小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

またまた NHK のトンデモ番組  ― 「 邪馬台国は大和で~す 」 ―

2021年04月21日 | Weblog

  かの小保方晴子の「STAP細胞はありま~す」との発言はいまだ耳新しいが、先月27日、またまた NHK がトンデモ番組を放送した。「古代王権の謎」と銘打って邪馬台国=大和説の学者が次々と登場し、あたかも邪馬台国は大和であることは自明であるかの如く自説を展開した。これは学問論争ではなく、学者政治屋のプロパガンダにすぎない。私がこれまで繰り返し述べてきたように、近年の中国での発掘調査の結果、邪馬台国論争はすでに決着がついたのに。なぜ、いまだに大和説にこだわり続けるのか ・・。その理由を明らかにしたい。

 ー炭素14年代測定はピンポイントでは特定できないー

 この番組で箸墓古墳の近くから出土した土器に付着した炭化物の14年代測定の結果、西暦240~260年(卑弥呼の時代)の数値が出たという。だが、別の学者から炭化物は数値が数百年古く出る傾向があるとの報告もある。だが、そんな報告は無視である。フランスのエジプト考古学でも、時代が特定されているツタンカーメンなどの墓室に置かれていた馬車や椅子などの木製品が炭素14年代測定されているが、どうしても数値が古く出がちであり、14年代測定はピンポイントでは特定できず、大まかな年代が分かる程度であるとの結論に至っている。これが世界の常識である。

 ー箸墓古墳の形状が明らかになったー

 これまでの航空写真では木々に遮られてその形状がよく分からなかったが、近年、レーザービーム撮影などによりハッキリしてきた。それによると箸墓古墳は前方部も後円部も数段の階段状になっており、これと相似形(大きさは様々であるが)の古墳が全国に分布していることも分かってきた。日向、吉備、畿内、関東などにあり、これらは大和政権の全国統一の過程で地方にもたらされたのこと。これは事実であろうが、だからと言って箸墓古墳が三世紀中期の卑弥呼の墓となぜ言えるのか(「書紀」には倭迹迹日百襲姫命の墓とある)。また、これら相似形の古墳のいくつかは発掘調査されており、そのほぼすべてに石室、石槨がある。「倭人伝」のいう倭人の墓は「棺あり、槨なし」と合わないし、卑弥呼の墓は「径百余歩」とある。おそらく、箸墓古墳もその近くの黒塚古墳同様、大きな石槨があるであろう・・。

 -邪馬台国論争に終止符を打ったのは中国の考古学者ー

 邪馬台国=大和説の最大の根拠は大和を中心に畿内から大量に出土している三角縁神獣鏡である。昭和28年、京都と奈良の県境にある椿井大塚山古墳から三角縁神獣鏡32枚、後漢鏡3枚、画文帯神獣鏡1枚が竪穴式石室から出土した。この発掘を担当した京都大学の小林行雄は、この三角縁神獣鏡こそ女王・卑弥呼がもらった銅鏡百枚と断定し、これが今日に至るまで京大系の邪馬台国=大和説を支えている。小林はこの古墳の築造年代を三世紀末から四世紀初頭とした。その弟子の一人、樋口隆康は近年発掘調査された箸墓古墳近くの黒塚古墳から三角縁神獣鏡が33枚出土したことを受けて、「これで邪馬台国は大和で決まり」とまでマスコミに語っていた。(ただし、一枚の画文帯神獣鏡が出ていることは無視、この鏡こそ黒塚古墳の築造年代を特定する唯一の物証なのに・・)

 ちょっと待ってほしい。いつ誰が三角縁神獣鏡は卑弥呼がもらった魏鏡と決めたのか。本家の中国の学者は日本製と言っている。当たり前である。中国からはいまだ唯の一枚も出土していない。それと鏡の神獣文様は魏の敵国、江南の呉地方で流行した文様であり、その中でも一番有名で数も多いのが画文帯神獣鏡である。椿井大塚山古墳や黒塚古墳と同じく、箸墓古墳のすぐ近くにあるホケノ山古墳(この古墳も石組みの「郭」がある)からも画文帯神獣鏡が出土している。つまり、画文帯神獣鏡があるということは、これら古墳が造られた時代は南の呉地域との交流があった証拠でもある。つまり、四世紀以降の大和政権の時代の古墳。卑弥呼や台与が朝貢したのは黄河流域の魏と西晋である。その後、北方・西方からの異民族の侵入により、中国北部は五胡十六国時代となり、江南の呉地方に漢人王朝「東晋」(317~420年)が成立する(首都・建康・・南京)。百済、新羅、高句麗、倭国はこの東晋に朝貢している。この時、もたらされた神獣鏡を元に日本で三角縁神獣鏡が作られたのであろう(当然、この時、東晋から神獣鏡と一緒に銅の原材料も持ち帰ったはずである)。つまり、箸墓古墳を中心とする大和古墳群の築造年代は卑弥呼の時代(三世紀中期)より約100年も後の時代ということになる。

 中国の考古学者から発掘調査の結果による事実、(黄河流域からは三角縁神獣鏡どころか神獣鏡そのものが出土しない、一方、南の呉地方からは大量の神獣鏡が出土している) を突きつけられても、なぜ、京大系の大和説の学者は頑なに拒否するのか。最早、学問の問題ではなく、日本人の持つ精神構造に問題があるのではないかと私は思っている。真実よりも自己の属する共同体(学閥)に対する忠誠心こそすべて。つまり、「師の影を踏まず」、これである。

 実は、これまで何回か中国の考古学者を招いて古代史シンポジウムが開かれている。だが、大和説の学者は、中国人学者の言う「三角縁神獣鏡は魏鏡ではない。元々、北部の魏領域では神獣鏡そのものが作られることはない。卑弥呼がもらった銅鏡百枚は後漢鏡である」(王仲殊著『三角縁神獣鏡と邪馬台国』梓書院) との主張に対して、唯の一度も反論したことはない。出来ないのである。ただただ黙って聞き置くだけである。そして、勿論、自説(三角縁神獣鏡は卑弥呼がもらった銅鏡)を変える気もさらさらない。今でも日本のどこかで三角縁神獣鏡が出土すると、新聞の見出しに「卑弥呼の鏡」との文字がおどる。発掘担当者が京大系の大和説の学閥に属する人だからである。そこで、魏皇帝にこういう鏡(三角縁神獣鏡)を作ってほしいと頼んだのだ・・とか(特注説)、また、最近は邪馬台国は南の呉とも交流があったのだ・・などのトンデモ説を言い出す人まで現れた。もうこうなると学問ではなく小説、漫画の世界である。日本の古代史学者の精神、知性は荒廃の度を増している・・。

 ー追記ー

 司馬遼太郎は言っている「昭和は日本ではない」と、織田信長は畿内を制圧したあと大坂本願寺を攻めたが、その時、援軍としてやってきた紀州雑賀の鉄砲衆に撃ちすくめられて惨敗した。その後、すぐ鉄砲の威力に目を付け、大量の鉄砲部隊を編成した。これが長篠の戦いの勝利に結び付いたことは誰でも知っている。戦国末期には日本の鉄砲保有数は群を抜いて世界一であった。しかし、昭和の日本陸軍は武器の開発には全く無関心で、最後まで三八歩兵銃の銃剣突撃にこだわり壊滅した。完全な思考停止状態であった。司馬はこのことを言っている。(日露戦争に勝てたのも実は日本軍とロシア軍はほぼ同じ武器で戦ったからである。勿論、日本軍も機関銃を装備していた)

 学問の世界とはいえ、邪馬台国=大和説の人は昭和の帝国陸軍同様、思考停止状態に陥っているとしか言いようがない。大和説の教祖的存在であった京大の小林行雄は「近い将来、三角縁神獣鏡は中国から続々と出土するであろう」と予言していた(それも70年も前の話である)。がしかし、小林の予想に反して、今もって唯の一枚も出てこない。だが、かれの弟子たちにとっては教祖様の予言は絶対であり、自説を変えることはない(教祖様が三角縁神獣鏡は卑弥呼がもらった銅鏡と断定されたのであるから・・)。もはや学問というより宗教である。NHKは 自己信念のみに固執する狂信的学者集団に肩入れし、受信料を払っている国民を欺き洗脳している。まさに、戦前の大本営発表である。(今回の番組でも九州説や中国の考古学者の見解は全く出てこなかった)。

 日本国内でしか出土しない三角縁神獣鏡を日本製と認めたら、明治以来、邪馬台国=大和説を基本として書かれてきた著作物はすべて唯の紙クズになってしまう。大和説の学者たちはこれを一番恐れているのであろう。しかし、真実は一つしかない。天動説が地動説に敗北したように・・。欧米人に伍してこれだけノーベル科学省をもらっている日本人なのに、なぜいまだ、このような非科学的精神論が古代史学会でまかり通っているのか・・。本居宣長以来の皇国史観はいまだ日本で生き続けているのである。

  最後に、考古学者・森浩一は最晩年に「自伝」を出版した。その中で、自分は若い頃から三角縁神獣鏡は日本製であると主張してきたが、その学会発表の場で、ある一流大学(その名は伏せてある)の教授から、「どこの素人(シロウト)が・・」と何度も言われたと書いている(森氏は同志社大学出)。森浩一が「素人」なら、中国の考古学者たちは、その教授に言わせると、「 ド 素人」になる。自分の国(魏)で作られた鏡(三角縁神獣鏡)を自国製と認定することすら出来ないほどの無能集団なのだから。日本には卑弥呼がもらった魏鏡とそれを元に日本で作られた仿製(複製)鏡を、虫メガネの鑑定で識別できる神の目を持った学者(阪大教授)がいるのだから・・!? そして、今でもこの教授が魏鏡と断定した三角縁神獣鏡が多くの考古資料館に展示されている。まさに「STAP細胞」の古代史版と言える。これが今なお続く「邪馬台国論争」の現実である。

 

 

 

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