小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

日本語の諸問題(48)  「君死にたまふことなかれ」 に使われている「し」について

2022年04月25日 | Weblog

 これは前の  ー「然る」は動詞ではない ー の続編に当たる。与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」は日露戦争時の有名な詩であるが、この詩は私の説、助動詞「し」について重要な示唆を与えてくれる。与謝野晶子は明治11年生まれで、堺の高等女学校を出ている。東京帝大の橋本進吉(明治15年生まれ)はまだ「国文法」をつくり上げていない。つまり、与謝野晶子は幸運にも「国文法」なる意味不明の日本語文法を知ることなく、この「君死にたまふことなかれ」を書いたのである。この中の「し」について再考してみる。

1)「末に生まれし君なれば」この「生まれし君」の「し」は国文法では過去の助動詞「き」(有りき)の連体形とされている。ところがである。現代語訳では「末に生まれた君」と訳されている。この助動詞「た」は国文法でも「たる」の「る」が落ちたものであるというのが定説である(「静かな」は「静かなる」の「る」が落ちたもの)。つまり、「生まれし君」の「し」は「たる」(そうある)と同じ意味である証拠でもある。過去の助動詞「き」とは無関係の言葉なのである。(元々、この「き」は活用などしない)

2)「親のなさけは勝りしも」「人を殺せと教へしや」「二十四までを育てしや」この三つの「し」はいずれも同じで、「勝る」の名詞形「勝り」、「教へる」「育てる」の語幹「教へ」「育て」に「し」が付いたもの(「教へ」は古い表記)。もし、「し」が助動詞「き」の連体形なら、「教へき」とか「育てき」などの文が普通にあって然るべきであるが、まずそんな文はない。当然、「教へたり」「育てたり」となるはずである。これからも「し」は「き」の連体形ではなく、この二つ言葉は無関係であると言わざるを得ない。

3)「過ぎにし秋を父君に」・・これも「過ぎる」の名詞語幹「過ぎ」に助詞「に」が付き(例、5時過ぎに行きます)、それに「し」が付いたものである。

 以上のことから言えることは、与謝野晶子は、「し」は助動詞「き」の連体形であるとの国文法の法則など何も知らなくても、ちゃんと見事な詩を書く能力があったとの事実である。彼女はこの「し」の持つ意味を多くの古典文学から日本人の感性として体得していたのであろう。凡人なら「親のなさけは勝りたり」とするところを、「勝りしも」と「し」を使うことで親の愛情の深さを表わしているのである。「し」は詩文としても優雅であるだけでなく、強い思いを込めた言葉でもあるのである。大伯皇女が実弟、大津皇子の身を案じて詠んだ歌「わが背子を大和にやると小夜ふけてあかとき露にわが立濡れし」の「し」も同じ感性である。国文法ではこの「し」は「き」の連体止め、では、「勝りしも」「教へしや」「育てしや」の「し」も連体止めなのか? 「勝りしも」は「勝っているのに・・」と訳されている。 

 ー万葉集のとんでもない誤訳ー

 巻11-2366  まそ鏡見しかと思ふ妹も逢はぬかも玉の緒の絶えたる恋の繁きこのころ (詠み人知らず)

 この歌の現代語訳では「姿を見たいと思う妹(いも)に逢わないものかなあ、一度絶えた恋心がしきりに蘇ってくる」(「万葉集」岩波・古典文学大系)。「まそ鏡」は「見る」にかかる枕詞で、「まそ」は美称。問題は「見しか」であるが、この訳を付けた人は男女の恋愛の機微などまったく理解できない中年のオジサン国文学者であろう。それも無理もない。「見しか」の「し」は助動詞「き」の連体形であるので、「しか」を勝手に願望の意味だとしているのである。私の解釈では「見し」は「見る」の語幹「見(み)」(花見、味見)であり、それに「し」(そうある)が付いたもの。

 真の意味は「まそ鏡を見ているであろう妹に逢いたいものだ・・あとは同じ」(鏡に写る自分の顔を見つめている妹の姿を思い浮かべているのである)。それを「妹の姿を見たい」とは、与謝野晶子や樋口一葉もびっくり仰天するのではないか・・。

  また、同じ巻-2394にある柿本人麻呂の歌、「朝影に我が身はなりぬ玉かきるほのかに見えて去(い)にし子ゆえに」も「い(往)ぬ」の名詞形「いに」に「し」が付いたものである。(生まれたばかりで亡くなった我が子をしのんで詠んだ歌)。他にも万葉集には「我が見し子ら」(万-1266)、「我が見し人」(万-2396)など「し」を使った用例は数多い。後世の国語学者が「し」の本来の意味を誤解し、ねじ曲げてしまった。古代の万葉歌人たちも怒っているのではないか・・。(ちなみに、「いにしへ(昔)」も「いに・し・へ(辺、方)」のこと)

 結論として日本語の「し」は古代から現代まで非常に重要な言語要素である。「波高し」「風の如し」「藍より青し」「撫子(なでしこ)」「在りし日」「過ぎ去りし日々」「来し方行く末」「三笠の山にい出し月かも」「あかとき露にわが立ち濡れし」(「濡れ」は「濡れる」の語幹・・ずぶ濡れ、濡れ衣)。これらはすべて「そうある」との意味の助動詞とすべきである(語源は動詞「する」の連用形)。前に書いたが朝鮮語の ha-da(する)に対応するものである。朝鮮語でも  ha-da は「そうである」との助動詞の意味もある(誠実 ha-da は「誠実する」ではなく、「誠実である」の意味)。

  私自身、古文によく出てくる「し」について、この「し」はどういう意味なのだろうか・・、と疑問に思ったことは唯の一度もない。大伯皇女の歌も、与謝野晶子の詩もそうである。何の説明もなくてもスンナリ理解できた。大方の日本人はそうであろう。それぐらい、この「し」は日本人の感性に深く根いている言葉なのである。現代語でも、「雨も止んだし、出掛けようか」などと日常、普通に使う。この場合の「し」は「そうある」と念を押しているのである。(古歌の「大和しうるわし」の「大和し」も同じく強調の意味)。それを助動詞「き」の連体形であるとは・・。前に「なでしこジャパン」のところで書いたが、「我がなでし野菊の花」の「し」は過去の意味ではない。「なでしこ」の語源は「なでし・子」である。ほぼすべての日本人が国文法をスルーするはずである。

 <追記>

 与謝野晶子や樋口一葉にとって幸いだったのは明治の学校教育で国文法がまだ無かったことである。もしその時代に国文法が学校で強制されていたら、彼女らも国語嫌いになって、立派な文学作品を残せなかったのではないかと思っている。彼女たちは若い頃から万葉集や王朝時代の作品に親しみ、日本人の感性として、この「し」の意味と用い方を自分なりに理解していたと思う。金田一京助が昭和13年に書いた『国語史』の中で「国文法」なる言葉を使っているので、国文法が教えられるようになったのは昭和の時代からであろう。戦後は義務教育の必修科目となり全国民が学んではいるが、まったく理解できず何の記憶もないのが現実である。国立国語研究所や国語審議会の先生方は本当に、これではいけないと思わないのであろうか。それとも現場の国語教師の教え方が悪いとでも思っているのだろうか・・。ー日本語の未来は暗いー

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