小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

「幕府」と「天下」についての最終章  ー日本の言語文化の破壊ー

2024年01月27日 | Weblog

(1)「幕府」に何の問題もない

「幕府」は日本人の言語文化に深く定着している。むしろ、この言葉を明治の学者が日本史歴史用語と決めてくれたことに、我々日本人は感謝しなければならない。その根拠はすでに書いているので、くり返さないが、専門の日本史学者だけでなく、小説、テレビ、漫画などのあらゆるジャンルで、日常、ごく普通に使われている。「幕藩体制」「幕末」「幕臣」「幕命」「幕府洋式歩兵隊」「幕長戦争」「幕府が招聘したフランス軍事顧問団」など、上げればきりがない。また、言語上も語感(言葉の響き)も良い。

 この「幕府」という歴史用語に問題があると、日本史の学会で論争が起きているのを知ったのは10年ほど前の読売新聞の記事が最初であった。その時、「え! なんで?」と思ったのが私の偽らざる心境であった。その時代に「鎌倉幕府」「室町幕府」「江戸幕府」などの言葉はなかった。これらは日本の子供たちに日本の歴史を教えるために作られた歴史用語、日本史教育用語である。漢語「幕府」を日本風に借用した明治の日本史学者の言語力にただただ敬服するばかりである。それを近年、「幕府」の定義に問題があるとの論文や著作物が数多く出ている。とうとう、鎌倉幕府の成立は源頼朝が征夷大将軍に補任された1192年ではないとの高校日本史教科書まで出現した。なぜなのか? まったく理解に苦しむ。

 それなら、いっそのこと日本史から「幕府」との言葉自体、廃止してはどうか。勿論、明治以前の漢語の「幕府」は抹消できないが、明治以後の歴史教育用語としての「幕府」に問題があると言うのだから。そうすれば「幕府」についての論争などいっさい起きないし、その方が余程スッキリする。「室町幕府」は「足利武家政権」、「江戸幕府」は「徳川武家政権」で十分である。「幕末」は「江戸時代末」、「幕臣・勝海舟」は「徳川将軍家家臣・勝海舟」とすればよい。当然、「幕藩体制」も消える。 ー皮肉を込めてー

(2)「天下」の意味は不変である

 「天下」が日本史上最初に出てくるのは「稲荷山鉄検銘文」に刻まれた「吾左治天下」である(6世紀頃〉、文献資料としては「記紀」にある神武天皇の和名「始馭天下之天皇」(ハツクニシラススメラノミコト)である。この時代(飛鳥・奈良時代)の「天下」はまさに「天(あめ)下(した)」であり、漢語の意味どおりである。ところが、近年、東大教授が言い出した「戦国時代には天下の意味は京とその周辺のことだった」との説が、その権威のゆえか、なぜか真実の如く定説化している。『三好一族』の著者、天野氏もそれに従っている。とんでもない間違い、俗説である。今ここに、その決定的証拠を書く。

 織田信長が武田勝頼を滅ぼした年(天正10年・・1582年)、朝廷は信長を天下人にしようと動き始める。この年の五月、皇太子・誠仁(さねひと)親王が信長に宛てた直筆の書状がある。それには、

「天下いよいよ静謐に申し付けられ候、奇特 日を経ては猶際限なき朝家の御満足、古今比類なき事候へば、いか様の官にも任ぜられ油断なく馳走申され候はん事肝要に候、余りのめでたさのまま・・・」(以下略)

 これを読むと朝廷の真の姿が如実に見えてくる。武田家を討ち果たした信長に歯の浮くようなお世辞(際限なき朝家の御満足)と最高の賛辞(古今比類なき事)を並べ、いかなる官職も望みしだいだと書き送っているのである。さらに続けて、「馳走」(奉公、奉仕)と「肝要」(必要、必須)を使うことで、天皇(朝廷)に仕えるようにと婉曲的に諭(さと)しているのである。(「余りのめでたさ」に至っては少々脱線気味ではあるが・・筆のすべりか)

 ここで重要なことを書いている。冒頭の「天下いよいよ静謐に申し付けられ候」である。この場合の「天下」は東大教授が言うように、京とその周辺のことだろうか。甲州・武田軍はそんなに天下(京と畿内)の脅威であったのか?。京と甲斐は遠く何の関係もない。誠仁親王の使っている「天下いよいよ静謐」とはまさに「記紀」と同じく「天(あめ)の下(した)」(全国・全土)の意味であり、信長の「天下布武」への一歩前進だと褒めちぎっているのである(今日、俗にいう「ほめ殺し」である)。これからも朝廷がいかに信長に不安感を抱いていたかがよく分かる。この親王の書状をその東大教授はどう説明するのだろうか。まさか、関東の武田家が滅んだことにより、京と畿内が静謐になったので、その喜びと感謝の意を信長に伝えたものだとでも・・。一度、その教授に聞いてみたい。

 <追記>

 この「幕府」と「天下」の問題は単なる日本史だけの問題に留まらない。「幕府」も「天下」も現代日本人の言語文化に深く定着している。その意味を否定したり、勝手に変えたりすることは日本の文化そのものの破壊にほかならない。私はそう思っている。まさに憂慮すべき事態である。古今東西、世界のいかなる独裁者でも出来ないこと(言語の意味を勝手に変える)を日本のある一流大学の教授はできるのである。まさに、現代日本は世界に類を見ない超独裁国家と言える。そうして、その権力を支えているのは、ほかでもない某国営テレビとマスコミ各社である。

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