小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

大石内蔵助の「暇 (いとま) 乞い状」 出現 

2018年12月22日 | Weblog

 

大石内蔵助が討ち入り前日に心情をつづった手紙。「十二月十三日」の日付が記されている=共同                                                                                                            大石内蔵助 の書状(元禄15年12月13日付)

 今、徳島市立徳島城博物館で、「討入りとその周辺」と銘打って赤穂義士と阿波徳島藩との関係の特別展が開催されている。ここでの最大の目玉展示は大石内蔵助が討ち入り前日(12月13日付)に、徳島藩の中老・三尾豁悟(みおかつご)に書き送った「暇乞い状(遺書)」である。これまで内蔵助の遺言状は同じ日付で、赤穂・浅野家の菩提寺である花岳寺あての一通が現存しているが、これで二通となった。実は、この遺言状は昭和30年頃、東京や大阪で何度か展示公開されたが、その後、所在不明になっていた。ところが、やはり手紙の宛先の三尾家の御子孫宅にあったことが分かり、この度、ゆかりの徳島城博物館に寄託され特別展が催されたのである。この手紙には数々の興味ある事実が書かれている。

 -徳島藩士、三尾豁悟(みおかつご)とはいかなる人物かー

 大石内蔵助の母親は岡山藩家老・池田家から来ている。内蔵助の母の父親、つまり、母方の祖父の弟がなんと徳島藩に招かれて家老になっている。徳島藩・蜂須賀家は岡山藩・池田家と親密な関係を築きたかったのであろう。その初代徳島藩家老・池田由英の子がこの手紙の受取人、三尾豁悟なのである。おそらく次、三男であったので、中老の三尾家を継いだのであろう。つまり、内蔵助の母親と三尾豁悟はイトコ同士なのである。それと、三尾豁悟は理由はよく分からないが、母の実家のある大津で暮らしていた(母親は三井寺・円満院の西坊家)。この時、内蔵助が京都・山科で隠棲生活をしており、大津と山科は近く、二人の接点はこのとき生まれたのではないかと思われる(博物館学芸員の話)。

 たしかに、手紙の中で「御志恭奉存候、御礼申候・・・」とあり、三尾豁悟は内蔵助に対してかなり経済的援助(御志)をしていたことが伺える。また、「備前一家共へも御通達可被下候」ともあり、「備前一家」つまり、徳島藩家老・池田家へもお伝えくださいとのことなので、援助の資金の出所は三尾の実家、家老・池田家であることが察せられる。そうして、最後に「口上書掛御目候 御披見火中可被下候 阿州へも可然御通達奉頼候」とあり、この手紙を見たあとは、燃やして処分してほしいとの文言は当然としても、「阿州」つまり、藩主・蜂須賀公にも伝達をよろしくと頼んでいる。普通は「阿州様」となるはずであるが、討ち入り前日の緊張感から、うっかり忘れたのであろう。がしかし、三尾豁悟はこの手紙を処分せず、三尾家は明治までずっと保存してきた。それゆえ今日、私たちはこの大石内蔵助の遺言状を目にすることが出来るのである。

  <追記>

 この書状の本文冒頭に「一筆致啓上候」がある。中根雪江あての龍馬の手紙で書いたように、「一筆啓上」は親しい間柄でしか使われない。大石内蔵助と三尾豁悟はかなり近い親戚関係にあり、また同世代でもある。山科隠棲時にかなり親密な交流があったようである。だからこそ、「一筆啓上」を使い、自分の胸の内を吐露して最後の遺言状を書く相手に選んだのであろう。同じ日付の花岳寺あての遺言状には「一筆啓上」はない。当たり前である。目上の存在として敬意を払わなくてはならないからである。また、内蔵助は末尾の署名の横に花押を書き入れている。吉良邸討ち入りは元禄15年(1702年)、この時はまだ戦国の遺風が残り、上級武家は花押を用いていたようである。龍馬がとくに親しくもない60歳の他藩の重役(中根雪江)に「一筆啓上」なる文言を使うはずがないし、また、他藩の上級武士(福井藩士・村田氏寿)に花押型の署名などするわけがない。この二通は間違いなくニセモノである。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本ブログ村

にほんブログ村 歴史ブログへにほんブログ村