小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

江田船山古墳の築造年代  -通説に疑問ー

2020年07月27日 | Weblog

 江田船山古墳は熊本県玉名郡和水町に所在する前方後円墳である。築造年代は五世紀末から六世紀初頭とされているが疑問が残る。それはこの古墳と同じ型式を持つ福岡県八女市にある岩戸山古墳と石人山古墳の存在である。これら古墳の周りには短甲を着けた武人の石人と石馬が置かれている。このような古墳の周りに石人、石馬を配置するという独特の型式はこの地域特有のもので、その後、日本では見られない。この岩戸山古墳が527~8年に大和政権(継体朝)に反抗して敗北した筑紫の君・磐井(いわい)の墓であるとされているからである。「記紀」の年代表記にはかなり違いがあるが、六世紀以後であることは確実である。この三つの石人古墳はワンセットで考えるべきであり、江田船山古墳も六世紀初頭から中期とすべきであろう。

 ー 出土した鉄刀銘文の読み ー

 「 治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中・・・」 を当初は、「多遅比瑞歯(たじひみずは)大王」と読み、反正天皇に比定されてきたが、近年、埼玉稲荷山古墳から出土した鉄剣銘文に、「獲加多支鹵大王」という文字が発見されたことから、この江田船山古墳の銘文も「ワカタケル大王」と読み、雄略天皇に間違いないとの結論に至った。しかし、ここで大きな疑問が生じる。雄略天皇は五世紀末の人である。この三つの石人古墳のうち、岩戸山古墳は確実に筑紫の君・磐井の墓である。磐井は、527年(継体21年)に半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いる大和政権軍を新羅側に立って妨害したため、翌528年(継体22年)11月、征討将軍物部麁鹿火によって鎮圧された。なぜ、磐井が反乱を起こしたのかは不明な点が多いが、軍隊の動員はいつの時代も人々には重い負担であるので、その不満が原因であったのかも知れない。 それはともかく、岩戸山古墳は528年以降の古墳であり、他の二つもこの時代前後の古墳であろう。そうすると、雄略天皇の時代とは半世紀も後世のものとなる。

 ー稲荷山鉄剣銘文の読みー

 先のブログ、稲荷山鉄剣銘文の「ワカタケル」は雄略天皇のあとの欽明天皇であるとの私の主張が生きてくる。「辛亥年七月中記 乎獲居臣 上祖名意富比曙 其児多加利足尼・・・ 」 この「辛亥年七月」を雄略天皇の471年ではなく、還暦60年後の531年とすればまさに磐井の反乱の直後となる。この時代、北部九州にのみ存在する石人・石馬を古墳の周りに置く型式は、六世紀中期頃に流行した古墳であるとのことになり、時代もピッタリ合う。また、船山古墳の出土物には新羅の王墳からの出土物と一致するものもある(朝鮮半島ではほとんどの王墳が盗掘にあっており、現存している遺物は数少ないのが実情ではあるが・・)。がしかし、この船山古墳は画文体神獣鏡などの多くの鏡が副葬されており、やはり倭人の伝統的文化を継承している。

 それと、稲荷山鉄剣銘文の中に、「乎獲居臣(オワケノオミ)」と「多加利足尼(タカリスクネ)」とあり、この「臣(オミ)」と「足尼(スクネ)」は六世紀頃に制定された「氏姓(うじかばね)制度」の位階であり、これが有るということは、この鉄剣銘文がやはり六世紀以降に作られた事実を証明していると思う。

 <追記>

 古代史学者は「ワカタケル」=雄略天皇(大長谷若建命)との思い込みが強すぎるのではないか。「ワカタケル」とは「若き勇者」との意味であり、モンゴル語では「バートゥル」と言う。ジンギス汗の孫で、ヨーロッパ遠征でドイツ・ポーランド騎士団を粉砕したワールシュタットの戦い(1241年)の勝者、「抜都(バトゥ)」は、その名「バートゥル(勇者)」の漢字表記である。モンゴルの歴史にはよく登場する名前でもある。17世紀初頭、女真人(後金)のヌルハチと北アジアの覇権を争ったリンダン・バートゥルという名のモンゴルの大可汗がいた。また、20世紀にもモンゴル人民共和国の創始者、 スフ・バートゥルという人もいた。「ワカタケル」をなにも雄略天皇に限定する必要はない。何よりも「記紀」には天皇や皇族の本名などまったくと言っていいほど書かれていないのであるから・・。「厩戸皇子(聖徳太子)」「中大兄皇子(天智天皇)」「大海人皇子(天武天皇)」も単なる通称にすぎない。

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