夕方の薄明かりを「たそがれどき」と言う。この「たそがれ」の語源は「たそ・かれ(誰彼)」であるとされている。『広辞苑』を始めすべての「国語辞典」は一致している。その根拠は多くの古文献資料がそのように書いているからである。(広辞苑にはその一覧が出ている)。 果たしてそうであろうか。古文献は絶対に正しいと言えるのか。
ー『古事記』は語呂合わせだらけー
日本の一番古い文献である『古事記』には語源について多くの記述があるが、そのほとんどは語源俗解、いわゆる語呂合わせである。例えば、日本武尊が亡き妻(乙橘姫)を偲んで「あずま(吾妻)や」と叫んだからそれ以後、東国を「あずま(東)」と呼ぶようになったとある。 これは言語学的には失格である。日本語「あずま」は朝鮮語の「アチム(朝)」と比較されている。「あさ(朝)」「あす(明日)」「あした」「あずま(東)」は word family (単語家族)を形成する。なによりも、世界のすべての言語で sentence (文)から普通名詞が生まれた例は私の知る限りない。もし有れば教えて欲しい。「たそ・かれ(誰彼)」は英語に訳すと Who is it ? である。黄昏(たそがれ)は英語で evening ウズベク語では oq shom (白い夜)と言う。
「たそがれ」は『源氏物語』にその例があり、平安時代には成立していた言葉である。
では、「たそがれ」の語源は何か。「かれ」は古語の「離る(かる)」であろう。古語辞典の説明では「離れる、遠ざかる、うとくなる、関係がなくなる」などの意味が出ている。また「枯れる、涸れる」も同源とある。(例、冬枯れ、立ち枯れ)
では、「たそ」とは何か。「万葉集」や「記紀」に「明かり」や「光」を意味する言葉で「たそ」とか「たす」というのがあれば問題は簡単であるが、しかし、そういう言葉はない。そのことから昔の人も「たそがれ」は「たそ(誰)・かれ(彼)」と語呂合わせをするしか方法がなかったのであろう。
語源は不明としか言いようがない。ただ、Who is it ? (誰彼?)のような sentence (文)から決して普通名詞は生まれないということだけは確実に言える。
それを、「(誰彼?)のような sentence (文)から決して普通名詞は生まれないということだけは確実に言える。 」と言い切る貴方もたいしたことない人のようにおみうけします。