実は住民を恐怖に陥れた。
以後、沖縄では島ぐるみの毒ガス撤去闘争がたたかわれ、その結果、米軍は米国領内ジョンストン島への毒ガス移送を開始する。第1次移送は1971年1月13日に沿道の住民5000人を避難させて、150トンを天願桟橋から船積みした。さらに同年7月15日から9月9日にかけて毒ガス移送が行われた(以上、『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社刊を参考にした)。
毒ガス移送が行われたのは私が小学校4年から5年にかけてだ。去年の12月26日の本ブログで、毒ガス移送の現場を目にしたときのことを少し書いたが、沿道の住民は避難させても、市民生活を全て止めることはできない。毒ガスを積んだ米軍トレーラーが移動する先々で、車両規制された交差点などで車内から移送の様子を目にした人は大勢いたはずだ。そういう人たちはもちろんのこと、取材した報道陣や警備の警官たちにしても、どれだけの人が防毒マスクを持っていただろうか。
私が目にした移送が何月何日のことだったかははっきりしないが、おそらく夏場でも車の窓は閉め切られていただろう。目の前を米軍トレーラーが通り過ぎていくのを見ながら、荷台に積まれた毒ガスの容器が、農家が牛乳を搾って入れる容器に似ているな、と思ったことを憶えている。当時、身近に酪農農家はなく、搾乳の様子や牛乳を入れる容器はテレビで見ただけだが、大きさや形からそういう印象を持った。
あと、沿道の住民が避難しているということはニュースで知っていたので、こうやって目の前で見られることへの驚きや、大丈夫だろうかという不安と好奇心が入り交じった気持でいたことを憶えている。移送中に事故が起こらなかったのは幸いだったが、沖縄に秘密裏に持ち込まれた時はどういう状況だったのか、と想像するとゾッとする。
毒ガス移送は当時小学校高学年だった世代にとっても、天願桟橋、ジョンストン島という地名とともに、「日本復帰」前の忘れられない出来事としてある。同時に、その記憶は40年経っても変わらない沖縄の基地の現実を認識させずにおかない。