海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

『記録 自決と玉砕』より1

2008-06-03 19:13:47 | 日本軍の住民虐殺
 安田武・福島鑄郎編『記録 自決と玉砕 ーー皇国に殉じた人々』(新人物往来社・1974年刊行)は、題名の通りにアジア・太平洋戦争における日本軍人と民間人の「自決と玉砕」についての記録である。1943(昭和18)年5月のアッツ島の玉砕から始まり、ニューギニア、サイパン、グアム、ペリリューなど太平洋の島々や硫黄島、沖縄の玉砕、さらに満蒙ソ連国境における「集団自殺」や敗戦を機に起こった軍人や右翼団体員の個人、家族、集団での自決について、昭和20年代から30年代に書かれた文章を集めている。
 解説の仲で安田武氏は「自決」と「玉砕」の違いについて次のように記している。

〈直接に言い直せば、第一に「玉砕」とは、勝算なき戦いの絶望的な死を意味していた。成算をもたぬ無謀な集団死ということであった。だが、第二に、それはサイパン島や沖縄玉砕の例が示すごとく、単に敗退した戦闘員の全滅だけではなく、非戦闘員への集団的な強制死をも意味していたのだった〉(359ページ)

〈「玉砕」とは、この場合、強制された集団死を意味していた〉(359ページ)

〈それ(玉砕)は勝算なき無謀な戦いの敗北という事態を背景として引き起こされた集団的な強制死であった、ということがいえよう。
 これに対して、「自決」の場合は、その文字の通り、「玉砕」とは異なる若干の自発性、即ち、自決者自身の判断なり、選択なりが含まれている、といっていい〉(359ページ)

〈自決と玉砕はちがう。後者は、いかなる場合においても、その背景に絶対的な強制力が働いていて、あの道この道を選択する余地は、ほとんど残されていなかった。これにたいして、前者では、当事者ひとりひとりの自発的な選択が、ある条件付きではあったが、まだ生きていた〉(360ページ)

 安田氏が「玉砕」という語句の説明として使った「集団的な強制死」「強制された集団死」という表現が、沖縄戦研究者の石原昌家氏に大きな示唆を与えたことは、石原氏自身が書いている。「集団自決」という語句を批判的にとらえて「強制集団死」といわれる場合に、それが安田氏らによって1974年から本書で使われていたことは、記憶にとどめておく必要がある。
 以上の点において、本書は沖縄戦を考える上でも必読の本なのだが、その中には、沖縄戦を先取りするようにグアム島やサイパン島で行われた、日本軍による一般邦人への虐殺の記録も載っている。
 グアム島における日本軍の住民虐殺について、平塚柾氏(太平洋戦争研究会)は「グアム玉砕記」で次のような日本兵の証言を記している。米軍上陸時、グアム島には民間会社の駐在員や農園経営者、その従業員の家族、慰安婦など一般邦人が三百名近くいたという。一部は内地送還されたが、残された民間人のうち、男は老人以外軍属として戦闘に参加させられる。憲兵隊に避難誘導されていた婦女子は、日本軍が敗走するなかで邪魔物扱いにされていた。

 〈戦車第九連隊の中隊長付き伝令兵だった水田一一さん(北海道北見市在住)は、伝令の途中、その婦女子を引率中の憲兵隊に出会う。
「そこのリーダーと知り合いだったんで、憲兵隊が引きつれていた三百人くらいの女や子供を誘導することになった。ところが、高原山のほうだったと思うけど、すごい断崖のとこでやね、まだ戦うことのできる男は残して、憲兵隊は女や子供たちに飛降り自殺をさせた。飛び降りることもできん人間が三十人ほど残ったんだけど、憲兵はその人たちの手を数珠つなぎにして、その真ん中に手榴弾を投げたんです。みじめだったなあ。手榴弾がたくさんあれば、まだ楽だったかもしれないけど、少ししかなくてねえ。すぐに死にきれん人は見ておれなかったです」
 また、某憲兵少尉から「赤ん坊が泣くと敵にわかる、子供は海に投げ捨てろ」といわれたものの、さすがに自らの手ではできず、軍医に「薬で赤ん坊を殺してください」と集団で申し出た母親たちもあった。軍医中尉だった吉田重紀さんは頼まれた軍医の一人だった。もちろん吉田さんは薬もやらなければ、要望も受け入れなかった。後に吉田さんは米軍の収容所に入ったのだが、そのとき「もしあの憲兵少尉がきたら、戦犯として米軍に突き出してやろうとも思っていた」という。だが、最後まで収容所に少尉の姿は見られなかった〉(90~91ページ)。

 民間人のうち戦闘に使える男は残して、足手まといになる女性や子供には「自殺」を強制し、自ら死ねなかった者は殺してしまう。「集団自殺」の強制と住民虐殺が表裏一体のものとして行われている。沖縄戦に先立ってグアム島で起こっていた日本軍によるこの蛮行は、沖縄戦におけるそれと共通の構造を示す重要な証言であろう。「赤ん坊が泣くと敵にわかる」から殺せ、というのも、沖縄戦で数多く起こったことである。
 そこには住民を守ろうという発想は微塵もない。むしろ、戦闘の邪魔になる女性や子供は殺すか死に追いやる、という冷徹な皇軍の論理が実行されている。それが慶良間諸島や沖縄島の各地でもくり返されたのである。崖から飛び降りさせるかわりに手榴弾を渡して死を促すのも、皇軍による死の強制という点において変わりはない。
 天皇の臣民として国体護持のために命を捧げるのは当然のこと。死がそのような論理で正当化されるとき、民間人へ死を強制する日本軍人の心理的抵抗も減殺されるだろう。天皇という超越性のもとに自らの判断と行為の責任をゆだねることができるからだ。日本軍の縦の命令構造の頂点は天皇という超越性にいたり、そこにおいて個々の兵士の主体的責任は雲散霧消してしまう。
 グアムやサイパン、そして沖縄でも、全滅を美化する「玉砕」という言葉の裏で行われていたのは、そのような実行主体の無責任化を内在した皇軍の論理による住民=民間人への「集団的な強制死」だったのである。

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