小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

文禄・慶長の役の降倭 「 沙也可 」 の正体

2020年11月29日 | Weblog

 韓国南部、大邱近くに秀吉の朝鮮出兵時に朝鮮側に投降した日本人(降倭)の末裔が住んできたとの言い伝えがある友鹿里という小さな村がある。何十年か前、新聞やテレビで大きく取り上げられ、日本から観光客も訪れるようになった。そこにある村の学問所、鹿洞書院にその降倭の将軍、金忠善(日本名「沙也可」)の位牌が祀られている。「金忠善」という朝鮮名は、日本、後金、清国との戦いで勲功があったので、朝鮮王から将軍位と一緒に授けられたものである。これらのことはこの書院に伝わる古文書「慕夏堂文集」に詳しく書かれている。

 実は、戦前からすでにこの村の存在は知られており、当時の朝鮮総督府は朝鮮軍に投降する日本人がいるわけがないと、そんな古文書はニセモノだと一蹴してきた。ところが、1933年、同じ総督府で「朝鮮史」の編纂を担当していた中村栄孝が朝鮮の歴史書『李朝実録』などに「金忠善」と「沙也加」の記述があることを発見し、「慕夏堂文集」の記事と完全に一致することが分かった。今はその存在を疑う人はいない。ただ、問題は「 沙也可(さやか)」という名の倭人は誰かとの一点に絞られる。(「可」と「加」の音読みは日本も朝鮮も同じく「カ」である)

 ー「 沙也可 」はどの漢字音で読むのか ー

「沙也可」を日本の漢字音で読めば「さやか」であるが、朝鮮漢字音でも同じく「サヤカ」である。そこで、音がよく似ているので「沙也可」は「雑賀(さいか)」ではないかとの説は以前からあった。つまり、「降倭」とは雑賀鉄砲衆のことだとの・・。実は、「沙也可」を中国漢字音で読めばなんと 「サイカ」 となるのである。「也」は中国音で ye ( イェ )であり、他にも、漢字「野」「夜」は日本と朝鮮共に音読みで「ヤ」であるが、中国音では  ye ( イェ )である。戦前、有名な李香蘭(山口淑子)の歌「夜来香(イェライシャン)」をご存知の方も多いと思う。

 つまり、「沙也可」 は当時の中国(明)の漢字音で表記されていたのである。「沙 也 可」を現代の中国音で読むと、「 Sha( シャ)   Ye(イェ)  Ke (ケ)」となる。(この場合の「可(ケ)」は日本語の「カ」に近い音である)。それと、当時の日本語にも一致する。私の郷里・徳島県は古い発音を残していたが、今は無くなった。私の子供の頃、お年寄りは「先生」を「シェンシェイ」、「魚の鮭(サケ)」は「シャケ」と言っていた。この「雑賀」も戦国時代は「シャイカ」と発音されていたはずである。では、なぜ中国漢字音で表記されたのか・・。それには理由がある。

 ー文禄・慶長の役の真実ー

 この戦役は豊臣日本軍と李氏朝鮮軍との戦争だと思いがちだが、実はそうではなかった。たしかに、海戦では水師提督・李舜臣率いる朝鮮水軍と日本水軍は各所で激しい戦闘を繰り広げ、阿波水軍の大将も戦死している。李舜臣も最後の海戦(露梁海戦・・慶長3年)で先陣を切って指揮をとっていたのであろう、日本軍の火縄銃に狙撃されて戦死した。ところが、陸戦ではまったく様相が違った。釜山に上陸した日本軍は破竹の進撃でわずか3週間で首都・漢城に入った。朝鮮軍は逃げるばかりであった。(日本軍の入城前に国王や貴族・官僚たちは逃亡していたので、朝鮮の農民や奴婢たちが漢城を略奪、放火して廃墟同然になっていた・・韓国では略奪・放火したのは日本軍とされている。いつものパターンである)。その2カ月後には第二の国都・平壌も占領した。だが、朝鮮王からの救援要請を受けていた明国の大軍が鴨緑江を渡って平壌前面に現れた。この時から、戦争の様相は一変する。

 朝鮮軍は明皇帝の名代である明国軍司令官配下の一部隊に格下げされたのである。その後、漢城北の碧蹄館、蔚山城、泗川倭城、順天新城などで両軍の激しい戦いがあったが、実際は明軍と日本軍との戦闘であり、朝鮮軍は人数も少なくその補助部隊にすぎなかったのである。有名な蔚山籠城戦(慶長2年)では6万の明・朝鮮軍が蔚山城を包囲したが、その内、朝鮮軍は1万人にすぎない。当然、倭人兵はどの戦場でも明軍に投降したと考えるのが常識であろう。また、「降倭」(足軽鉄砲衆)をどう処遇するかの判断は配下の一部隊長(朝鮮軍)にできるわけがなく、総大将である明国軍司令官の裁量であったはずである。それを証明する事実が約30年後に満州の地で明らかになる。

 ーサルフの戦いー

 この戦いは1619年、旧満州・瀋陽(奉天)近くのサルフで起きた明国軍と女真人の英傑 ヌルハチ率いる後金軍との満州を巡る覇権争いである。この戦いで大勝したヌルハチの満州支配が確立した。実は、この戦いに明軍は多数の鳥銃(火縄銃)部隊を使っているのである。明軍は30年ほど前の朝鮮出兵時に投降してきた多くの日本の鉄砲足軽たちを本国に連れかえり、新式の鳥銃部隊を編成していたのである。(17世紀初頭に書かれた明の兵法書『軍器図説』にはなんと、信長の鉄砲三段撃ちの図解絵が描かれている。明軍はよほど日本軍の鉄砲に苦しめられたのであろう)。

  この戦いの明軍司令官、楊鎬や劉綎は、30年ほど前の朝鮮出兵にも明国軍司令官として参戦した将軍でもあった。また、明皇帝の命令で出兵させられた朝鮮軍にもやはり鳥銃部隊があり、後金軍の最前線に配置されていたが、明軍大敗の報が伝わるや、降倭の鳥銃部隊を置き去りにして、朝鮮軍はさっさと逃げてしまった。取り残された鳥銃部隊はおそらく後金軍の捕虜となり、後の清軍(1636年、二代目 ホンタイジ が国号を「清」に改めた)の2度に渡る朝鮮侵攻(丁卯胡乱と丙子胡乱)、さらにその後に続く明国征服戦争(1644年)にも、その鳥銃部隊が使われたであろう。当時、世界一の性能を誇った日本の火縄銃は世界の歴史をも変えたのである。

 ー 結び ー

 結論として、「沙也可(サイカ)」とは投降した足軽鉄砲集団の通称として使われた言葉であったと思われる。降倭がいちいち自分の名前など名乗るわけがないし、自分たちは「 シャイカ(雑賀)」だと明軍の将軍たちに言ったのであろう。それを明側で「沙也可」と表記した。朝鮮側はその中国(明)式表記をそのまま使った。後に、朝鮮漢字音で「サヤカ」と読まれるようになった。秀吉の紀州・雑賀攻めで降伏した雑賀鉄砲衆は多くの戦国大名家に鉄砲足軽として仕えている。阿波徳島藩でも城下の外れに雑賀町として今でもその名を残している。おそらく、徳島藩でもその鉄砲集団を「雑賀衆」と呼んでいたはずである。かれら足軽鉄砲集団はやはり厭戦気分から投降したのであろうが、しかし、時代は降倭・鉄砲集団に平穏な生活を保障してはくれなかった。鉄砲の威力に目を付けた明国と朝鮮国に分けられ、また、次の過酷な満州の戦場に駆り出されたのである。

 やはり、金東善=沙也可(サヤカ)は同一人物であろう。ただし、「沙也可」は個人名ではなくその集団の通称とするのが自然である。朝鮮に住んだ降倭鉄砲集団の首領が朝鮮王から金東善の名をもらい、大邱近くの友鹿洞に土地を与えられ平和な暮らしができるようになった。その後、数百年の歳月が流れ、日本の朝鮮併合で再び歴史の表舞台に登場してきた。現在は日韓友好の架け橋としてその役目を果たしている。

 最後に余談であるが、司馬遼太郎の 『韃靼疾風録』はこの時代を扱った小説である。満州時代の清国の王女がたまたま船で漂流して日本に流れつき、その王女を清国に送り届ける役目を仰せつかった日本の若き武士が運命にほんろうされて、清軍の一員として北京に入城する物語である。王女と主人公が何語でやりとりしていたのかはスルーされていた。もし、司馬氏がサルフの戦いのことを知っていたらもっと面白く書けたのに、その王女が日本語を話したとしてもおかしくはない。愛新覚羅一族である王女の父親が降倭の鳥銃部隊の差配役をしており、王女も子供の頃から降倭の子供たちとよく一緒に遊んだので、その時、日本語を憶えたことにすれば・・。さらに、主人公がその鳥銃部隊の隊長に任命され、対明戦争で大活躍するなどなど・・。小説の最後は王女を妻として日本に戻り、ハッピーエンドで終わる。司馬遼太郎の北方騎馬民族への憧れの集大成のような作品であった。

 

 

コメント (1)
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