小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

NHKの 「歴史秘話・ヒストリア」 を見て(2019・2・9) ー銅鐸の謎ー

2019年02月07日 | Weblog

 今回は古代日本の最大の謎「銅鐸」についてであった。この番組の前半は非常に科学的で、銅鐸を再現するものであった。さすが、NHKでなければこれほどの資金を投入して出来なかったであろう。石製の銅鐸の鋳型断片が出土していることから、その石と同じもので鋳型を作ることから始め、銅職人に依頼してその時代の工法でやってみたが、うまく行かず、試行錯誤のすえに完成した。私もここまでは非常によくできた番組と見ていたが、最後にとんでもないドンデン返しがあった。NHKはいつもそうであるが、邪馬台国=大和説に国民を誘導するものであった。最後に大和説の学者が出てきて、銅鐸が地中に埋められたり、破壊されたのは女王・卑弥呼の時代であり、その後、邪馬台国は銅鐸に代わって銅鏡を祀るようになったとの説明であった。突然、科学から小説・漫画の世界に引き戻された感があった・・。

 -邪馬台国は軍事国家かつ大陸国家ー

「魏志倭人伝」には 「兵用矛・楯・木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」とあり、兵士は矛(ほこ)、盾(たて)、弓(ゆみ)を用い、すでに鉄の鏃(やじり)を使っていた。また、卑弥呼は南の狗奴國男王(肥後・・熊本県であろう)との戦争で帯方郡に救援を求め、郡は軍事顧問「張政」を派遣して 詔書、 黃幢(錦旗)をもたらし、督戦している(為檄告喻)。また、卑弥呼の遣使二人は皇帝から魏の官職をもらい、銀印を授けられている。これらの記事を読むと、この時代、倭国はすでに大陸国家と言えるほど魏と親密な関係を有していた。 「親魏倭王」の金印綬受は当然とも言える(卑弥呼の200年ほど前の倭奴国王は後漢皇帝から印綬をもらっている・・AD57年)。考古学上の発掘でも北部九州から鉄製の鏃(やじり)は大量に出土しているし、後漢の鏡も同様に数多く出土している。この時代、畿内大和からは鉄製品は何も出ていないし、後漢鏡もほとんど出土例がない。大和から鉄製品が出土するのは4世紀以降である。

 -纏向(まきむく)遺跡は平和そのものー

 邪馬台国=大和説の学者は近年発掘調査された纏向遺跡の大きな建物あとが、あたかも卑弥呼の宮殿のように宣伝しているが、そこからは「倭人伝」に書かれているようなものは何一つ出土していない。銅鐸は平和な農耕社会の象徴であり、この番組でも、ある銅鐸に刻まれた絵は春夏秋冬の田んぼの様子を図案化したものであるとのこと。たしかに、私の子供の頃の田んぼには、春にはメダカやフナ、夏にはカエルやカメ、秋には赤トンボが舞っていた。二千年前と変わりなかった。

 銅鐸の出土する地域、出雲、吉備、阿波、淡路島、畿内、近江、尾張こそ「倭人伝」にある「女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種」のことであろう。北部九州に住む卑弥呼も東の方に同じ倭人の国があることを知っていたのである。紀元前から大陸との交流で軍事的に優位であった北部九州の邪馬台(ヤマト)国が東に移り、四世紀に大和政権となったと考えるのが一番無理がない。そのことを「記紀」は神武東征神話として書き残している。九州から来た征服者は鏡の愛好者たちであった。そのとき、銅鐸は地上から消えた。だが、銅鐸作りの技術はそのまま三角縁神獣鏡作りに受け継がれた。

 <追記>

 邪馬台国=大和説はすでに破綻している。卑弥呼は景初二年(239年)初めて魏に遣使している。後漢から魏に王朝が変わってわずか20年ほど後である。そのとき「賜汝好物」として銅鏡百枚をもらっている。この鏡が大和説の人はすでに五百枚以上も出土している三角縁神獣鏡だと断定しているが、中国の学者はすべて日本製と言っている。中国からはただの一枚も出土していない。つまり、卑弥呼がもらった銅鏡はすべて後漢鏡であるとのこと・・。おかしな話である。魏皇帝のいう「賜汝好物」との意味は、倭国と中国王朝との交流は200年以上も前からあり、その頃から、倭人が鏡に異常とも言えるほどの愛着を持っていたことを魏の官僚たち(そのすべては後漢官僚・・魏は禅譲により後漢王朝をそっくり受け継いだ)から聞いていたからこその発言だったと思われる。

 では、その200年間に後漢から倭国に渡った鏡はどこから出土するのか? 大半は北部九州である。伊都国(福岡県)があった平原遺跡からはなんと40枚もの後漢鏡が出ているし、鉄製の素環頭太刀一振りも出土している。卑弥呼が居たはずの畿内大和から後漢鏡はほとんど出ていない。たしかに出土例はあるが、ごく僅かである。椿井大塚山古墳では32枚の三角縁神獣鏡と3枚の後漢鏡が出土している。近年発掘された箸墓古墳のすぐ近くの黒塚古墳では33枚の三角縁神獣鏡が出土しているが後漢鏡はない。ただ一枚の画文帯神獣鏡が被葬者の棺内と考えられる位置から発見されている。

 画文帯神獣鏡は中国南部の呉地域、のちの南朝(3~5世紀)で流行した鏡である。邪馬台国が交流したのは北部の魏と西晋である。この二つの古墳は明らかに四世紀以降の大和政権の時代であり、後漢鏡の出土数は北部九州が圧倒的に多い。先に述べたように、瀬戸内海の東から東海地方にかけて出土するのは銅鏡ではなく銅鐸である。つまり、後漢・魏との交流があったのは北部九州の倭人であった証明でもある。「倭人伝」には女王・卑弥呼の前には男王があり、倭国が乱れ、数年戦争状態にあったとある(倭國亂相攻伐歴年)。そこで共立されたのが卑弥呼である。卑弥呼の宮殿は北部九州以外ありえない。

 また、2月27日の同じ番組で、三角縁神獣鏡の銅原料が中国産であったことが科学的に証明されたとのこと。これがあたかも古代史の大発見のように言っていた。そんなことは以前から分かっていたことであり、大和説の学者の流すプロパガンダにすぎない。日本で初めて銅の鉱床が武蔵国・秩父郡で発見され、「和銅」(708年)と改元されたことは日本史教科書にも出ている。では、銅鐸の原材料も中国産と証明されたら、NHKは、銅鐸は中国からの輸入品だと大々的に報道するのだろうか。こんな論理が通用するなら、日本製の自動車の大半は オーストラリア製になってしまう。バカバカしい話である。

コメント (3)
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