小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

日本語の諸問題(42) -飲んだら乗るな、 乗るなら飲むなー

2018年07月13日 | Weblog

 これは日常よく耳にする交通安全標語である。日本人なら誰でもその意味は分かるが、日本語の文法構造上ではどうなっているのか説明できる人は国語の教師でもほとんどいないであろう。

「飲んだら」は「飲み・たら」からきたものであるが、この「たら」は国文法では過去・完了・確認などの意味を持つ助動詞「た(だ)」の仮定形ということになっている(中学国文法教科書にはそうある)。しかし、これはおかしい。例えば、「地震が起きたら、すぐ逃げよう」ではたしかに仮定でいいが(「たら・ば」の略)。「朝、起きたらもう8時だった」とか「行って見たら、もう桜は散っていた」は仮定ではなく完了の意味である。「たら」は「た(だ)」の活用表などには入れず、文語から生まれた完了や仮定の意味を持つ独立した助動詞(接尾語)とすべきである。勿論、「たら」は文語助動詞「たる」(そうある)の未然形(発展形)であるが(例、堂々たる人生)、現代日本語では別の意味にも派生している。

「乗るなら」の「なら」も国文法教科書では断定の助動詞「だ」の仮定形ということになっている。以前にも書いたが、「だ」と「なる」は全く違う言葉である。これを一つの活用表に入れるなど、言語学では有り得ない。国文法は決して言語の文法 grammar ではない。「なら」は文語助動詞「なる」(例、静かなるドン)の未然形(発展形)「なら」であり、「私ならそうはしない」と言うようにれっきとした現代日本語である(「なら・ば」の略)。「なる」は動詞と助動詞の二つの機能がある。「先生になる」は動詞であるが、「君ならどうする」の場合は「そうある、・・である」との意味の助動詞であり、「なら、なり、なれ」と活用する。同じく「たる」は「たら、たり、たれ」と活用し、第一型動詞の活用の法則に一致している。つまり、「たら」も「なら」文語表現が現代語の中に生きているのである。

 <追記>

 私は中央アジアのウズベク語とウイグル語の辞書を出版したが、ウズベキスタンではウズベク語で書かれたウズベク語入門書(当時はソ連時代であったのでロシア文字表記)を書店で手に入れた。同じく中国新疆のウルムチでウイグル語(アラビア文字表記)で書かれたウイグル語入門書を書店で購入した。これらの本は、勿論、外国人も学習できるが、基本的にはウズベク人、ウイグル人のための概説書であった。翻って、わが日本には日本人向けの日本語入門書はあるのだろうか。図書館でも書店でも見たことがない。(外国人用教科書は沢山あるが、日本語の文法説明は全くない)。たしかに、国文法に関する本や論文、それと日本語論(随筆)は山ほど出ているが、純粋、日本人向けの現代日本語の入門書はまったくない。なぜだろうか。そこに私は国文法の呪縛を感じる。国文法を基本に日本語入門書を書いてもだれも見向きもしない。元々、理解不能な文法なのだから・・。これが現実である。

コメント (2)
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