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日本語の諸問題(47) 「 然 (しか) る 」は動詞ではない  -語源の取り違えー

2022年01月23日 | Weblog

 国文法では「然る」はラ行変格活用動詞とされている。果してそうであろうか。「然る」の意味として古語辞典には、(1)「然(さ)る」と読み、「と或る」のように漠然とした表現に使う(「さる人からの便り」「さる所で」) (2)「然(しか)る」と読み、「そうである」「その通りである」「ふさわしい」などの意味であるとある。例文として、「然るべき人に相談する」は現代語でも使う。連用形の「然り」は「それも又然り」のように、相手の発言を受けて、「その通り」とか「それが正しい」の意味で使う。国語学では「然り」の漢字「然」に引っ張られて「しか・る」と解釈されている。だが、「しかる」は大和言葉であり、漢字は後に当て字されたものである。我々日本人はごく普通に「歩く」「飛ぶ」「走る」などのように漢字を使っているが、実はこのような言語は非常に珍しいのである(借用語は世界中どの言語にもあるが・・)

 ー「しか(然)る」は「し・かる」が真の語源ー

 漢字「然」は漢和辞典には「肯定、同意」などの意味とある。「しかり」(そうである)に「然り」と当て字したため、当然、「しか・り」と解釈したのであろう。「し」は私が繰り返し述べてきた「する」の名詞(連用)形「し」であり、この場合「そうある」「そういう状態にある」という意味である。また、「かる」も同じ意味の助動詞。「しかる」の単語家族を拾ってみると、「しかるべき人」(当然、そうある人)、「しかれども」(そうではあるが)、「しかれば」(そうであるから)、「しかるあいだ」(そうこうしている内に)、「しかるに」(そうではあるが)などがある。いずれも、「そうある」の意味を持っている。つまり、これらの言葉はすべて「し」に中心的な意味があるのであり、決して「しか」ではない。

 助詞「しか」は「これしかない」と言うように、あるものを限定する意味である。「三十六計逃げるに如(し)かず」も「ただただ逃げるしかない・・逃げるが一番」との意味であり、「しか」は必ず否定形を取る(「如」は当て字)。この「しか」も先の「し」に「行くかどうか分からない」の「か」が付いたものであろう(「か」は疑問や不明瞭を表わす助詞)。助動詞「かる」は「から」「かり」「かれ」と活用するので、一見すると動詞の活用と同じように見えてしまうが、動詞ではない証拠として命令形の「然れ」はない。「然れども」の「然れ」は完了(已然)形。同じラ変活用の「ある」は有るのに(例、栄光あれ)。

  <追記>

 戦前の国語学者、金田一京助著『国語史 -系統編-』(1938年)を読んだ。その中で私と同じく、文語形容詞・終止形の「し」(波高し)は「する」の連用形「し」と同じものであるとの説を立てたドイツ人日本語研究者がいたことを知った。印欧語を話す人にとっては当然のことである。英語でも形容詞は必ず  be  動詞を伴う。この人は「高し」の「し」がそれに当たると思ったのであろう。おそらく、その根拠は「静かになる」の「なる」は動詞であるが、「静かなるドン」の「なる」は「そうある」との意味の助動詞である(国文法もそう説明している)。それなら、「し」も動詞(勉強します)と助動詞(波高し)の二つの機能があって然るべきである。前に書いたが、「春日なる三笠の山にい出し月かも」は「い出たる月かも」とも言い換えられる。この場合の「し」は助動詞「たる」(そうある)と同じ意味である。(「春日なる」の「なる」は「春日にある」の意味)。しかるに、国文法では「高し」は文語形容詞の終止形であって、それ以上の説明はない。

  私自身、国文法の授業でこの「し」は言語上、何か意味があると教わった記憶はない。金田一京助はこれを取り上げてはいるが、このドイツ人は国文法を知らないと一蹴している。明治以来150年、日本国には「国語」はあっても、言語としての「日本語」は無いのである。国語学者にとって、日本語は「第二言語、外国語」なのであるから(ある教育大学の大学院募集要項にはそうある)。最早、国文法はイスラム教のコーラン同様、神聖不可侵の聖典なのである。そうして、一部の聖職者(国語学者)以外、一般の日本人は誰も理解できないし、何の記憶もなければ関心もない。

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