小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

「みささぎ(天皇陵)」と前方後円墳

2009年02月16日 | 言語

 「みささぎ」(御陵)の語源については、「語源辞典」には諸説でている。私はこの言葉の語源のヒントは仁徳天皇にあると思っている。仁徳天皇の和名は『日本書紀』には「大鷦鷯(オホサザキ)」とあり、『古事記』には「大雀命」とある。「サザキ」とは「古語辞典」には「ミソサザイ」という鳥の一種とあるが、古代語では「サザキ」は鳥一般の意味に使っていたことが古事記の「雀」の漢字表記からも分かる。この「サザキ」は現代日本語で「かささぎ」として残っている。なお、満州語で「小鳥、 雀」を CECIKE (チェチケ)と言う。上古日本語では「さ」は「ちゃ」であったらしいので、非常に興味深い。
 朝鮮半島の山野に生息する「カチ」は神聖な鳥と畏敬されている。この「カチ」は日本では「かささぎ」と呼ばれ、佐賀県などの北部九州にも生息している。俗称、「カチガラス」とか「朝鮮ガラス」と呼ばれている。「かささぎ」の「か」は「かみ(神)」であろう。「神楽(かぐら)」と同じ用法である。(「くら」は場所の意味・・高御座、また倉庫を「くら」とも言う )。
 この「さざき」に敬語「み」が付いたものが「みささぎ」であろう。なぜこの言葉が生まれたのか。それには古代人の信仰にも踏み込まなければならない。そうして、前方後円墳の形状の持つ意味をも解明してくれる。

 ー古代人の鳥に対する信仰ー
 古墳からの出土物の中に鳥型の埴輪がある。この埴輪は全国的に分布している。応神天皇陵とされている誉田山古墳や継体天皇陵である可能性が高い今城塚古墳、大阪藤井寺の津堂城山古墳などの出土例がよく知られている。ごく最近にも、愛媛県・今治市の古墳時代の前方後円墳(高橋仏師1号墳)から鶏形埴輪が出土しているし、兵庫県・和田山の前方後円墳(池田古墳)の周濠部からは7個もの水鳥形埴輪が発見されている。発掘担当者の見解では、その他の出土埴輪と共に、墳丘上もしくはその周辺部でなんらかの祭祀が執り行われたのであろうとのことであった。また、すでに古墳の周濠から鳥形の木製品が出土した例もあり、これも被葬者を偲ぶ祭祀に使われたものだと考えられている。 つまり、鳥は天上と地上を結ぶ聖なる生き物であるとの考えに由来すると思われる。
 
 この考えは全世界的に分布しており、人類普遍的な思想であり、日本特有のものでもない。例えば、チベットの「鳥葬」やインドのムンバイ(旧ボンベイ)に住む古代ペルシャのゾロアスター教の伝統を受け継ぐパルシー(ペルシャ人の意味)が行う「沈黙の塔」に死者を置く葬礼など。だだし、これらの風習も今は政府により禁止されている。
 「記紀」の神話にも「天の鳥船」や「八咫烏(ヤタガラス)」など、鳥にまつわる話が出てくる。また、九州の彩色古墳の中には、船の舳先に鳥を描いたものもあり(福岡県浮羽郡吉井町の珍敷塚古墳)、鳥が死者の魂を天上に運ぶという古代人の信仰生活に由来している。古事記にある「倭健命(ヤマトタケル)」の魂が伊勢国から河内国に飛翔し、そこに白鳥陵が築かれたとの神話も、同じ思想が投影されている。
 
 ー前方後円墳は上空から見るものー
 日本の前方後円墳は地上から見ると単なる小山に過ぎない。私たちが歴史書や教科書で見る前方後円墳はすべて上空からの写真(航空写真)によるものであり、それを見て、そのすごさ、巨大さを認識している。つまり、古代人も明らかに上空からの姿を意識している。つまり、天上の神にその姿を見せるための形状であったと考えるのが自然である。  古墳そのものが、天上に死者の魂を運ぶ「天の鳥船」であったのであろう。そのため、天皇や皇族の墳墓は「さざき(鳥)」と称されるようになり、尊敬の「み」が付いて「みささぎ」となったと考えられる。(日本語の音声上の特徴として、清音と濁音は容易に入れ替わる)。
 前方後円墳を上空から見ると明らかに「鳥」を腹から見た形状をしている。古墳の初期(弥生時代)には単純な円墳や方墳であったが、死者の魂を鳥が天上に運ぶとの信仰が日本に入ってきて以後、古墳の形状が鳥型(前方後円墳)に変化していったのであろう。しかし、日本に仏教が伝来してのち、この形状はすたれ、また元の単純な円墳や方墳に戻ってしまう。
 

 ーナスカの地上絵も同じ思想ー

 上空からの形状を意識する思想はなにも日本だけではない。南米ペルーの「ナスカの地上絵」も同じ思想に基つ"いていると考えられる。上空からの地上絵の写真を見ると、明らかに天上の神に見せようとした古代人の精神思想がうかがえる。その中でも一番有名な地上絵は、南米の鳥、コンドルを描いたものとされている。コンドルこそ天上の神と地上の人を結ぶ聖なる鳥であった。今でも、コンドルは霊鳥として南米の人々に畏敬されている。
 また、南北アメリカ大陸の先住民の戦士たちが、戦闘に際して鳥の羽根で身を飾るのも、自身が鳥となり霊力を身に付け、死後も鳥となって魂が天上に戻るとの信仰から生まれたものに他ならない。最近は人権上、インディアン討伐の西部劇は作られなくなったが、私の子供の頃はこの種の映画が花盛りであった。また、スペイン人に滅ぼされた南米のインカ、アステカの戦士たちも鳥の羽根で身を飾っていた。
 「みささぎ」(天皇陵)の語源は「鳥(さざき)」であり、前方後円墳の起源でもある。

 <追記>
 神社の前に必ずある「鳥居」も形状的に鳥を模したものと考えられ、まさに「鳥が居る」との意味である。(「居」は「居(ゐ)る」の名詞語幹で、「居留守」「鴨居」「敷居」などと同じ用法である)。鳥居の起源はよく分かっていないが、弥生時代の遺跡からは鳥形木製品が出土している(大阪和泉市池上遺跡など)。古墳時代には、墳丘の周りで鳥型の埴輪や木製品を立てて、なんらかの祭祀を執り行ったことに由来しているのではないか。鳥居をくぐると、そこからは神々がいます神域である。神域と人域を、天上と地上に模していると考えるのが自然である。その間を取り持つのが鳥であり、神社の鳥居ではないのか。
 

 なお、日本の弥生時代の鳥形木製品を、韓国で今でも村の入り口に立てる「チャンスン」(鳥竿)と比較する人がいるが詳しくは解明されていない。私の考えでは韓国の「チャンスン」は村に厄病や災いを持ち込ませない一種のおまじないであり、日本のお地蔵さんと同じ思想であろう。ただ、竿の先に鳥を付けるのは、やはり鳥にたいする信仰が古代には日本と共通していたことを物語っていると思う。
 また、中国清朝の発祥の地、瀋陽故宮(奉天行宮)には、竿の先にカササギの木像を載せたトーテムが今でも残っている。昔は北京の紫禁城にも同じものがあったらしいが今はない。清朝を打ち立てた満州族と朝鮮民族との近さを物語っている。新羅の王姓は「金」、清朝の王姓も「愛新覚羅」つまり、満州語の「アイシン(金)」である。

コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本ブログ村

にほんブログ村 歴史ブログへにほんブログ村